やまぬ緑を引き連れて

 振り返ると闇があった。山脈が陰を落とす。鬱蒼とした森で草葉がざわめく。手に負えない混沌が広がる。話し合おうとした緑の鯨が辺りをまとめて無造作に飲み込む。語る口がない。逃げるしかない。這いずり引き千切り抜け出した。


 歩くと種が落ちた。足跡から芽が生える。ぼくが歩いた道は緑に染まる。

 生まれる草むらと戯れていた頃があった。幼かったのだ。芽吹いたばかり植物が、ふかふかと柔らかな緑の絨毯を作る。振り向けば新芽は日差しを受けて輝く。進むほどに鮮やかになる景色が好きだった。ひだまりの中ですくすくと育つ若芽たち。

 植物の成長は早い。共に遊んだ見分けもつかない双葉の群れ。背比べをしながら過ごしていたが、あっという間に追い越された。そのうち自分の居場所もなくなってきたので、増えに増えた草むらを刈り払えば空いた隙間に枝を伸ばす。陽光を求めて陰を作る。夏の盛りに、暮らしていた家が植物に占拠された。住処を捨て、以来どこまでも緑色の道を作る。振り返れば森がある。そして遠くに山。去った地は、今や聳える山となり、進路に陰を落とす。陰の中で新たな種が次々と芽吹いていく。辿った道は掻き消されていく。戻ることはできない。飲まれてはいけない。光の射す方へと走る。ひだまりの中に飛び込んでは陰に覆われることの繰り返し。すっかり疲れてしまった。けれど戦わなければ飲み込まれるだけ。

 道、森、そして山。遠方に霞む山は成長を続ける。時に崩落し、森を潰し、迫り来る。新たな地盤を作り、にじり寄る。草木が手を伸ばす。薙ぎ払う。どうして戦っているんだっけ。相手はこの身から生じたものなのに。この草木はぼくだろうか。いいや、身体から離れたらそれはもう繋がりはない。ぼくはぼくの身一つしか持っていない。彼らはぼくじゃない。だから戦う。

 草木よ、きみたちだってぼくから切り離されたというのに、なぜ追って来るのか。


 手入れされた庭を見た。緑に微笑むひとがいた。緑との共生。何が違ったというのか。襲い来る野山を背負っている。身からこぼれ落ちた厄。ぼくは過去と戦っている。

 野山になる前に向き合うべきだったのだろうか。鋏を持って枝葉を落とし、増えすぎないよう間引き、時々刈り払う。それでも考えられただろうか、庭が山になるなんて。種蒔く人を見つめる。ぼくはぽとぽとと種を落とした。早送りで育つ植物たち。季節がのろのろと過ぎていく。ぼくは逃げる。木陰で休むひとを飛び越えて。

 幸い世界は広くてぼくはちっぽけだった。どこにでも行けて、どこに行っても憂鬱で、どこからでも暗い山脈が見えた。


 緑が生きられない場所に行く。種を落とすけれども芽吹くことはないだろう。カサカサになりながら砂漠を進む。ぼくはここで一本の花になり朽ち果てたい。

 灼熱と極寒を繰り返し生物たちが地に伏した。祈りの姿勢。すぐに雨雲がやって来て、ぼくの頭にぽつりと雨が当たり、今度は轟々と降り止まない。鏡面になった大地から水が引くと草の道が出来上がっている。ぼくは逃げる。

 山深くに潜ろう。元から住む逞しい植物たちは新たな芽を拒むことだろう。薮をこぎ谷を越え崖を登ってまた下る。幾つかの峰を越え雲に届く山の頂から見回すと、見慣れた黒い山脈がお辞儀した。ガラガラ崩れて寄って来る。

 ならば、楽園に行こう。海藻に足を絡め取られながら泳ぐ。海のまんなかにぽつんと浮かぶ楽園に。花に囲まれ安らぎの風が吹き渡る。そこに黒い雲がやって来てぼくを見下ろす。ここは楽園だけれども、ぼくがぼくであることには変わらない。逃げることに疲れてしまった。戦いは無意味と悟る。相手にするには強大すぎた。やっと気付けた。相手にするべきではないと。ならばどうする。浜辺に転がり暗雲とにらめっこ。しばしの休息。陰が光を遮って寒い。楽園の風が肌を刺す。島に聳える火山の裾から緑の手がぬうっと伸びる。穏やかな風に気力を失い立ち上がれない。寝転がったまま迫る陰を睨む。あれは元はぼくだ。ぼくは草木だ。一つの山になってしまってもいいのではないか。そうだと言わんばかりに緑が騒いだ。楽園の朗らかな緑とは異なる、項垂れ湿度の高い顔ぶれ。この海辺で眠り続けて星になれたらいいのに。しかしぼくは楽園の土には還れない。ここは楽園だけれども、ぼくが住むべき地ではない。

 ぼくはぼくでありたい。かつての自分は過ぎ去った。過ぎた時間は落ちた場所で芽吹いて育つ。光があり陰もあり、恨みも嘆きも絡めて枝を伸ばす。厄をまとった姿に憐憫を向けることなく、諦めることなく、戦うでもなく、こいつはぼくではないから、ぼくは逃げる。さらば楽園。今この瞬間に必要なものを、大切にしているものを抱えて走る。削ぎ落とした身体一つで走っていく。


 誰かが楽園と呼んだ地を幾つも飛び越えた。手入れされた庭園も遠のいて。穏やかには生きられない。空は暗くて背中は重い。俯きもする。緑の口には何度も飲み込まれる。それでも海を渡り、空を越え、虹や雨雲を踏切板にして跳んでいく。

 草に溺れるごとにうっすら気付く。本当は追いつかれることなんてないんだ。崩落する山ですら残照。過去が現在に陰を落とすのだ。呼吸が苦しい。草の海に阻まれ先が見えない。けれども呼吸を整えたら立ち上がる。その時ばかりはぼくは風だ。草木をすり抜け、山を鳴らす。天高く、藍色の気流に乗って吹き抜ける。


 大地に陰が落ちている。光を失った土地はやがて朽ちる。見知った景色が消えていく。見送ることしかできない。時間が場所を食らう。過去が砂になり吹き飛んだ。ぽつりぽつりと穴が空く。空間に植物が手を伸ばす。覆っていく。なんという生命力。暴飲の口から逃げるのだ。厄と語る口は持たない。

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