第25話

 天満宮のため池に伸びる水上橋には、蝋燭の燈火が点々と並べられていた。それらは、六角舎まで淡い光で足元を照らしながら続く。そして、先に見える六角舎の中からはオレンジの光が漏れていた。


 水上橋を歩いていく。右、左、左、右、右、左、左、右。いつだってこの橋は、真っ直ぐに行かせてはくれない。木の板は相も変わらず軋んで悲鳴を上げ、冬の風が小鼻に痛い。

 マフラーを口元まで上げて、俺は六角舎に入る。


 「や、悠太君。さっきぶり。」


 綾芽はカラッとした声をかけてくる。なぜか制服の上にコートを着た姿で、いつものもふもふのマフラーを首に巻き、ピンクのブランケットでさらに体を覆っていた。足元にはランタンが置かれている。


 「うん。」

 「なーに、元気ないの。寒いもんね。」

 「ああ寒すぎるよ。」


 吐く息が全て白く立ち昇る。俺はさらにマフラーで顔を覆う。辛気臭い表情を見せたくなかった。俺は六角舎内の空いたベンチ————綾芽と向かい合うベンチに座って、話題を探す。

 どうしてこの場所なのか。そう訊きたがったが、何を訊いても「今日が最後」という意味がしがみついてきて離れてくれそうにない。頭の中で再生してみても「最後の日に、なんでここなの?」と質問が勝手に形を成していく。

 俺が一人頭を小さく振って、よぎってしまう思考を払っていると綾芽は自分から説明を始めてくれた。


 「ここが一番好きな場所なの。池の真ん中に浮かぶ小島みたいで、春には桜並木が、秋には紅葉が池の周りを廻っているのを独り占めできてさ。夏の晴れた日だったら池が鏡みたいに青くなって、なんだか涼しい気分になるの。」

 「冬は?」

 「そうねえ、冬……、冬は静かな夜に冷たい風、世界から隔絶された静の世界って感じがするかな。」


 静の世界。その表現は、今周囲に広がっている景色や温度のためにあるかのようで、ストンと胸に落ち着いた。

 耳を澄ますと、車の走る音が微かに聞こえ、森のカサついた音が時々思い出したように鳴る。


 「ねえ。」


 綾芽の弾んだ声が静寂を破る。


 「水上橋の蝋燭見たでしょ? どう、綺麗だったでしょ、感動した?」

 「うん、びっくりした。春とか秋にライトアップするときのだろ、やっぱり風情が出ていいよな。」

 「そうでしょそうでしょ。私が全部用意したの。粋な演出だと思わない。」

 「ロマンチストだな。」

 「なんかそれ、バカにされてるような気がする。」

 「してないって、感心したんだって。」

 「ほんとにぃ? 最後だからって過剰演出とか思ってない?」

 「……思ってないよ。」


 綾芽が軽く言葉にしたものに、俺はとまどってしまう。最後だなんて思っていない、意識していないはずだ。だから俺からはそれを話題にしようとは思わない。していいのかも分からなかったから。

 冷たい風が吹きさらし、じっとしている身体が表面から冷えてきた。内側の熱が対抗しようとするが、気分が沈んでいく一方だからか全く打ち勝ちそうにもなかった。俺はかじかみそうな手をポケットに入れた。


 「そうだ。カイロあるよ。」


 綾芽はブランケットの中に潜ませていた手を出して、シャカシャカと振って見せる。


 「余ってるの? ありがたく頂戴します。」


 俺が右手を伸ばしたが、


 「ダメー。」


 届きかけた瞬間、またブランケットの中に綾芽の手は隠れされてしまった。そうする綾芽はいたずらっぽく笑みを浮かべる。


 「え、なんで。いじめ?」

 「うんとね、寒いからこっちに座ること。それが条件。」


 そう言って綾芽は空いた左隣をポンポンと叩いた。浮かんだ笑みは勝気なものになっていた。俺は出した手を引っ込め、またポケットに手を入れて綾芽をにらみつけてみる。しっかりと合っている綾芽の目は、細められていて挑発しているようだ。


 「どうしたの、はやく。寒いんだから寄せ合いっこした方がいいでしょ。」

 「あーもう分かった分かった。」


 俺はできるだけ声を張って立ち上がる。もう自棄だ。

 綾芽の左隣まで行って、俺は飛び降りるように勢いをつけて座った。そうやって、座った勢いで綾芽の肩をグイと押す。身を寄せても、冷えた表面と表面はすぐには温かくならない。


 「ほれ、カイロ。」

 「あ……、うん。」


 綾芽は戸惑いがちに、俺の出した右手に人肌以上に温かいカイロを置いた。すぐに引っ込んだ綾芽の手は、ブランケットの中でもぞもぞしている。

 俺も、痛い指先を包み込むようにカイロを両手で握りしめる。さっきまで寒かった肩は、右から優先的に熱を作り出しているようにあっという間に体温を上げていく。それは背中まで伝わってきて、全身に広がっていく。


