3-55

――――全ての風がその時、止まった。


俺が息を吸う一瞬。木々の合間に眠った虫達が覚める間のことなのかもしれない。皆の声も足音も聞こえない。

そうして意識が戻った時、俺の耳へ最初に飛び込んできたのは泣きじゃくるスーの声だった。


「お母さん……お母さんっ! 先生、助けて……! 傷口から血が止まらないよ……どうしたらいいの? ねぇ……っ!」


ファリーの首や胸から腹部にかけて生えていた黒い結晶は確かに消滅していた。彼女の精神を蝕んでいた原因を取り除くことは出来ていた。

だが、それで解決したと思うにはまだ早かった。

結晶が無くなった場所には本来的あるはずの肌も皮膚も鱗のどれかさえ残らず、彼女の体は無惨にも縦に引き裂かれてしまっていた。結晶を取り出した後に何もない大きな穴が空いてしまっていた。


「お母さんを助けて! 先生……!」


スーが両手で押さえても対格差から収まる気配はない。傷口の虚孔(あな)は奥から嘲笑っている声が聞こえるかのよう。滝のような血をどくどくと溢れ出させている。

回避したはずの危機が別の方角から襲い来る感覚にふらついてはいられない。


ファリーを狂気で縛り操っていた漆黒色の鉱石は、奇しくもこの世界で一番最初に……誘拐されたスーやアプスを守るために路地裏で使った光の魔法によって取り去ることができた。

それが何を意味するのかはっきりとはまだわからないが、きっと真っ先に発動出来るようになったからには重要な魔法なのかもしれない。

一帯が強く発光するだけの魔法ではなく、ファリーに取り憑くように生えていた本来あるべきではない悪しきものを除却する力があることは確実だ。


そして、この力こそ命を落としたマグがファリーを鎮め救うために俺に託した力なのだとも考えられる。

もしかすると俺はこのために異世界の地を歩むことになっているのかもしれない。次与えられた使命を自覚できるような要素の一端を頭のなかで繋ぎ合わせている。

そうあって欲しいとも願うかのように。


悪しきもの……彼女の記憶にあった魔王(ミナリス)を覆い、俺(マグ)の頭の横にもついている結晶は確かにファリーを悩ませていたものと同じに見える。

しかし、発光魔法を浴びても俺の頭にはまだ結晶の角は生えたままでいる。同じものならば今までのうちに消えてしまっていてもいいはずなのに。何故あるのか。


それを考えている間にも、事態は収束とは別の方向に向かっていた。


「ファリー……?」

「お母さん……っ」


目の前で起きていることは自分が引き起こしたことに違(たが)わない。

彼女を救うと決め、彼女を救うためにこの場所にいるのだと自覚して来たからには、ジンガ達が託してくれたからには。俺自身がこの問題を解決しなくてはいけない。するべきなのだ。解っている。


「くそっ! なんで……! このままじゃ夢の中と同じ別れになってしまう……どうすれば……」


容態が悪化する母竜を前に心配の感情が焦りに変わり、爬虫類のガラス玉のような目に涙を浮かべるスー。胸を痛めながら俺はファリーの傷を凝視する。


大きな体にできた穴をすぐに塞ぐ方法は、ない。治癒の魔法を使える蛇十字(リントヴルム)の者も近くにはいない。

治癒魔法が使えるとすれば倒れて苦しんでいるファリー自身だが、見るからにそれは厳しい。

次の手はどこか別の場所へ、今いる全員で彼女を運べるかどうか。自身は一人ではない。協力してくれる騎士たちと、多くの仲間がいてくれている。ならば解決の糸口は思考を外側にすれば広がってゆく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る