こどもの時代
周知のように、庇護と教育の必要な、大人とは質的に異なる存在としての子ども、という概念は、歴史的にはそれほど普遍的ではない。
一例を挙げる。中世ヨーロッパにおいては、子どもとは「小さな大人」として扱われていた節がある。子どもの着る服は単純に大人の着る服をダウンサイジングしたように仕立てられており、脱ぎ着や排泄等のための機能性を考慮したデザインはあまり見られない。教育については、活版印刷の普及以前は大人でさえ文字に触れる機会は近代以後よりずっと少なく、子どもについては推して知るばかりである。
聖母子像を題材にした宗教画において、幼いキリストやヨハネの描き方などにおいても、これは顕著である。ルネサンス以前に描かれた彼らの姿は、等身は高く、顔つきは精悍で、大人と同じ服装をしている。端的に申し上げて、かわいくないのである。
ルネサンスや啓蒙思想の発展に伴い、「子ども」の概念は形を変え始める。ルソーが『エミール、または教育について』を著したことで、子どもの意味はほぼ現在の形になった。教育学が成立し、未成年の概念が近代法の中で生まれた。
「大人」と「小さな大人」の時代と、「大人」と「子ども」の時代。過去と未来への永遠に続く歴史は、存在し得るもう一つの、第三の時代を示唆している。「子ども」と「大きな子ども」の時代を。全ての人間はそのサイズに関わらず庇護され、教育を与えられるべきものとなる時代を。
聡明な読者の皆様方はお気づきだろう。ひょっとすると、その時代は既に訪れようとしているかもしれないことを。一つになろうとしているこの世界では、大人と子どもの垣根は再び取り払われようとしている。
歴史はくりかえす、円環の時間という概念を好む読者もいるだろう。再び「大人」と「小さな大人」の時代が来るという予感もまた魅力的であり、捨てがたいのは確かだ。未成年の厳罰化を求める声とか。もっともこれは、叫ぶ側が子どもに近づいた故かもしれない。
私はというと、こういう時は円よりも三を好む。第三の存在は三トリニティという神秘的な数を示唆し、歴史の先に佇むある超越した存在へと我々が流れていくとすれば、人間は進歩していくという期待を持つのも、悪くはない。
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