 「おい、何とか言えよ。」


 綾芽はモジモジしていた手を止める。強気な態度だったものが、打って変わって大人しかった。


 「いやあ、どうせ来るだろうとは思ったけど、こうとは思ってなかったから。」

 「こうって?」

 「こう、今の状態?」

 「寒かったんだろ、これならちょっとはマシだ。」

 「うん……。」


 小さくこくりとうなずくと、綾芽は避けていた体重を寄せてきた。体温はますます上がって、冬の寒さも感じられなくなりそうだ。もう右手は寒くはなかった。まだ冷たい左手にカイロを移す。渡されたときは熱いくらいだと思ったのに、今は触れあっている肩の方が熱かった。

 綾芽が右手首につけた時計をチラと見た。時刻の確認。そう、今は時間が大切だった。

 そのときは、あと十分ほどに近づいていた。


 「ねえ、せっかくだから訊きたかったこと訊いていい?」

 「何?」

 「うーん。」


 自分から言い出したはずなのに、綾芽はランタンに視線を落として考え始めた。


 「よし。」


 そして、意を決したようにうなずいた。


 「ねえ、悠太君。私のこと、好き?」

 「はあ⁉」


 固まってしまった手からカイロを落としてしまった。思わず作ってしまった綾芽との隙間に冷たい空気が入り込んでくる。


 「な、なに言ってんだよ急に。」


 俺は落としたカイロを拾い上げながら、どうにか取り繕う。


 「一回訊いておきたかったの! だから、私のことどう思ってるの。」

 「どうって言われても、そうだなあ……。」


 俺はどう思っているのだろう。嫌いではない。でも、どういう好意なのか。好意にも様々な種類があるが、自分のそれがどれに分類されるのか考えたこともなかった。頭の中が目まぐるしく動き出しはするが、顔から熱くなってきてまともに処理できそうになかった。


 「いいや、やっぱいい。私が言う。」


 戸惑っている俺にじれったくなったのか、綾芽が勝手に続ける。


 「私はね……、好き、になりそうだったかも。」

 「はい?」


 なんとも掴みどころのない言い方に、俺は身構えていた身体からふらっと力が抜けた。


 「いいの! 私もやっぱりよく分かんなかったから!」

 「なんだよそれ。」

 「だって悠太君って、特別カッコイイわけじゃないし、運動神経も大してよくないし、背も私と同じくらいだし、地味だし、ビビりで口うるさいし、友達少ないし、成績良いのはムカつくし。」

 「最後のは褒めてほしいんだけど、全体的には傷つくなあ。」


 早口でまくし立てる綾芽は、マフラーに隙間を作って、そこを手で仰いでいた。そっぽを向いていて俺からは今の表情は見えなかったが、「ああもう暑いったらありゃしない。」と小言を言う綾芽が可笑しかった。


 「でもね、話してて一番楽しかったかも。だから、この運命もいいところだけ見たら良かったのかなって思う。」

 「どういうこと?」

 「ん? だってさ、こんな訳分かんないことがなかったら、私、絶対に悠太君なんかに声かけないもん。」

 「そうだな。少なくとも俺から関わることはなかったな。」

 「だね。」


 自嘲気味に言ってみると、綾芽もクスリと笑った。だからやはり、結果はどうであれ知り合えて楽しかったのは間違いないと思えた。


 「じゃあ、次は俺の番。」

 「どうぞ。」

 「……ちょっと聞きにくいんだけど————」

 「はいはい、そういう前振りはいいから。」


 急かされた俺は、思い切って訊いてみた。


 「綾芽は、怖くないの?」


 ずっと訊きたくて、ずっと訊けなかったこと。自分の運命をどう思っているのか。それに、もうあと少しだというのに、こんなに普通に話しているのも不思議だった。もっと、こう、何か————、


 「もしかして、私が泣いたりすがったりすると思ってたの?」

 「いや、そういうわけじゃ……。」


 また、考えていることを見透かされてしまった。こういう勘もいつも通り冴え切っている。


 「いいのいいの。たぶんそれが普通の反応なんだと思う。でもね、分かりやすく言うと、実感がないの。あと十日です、あと一日です、あと一時間です、って言われても、ほんとにそうなのか、感覚がないの。」

 「そう、なんだ。」

 「そうそう。お腹は空くし、喉も乾くし、眠たくもなるし、ダラダラしたくもなるし、宿題しなきゃって思うし、来週のドラマも気になるし、友達と電話だってするし、なーんにも変わらないんだもん。だから、怖いも何もないってこと。」

 「もしかしたら、このまま何もなかったりして。」


 俺が冗談交じりで言ってみせるが、綾芽の横顔には真剣みがあった。


 「ううん、それはないと思う。実感はないんだけど、本当なんだなあとは思えるの。だから、たぶん、ね。」

 「……」


 その「ね」には、俺の期待を裏切るものが詰め込まれていた。否定しようにも否定できないものが。どうにかしてそれを取り除こうとしても俺にはできない。これまでの誰もできなかった。

