第2話 あさが始まる

「麻人くん、眠そうですね」

 教室に入ると、開口一番、秋野先生がおっしゃった。

「夢見が悪かったんです」と、僕は答えた。

「そうですか」

 秋野先生はそれだけ呟いたっきり、さっきまで読んでいた文庫本にすぐさま目を戻す。

 

 いつもの光景だ。いつもの教室に、いつもの先生。小さな木製の校舎に、うららかな光が差し込んでいる。そして、いつものように、日光を背にして、秋野先生がほほ笑みながら本を読んでいる。


 その姿を見て、僕はふうっ、と息を吐く。


 そして、かばんを置きに自分の席に向かう。

 

 この教室には、5つしか机がない。

 前に1つ。そして、それに向かい合うように、後ろに並んで4つ。

 

 今朝は嫌な夢を見た。

 きっと、それは、この教室に机が5つしかないことにも原因があるのだろう。

 

 それを考えると、やりきれない気持ちになってきて、僕は4つの机のうちの左端の席に、かばんをたたきつけるように置いた。

 胸から腹のあたりにかけてが気持ち悪い。まるでなにかがつかえているかのようだ。

 

 僕のそんな異変に気づいたのか、秋野先生が文庫本から目をあげて、

「どうしたんですか?」と尋ねてくる。聡い人なのだ。


 だけれど、あまり人に言いたい感じの夢ではなかったので、

「いえ、なんでも」

とごまかして、

「それより、先生はさっきから何を読んでいらっしゃるんですか?」と話題を変える。


「宮沢賢治詩集ですよ」

「詩集?」

 思ってもみなかった言葉が返ってきた。先生のことは前から現代離れしている人だと思っていたが、今までその類いの本を読んでいるのは見たことがなかったのだ。


「ええ。詩集です。この詩集はいいですよ。宮沢賢治といえば『銀河鉄道の夜』や、『注文の多い料理店』なんかの物語が有名ですが、その実、彼は詩人の一面も持っています。非常に実力のある詩人です」

「へえー」

 へえー、という他ない。

 うん、とうなずき、先生は話を続ける。


「例えば、この『春と修羅』という詩はすばらしい。読み上げますと、

『心象のはひいろはがねから

 あけびのつるはくもにからまり

 のばらのやぶや腐植の湿地

 いちめんのいちめんの諂曲模様

 (正午の管楽よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

 いかりのにがさまた青さ

 四月の気層のひかりの底を

 唾し はぎしりゆききする

 おれはひとりの修羅なのだ

 (風景はなみだにゆすれ)

 砕ける雲の目路をかぎり

  れいろうの天の海には……』」


「……もういいです」

 気持ちよく読み上げていた先生は、音読を止められ、一瞬きょとんとする。

「どうしました?」

「単純に、長いです」 

「長い?」

「それに、意味もわからないです」

 言うと、先生がはあ、と息をもらす。

「まあ、そうでしょうね。私も、君の年頃ならわからなかったでしょう。こういうのは、ある程度年をとって読むからいいものです」

 自分で勝手に読み出したくせに、ずいぶんな言い草だ。

 僕がそう思って少しにらんだのに気づいたのか、先生は咳払いをして、あわてて言う。


「では、要点だけお伝えします。わたしは、この『春と修羅』の中で、

『俺はひとりの修羅なのだ』というフレーズが特に好きです。そのリズムと、語感が。 

 『修羅』というのは、1つの意味として、『激しい怒りや情念のたとえ』というものを持ちます。

 つまり、宮沢賢治は『俺はひとりの修羅なのだ』という言葉で、『俺は孤独な人間で、世の中に激しい怒りを抱いているんだぞ』と言ったんだと思うんですよ。

 君はどう思いますか?」


「……どうも思わないです」

 そう返すと、先生は少し妙な顔をして、

「……そうですね。詩は意味がわからないし、『ポエミー』などと言われて、少し恥ずかしいものかもしれません。

 でも、確実に日本で、世界で、何百年、何千年続いてきただけの理由はあります。

 一生読めるものですから、ぜひ買って読んでみてください」

 

 そこまでおっしゃったところで、教室の扉がガラッと開く音がして、

「おはよー、っす」

「お、おはようございます……」

と男女の声がした。

 

「修司くん、景さん、おはようございます」

と、秋野先生が出迎える。


 朝がはじまったのだ。



 胸の中で、さっきの言葉が反射する。


……俺はひとりの修羅なのだ。

俺はひとりの修羅なのだ。

おれはひとりのしゅらなのだ……

  

 

 僕は嘘をついた。

 さっきの言葉は、予想外に自分の心をゆらしていた。

「俺は孤独な人間で、世の中に大きな怒りを抱いているんだぞ」という、その意味がだ。

 今の僕の心をそのまま表している。

 

 

 小川麻人。15才。中学3年生。

中学1年生の頃から学校に行けなくなり、現在、不登校中。

 秋野聡一の経営する「秋野塾」に通っている。

 


 俺はひとりの修羅なのだ。


 暗い道を歩いている自分だけれど、時にこうして、自分を表すなにかに出会えることもある。

 

 今日は詩集を1冊買って帰ろう、と思った。

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