20
ヘルマンはプルガトルから戻ってきてから仕事が少し楽になったようでそれまでよりも帰宅が早くなっている。だからこの日もルーテシアは起きてヘルマンのことを待っていて、夕食を食べるのに付き合っていたのだが。
「…………」
「……………………」
この日は他の日に比べて静かだった。それもそのはず。いつもは饒舌に喋り倒すルーテシアだが、ヘルマンの顔をじーっと見つめて言葉を発しないのだ。
「……………………」
「…………どうか、なさいましたか」
とうとうヘルマンが口を開いた。食事中にヘルマンが口を開くなんて珍しい。ルーテシアは驚いたように何度か瞬きをしてから、自分が何も喋っていなかったことに気がついた。
「あ、ごめんなさい」
ルーテシアはまさか自分がヘルマンを見つめていることに気がつかれると思っていなかった。どう誤魔化そうかと頬を赤らめながら考える。
「えっと、何の話をしていたんでしたっけ。前髪の話でしたっけ」
「前髪?」
ヘルマンは眉間に皺を寄せた。ヘルマンの記憶では食事を始めた頃のルーテシアは本の補修について語っていた。決して前髪の話はしていない。
ルーテシアは口にしてからしまった! と言いたげな表情を浮かべる。ヘルマンはルーテシアを両目にでしっかりと捉える。
「……私の前髪について、何か?」
ヘルマンの問にルーテシアは頭を抱えた。どうやらヘルマンの前髪を見つめていて、失言によって本人に知られてしまったことが恥ずかしいらしい。
顔を上げたルーテシアは耳まで真っ赤だった。
「……すみません」
「怒っているわけではありませんよ」
ヘルマンはいつもと同じ落ち着いた声だ。
「何か変だったので見ていたのですか?」
「変だなんてそんなことありません!!」
ルーテシアは誤解されないように必死に首を左右に振る。
「ただ……」
これは腹を括って説明するしかない流れだ。ルーテシアは自分の迂闊さを呪いながら渋々口を開く。
「ヘルマン様って前髪が長いなあ、と思いまして……」
ヘルマンは目が隠れてしまうほど前髪が長い。訓練を見学した時も邪魔にならないのか疑問に思っていたし、先日プレゼントしたハットを被った時もより前髪が下がって鼻先につくのではと思うくらいだった。
ルーテシアは目にかかりそうになるとすぐに切ってしまうので、鬱陶しいのではと心配だったのだ。
「私は長いほうが落ち着くんです。でも……そうですね。流石に少し長くなってきましたか」
ヘルマンは食事を終わりにして自分の前髪に触れる。
「次の休みにでも切ってもらいます」
「……あの」
ルーテシアはヘルマンのことを上目遣いに伺いながらおずおずと手を挙げる。
「よかったら私が切りましょうか?」
「ルーテシアが?」
ヘルマンが意外そうな顔をしたのを見てルーテシアはまた失言をしてしまったかと慌てる。
「あ、大丈夫ですよ! 一応自分の前髪はよく自分で切っているんです! 流石に髪の毛全体となると難しいですが、前髪くらいならできると思います!」
ルーテシアはヘルマンが自分の能力を疑ったのではないかと勘違いしていた。ヘルマンは考えるようにしばらく口を閉ざした後、
「それではお願いします」
と、了承した。
シャキ、シャキという小気味のいい音と共にハラハラと紫色の髪の毛が落ちる。ルーテシアはヘルマンの前髪が変にならないように細心の注意を払いながら、しかし時折不自然に視線を彷徨わせていた。
(考えが足りなかったわ……!)
夕食を終えてルーテシアの提案通りにヘルマンの前髪を切ることになったのだが、実際に切り始めてわかったことがある。距離が近い。
毎日見ているはずのヘルマンの顔だが、じっと直視するとまた別の印象を受ける。前髪を切るために持ち上げると普段は隠れている目や眉、額も目にすることとなり、その端正な顔立ちがよく見えた。
(結婚式の時を思い出すわ)
結婚式の時もヘルマンは髪の毛を後ろへ流していたので顔がよく見えた。あの時もかっこいい人だと思ったのだが、こんな近距離で見たわけではない。距離が近いとその分もたらす精神的破壊力もすごいのだとルーテシアは初めて知った。
切った前髪が目に入らないようにヘルマンは目を閉じている。まつ毛が長いことがわかって、ルーテシアは見惚れそうになる欲求と戦わなくてはいけなかった。
どぎまぎしながらも前髪を整える。ルーテシアにとっては長く感じたが、案外と時間はかからないものだ。切り終わったところで、ルーテシアはヘルマンの顔に僅かについてしまった髪の毛をそっと払う。
少し瞼や頬に触れただけで心臓が爆発してしまいそうだ。
(綺麗な顔……)
ずっと見ていても飽きないのではないかと思うくらい端正な顔立ちだ。髪の毛を払い終わって、声をかけるタイミングが遅れるほどルーテシアは目を離せなくなってしまう。
と、予兆もなくヘルマンの瞼が持ち上がる。髪の毛よりも深い、宝石のような紫色の瞳が頬を赤くしたルーテシアの顔を映す。
「……終わりましたか?」
「あっ……はい!」
ルーテシアは慌てて視線を逸らした。ずっと見ていたことに気がつかれていないだろうかと、心臓が居心地の悪い音を奏でる。
「ありがとうございます」
ヘルマンはそっと自分の前髪に触れた。ルーテシアは弾かれたように立ち上がり、手鏡をヘルマンへと手渡す。
「ど、どうでしょうか? 切りすぎないように注意しましたが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
受け取った手鏡で一瞬自分の顔を確認すると、すぐに手鏡をテーブルの上に置いてお礼を言った。ルーテシアは、ヘルマンが前髪を伸びているのをしばらく放置していたり、自分の容姿にあまり関心がないのかもしれないと思う。
(端正な顔立ちをなさっているのに……)
自分のことを地味な髪色で平凡な容姿だと思っているルーテシアからするともったいないように感じる。もっと気を使えばもっと素敵になるかもしれないのに。
(いや、ダメだわ)
そうしたらヘルマンに想いを寄せる女性が増えてしまいそうだ。それはルーテシアにとってはあまり面白いことではなかった。
「ルーテシアは器用なんですね」
ふいにヘルマンがそう言ってルーテシアの前髪に手を伸ばす。考え事をしていたルーテシアは反応が遅れてしまった。
「えっ……」
「私は自分で前髪を切るなんてできる気がしません」
前髪をふわふわと触られてくすぐったい。ルーテシアは頬を赤らめたまま目を細める。
「これからはルーテシアに切ってもらうというのもいいかもしれません」
突然のお願いにルーテシアの心臓が跳ねた。
「それは構いませんが……」
でも毎回切っていたら自分の心臓が持たないかもしれないとも思う。
「私は素人なので、やはり数回に一度は手慣れた方に切っていただいたほうが……」
「変になっても気にしませんよ。でも、そうですね。毎度となるとルーテシアの負担になってしまいますね」
「そんなことは……」
一応否定しながらも、自分の心臓のために強くは言えない。ヘルマンの手がルーテシアの前髪から離れて、ようやくちゃんと息をすることができた。
(心臓に悪いわ、ヘルマン様……!)
それからしばらくルーテシアはヘルマンの顔が頭から離れずに、思い出す度に照れてしまうので困ったことになったのだった。
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