めぐまれたひと

 銀のスプーンを手にして生まれてきたような出自だった。両親からして、求めうるものは全て所有していたらしい。学歴、安定した年収、山手線圏内の高級住宅。環境は、少年に実に単純明快な影響を及ぼした。つまるところ、彼はまっすぐに育て上げられてきたようだった。


 最初の出会ったのは、お互いが大学一年になったばかりか、その少し後だったように思う。記憶が曖昧なのは、当時の彼との距離感を反映している。講義の合間に何度か会話した程度だったが、それだけでも前向きで快活で善良で、女には不自由してなさそうだなと思ったことを覚えている。


 半年ほど経ってから、大学図書館の地下の一室で出くわした時は、同じ人間だと瞬時に判別できなかった。同じ顔と服装でも、いで立ちがどこか例えようもなく卑しめられている。自信なさげで一挙一動が安定していない。生まれながらの陰キャという感じだった。

 自分でも不思議だったが、なぜかその時はやけに親密に会話をした。今思えば、自分に似た部分を感じたのだと思う。詳しい事情までは踏み込まなかった。ただ、金には相当困っていたようだ。家族のことは一言も話したがらなかったので、おそらくそのあたりで何かあったのだろうと勘繰ったが、深入りしないだけの知性は当時の自分も持っていた。もう何日もまともに眠れないと愚痴を言ったので、別れ際に持っていた睡眠導入剤をわずかばかり手渡してあげると、口ごもりながらも感謝された。限界になったら使わせてもらうと言っていたが、次に会った時にはさらに強いものを常用するようになっていた。


 それからも何度か会った。サシで安酒を酌み交わすこともあった。市販薬の過剰摂取を濃いハイボールで流し込むさまがすっかり板についていた。他愛も益も無い話をした。前向きな思考が頭をよぎったりはしなかった。世の中も人生も結局は悪化の一途を辿るものだと信じて、質の悪い暗い冗談を言い合った。


 風向きが変わったのは大学三年目の冬だった。長い酔いが醒めたかのように、彼は黙々と就活の準備を始めた。部屋中に散乱していたブロンの空き瓶やらストロングゼロの空き缶をゴミ袋に詰め込みながら、これが最後のやり直せる機会だと言って寂しく笑っていた。自分は、幸運を祈るとだけ返した。


 就活はうまくいったようだった。知っている限り、周囲で彼より待遇のいい会社の内定を貰った奴はいないとさえ囁かれた。

 入社から一年ぶりに同期で集まった時、彼の風采は四年前のあの時とそっくりだった。疎遠にこそなったが、これで良いのだと思った。前向きで快活で善良な真人間が一人この世に戻ってきたのは素直に歓迎すべきだと感じた。その日は近寄って話すことも無く終わった。


 かなりしばらくしてから、別の友人経由で消息を知った。働き過ぎで心身をすっかり壊して休職したらしい。迷うところはあったが、意を決して久しぶりに連絡を取った。

 みすぼらしい友人と再会して、お互いに力なく笑った。長らく忘れていた悪酔いを舌の上で感じながら、歳月が何一つ進歩をもたらさなかったのを、二人で確信しあったりした。あまり口を開くことはなかった。もう今となっては、そうする必要さえ感じなくなっていたからだった。

 別れ際に、思い出したかのような気休めの言葉をかけた。


「まあ、またツキが回ってくるのは待てばいいさ」

「ありがとう。でも、もう要らないかな」

「疲れてるな」

「かもね。もう浮いたり沈んだりしたくないな。何というか…安らぎたい」

「そっか」


 寂しく笑う彼の眼は、悲しいほど歳を取っていた。


 程なくして、彼は失踪した。最後に聞いたのは、出所不明の噂だった。完全に行方をくらます少し前、遠縁の親戚が亡くなり、彼にもかなりの額の遺産が相続されたということだった。そんな話を聞いて、私は彼が影へと消えることにした理由が分かった気がした。


 こうして今でも時折、私はあやふやな追憶の中に彼の姿を見つけ出す。いつかお前を忘れてしまうだろう。だが、そんなことはどうでもいいことを私は知っている。最後には、二人揃って年表にも載らない時の流れの暗がりに消えるのだ。

 その暁には、どこでもない場所であのおぼろげな会話の続きをすることにしよう。

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