 すると、綾芽は不意に体をのけぞらせるように背伸びをした。うんと張り詰めた身体が、吐かれる息とともに緩む。六角舎の屋根にはランタンの灯が当たり、外の風がそよぐ。

 もう一度大きく息を吸って吐いた綾芽は、再び右手の腕時計を確認した。

 そして、その右手の小指が立ったまま俺の方へ向けられた。


 「ほら、悠太君も。」

 「ん?」

 「だから、手、出して。」


 俺は言われるがままに右手を出して、小指を綾芽の小指と絡ませた。


 「指切拳万、嘘ついたら針千本呑ーます、指切った。」


 右手を振りながらおなじみの歌が唱えられると、パッと小指が解放された。


 「いい? これで約束したから。」

 「え、今なに約束したの俺。」


 分からないままに、何かの約束が成立してしまったらしい。やりきった綾芽は、歯を見せて子どものように笑う。


 「約束! 次に生まれてくる天満宮の子どもは幸せてしてあげること!」

 「俺が?」

 「そう。」


 正直、俺に何ができるのか自信はなかった。だが、綾芽が言わんとしていることを実現しようとは思えた。繰り返される運命を知るべきか否か。これまでは知らずに済ますという方法がとられてきた。だが、そうではない方法もあるのかもしれないし、やはりないのかもしれない。


 「で、これも渡してほしいの。」


 そう続けた綾芽は、今度は左のポケットからシュシュを取り出した。


 「これって。」

 「うん、昨日悠太君がくれたやつ。」


 俺の右手に置かれた黄色の真新しいシュシュには、テーマパークのキャラクターが小さくプリントされている。


 「ち、違うよ。要らなかったんじゃなくて、確かに私がもらったんだけど、次に悠太君に渡してほしいって思ったからで。ああもう、伝わった?」


 次々と言葉を繕っていく綾芽は、珍しくあたふたしていてこれまた可笑しい。

 「分かった分かった。ちゃんと預かっ————」


 だが、ピピピピッと俺の腕時計がそのときを告げる。十五年かけて決められた砂粒が、すべて落ちた瞬間だった。


 「あ、」

 「うん。」


 綾芽は目をつむり、ゆっくりと深くうなずいた。息を整え、落ち着き払った綾芽はまたにこりと笑う。

 何も起きない。身体が薄く透明になっていくわけでも、光りに包まれるわけでも、天からの迎えが来るわけでもない。


 しかし、微笑む綾芽は「ありがとう。」と悟ったように口にする。誰の何に対してのありがとうなのか。たぶん、すべてに対するありがとうなのだろう。その言葉は、俺にしか届かないが皆に伝わっているだろう。

 俺は堪え切れないものを感じて、思わず立ち上がった。微笑みを絶やさない綾芽は、そのまま俺を見上げている。


 「じゃあ、ありがとな、ってこれ恥ずかしいな。」

 「そうだね。」


 差し出した右手で俺たちは握手を交わす。すっかり温かくなった手は柔らかく、角張った骨や肉付きもある。確かに綾芽がいるという証がそこにはあった。


 「いい? 約束守ってね、絶対。」

 「うん、絶対。」


 俺が答えながら綾芽を引っ張ると、同じ高さに目線がやってくる。ランタンの灯で六角舎の中には影は二人分伸びた。

 俺はぎこちなく笑みをつくると、綾芽がふと身体をもたげてきた。肩に顎が置かれ、小さく囁かれる。耳に掛かる吐息、ドクドクと脈打つ鼓動、体の熱。生きている綾芽のすべてが分かる。


 「次の私に、よろしくね。」

 「ああ、まかせ————」


 だが、抱きしめようとした腕は冷たい空気を空振りした。

 耳には綾芽の吐息のこそばゆさが、鼻には無機質な香りが残っている。近くに感じていた温かさもまだ全身で感じられる。


 だが、身体の質量は失われ、無となった。


 足元には、ブランケットにコート、マフラー、制服や革靴、握っていたカイロ、身にまとっていたものすべてが主人をなくして所在なく佇んでいる。

 腕時計は、午後十時十三分からきっかり一分経過していて、ランタンの灯でできた影は、もう俺一人分しかなかった。


 自然と涙がこぼれ落ちるようなことはない。俺の心に巣くったのは決意だった。

 拾い上げる衣類には、まだ温かさが残っていた。一つ一つ手にしては、生きていたという証を胸に目に刻んでいく。それらをベンチに置いて畳んでいくが、制服の上着ポケットに覚えのある感触があった。手を入れて触れると確かにそれだった。


 「綾芽のやつ、やっぱり捨ててなんかないじゃないか。」


 ポケットからは、色が抜けて薄黄色くなり、やや擦れやほつれのあるシュシュが出てきた。綾芽が片時も外すことのなかった————捨てたと言い張っていたシュシュだった。しかし、やはりそれは手放されることはなかったのだ。


 俺はシュシュを元あったポケットに戻して、また衣類を畳んでいく。一つ一つ。


 風は先と変わらず冷たい空気を運んできては、俺の身体を冷やしていく。遠くに聞こえる車の音は、何も知らずに走り去っていく。池は音を立てずに広がっていて、森は微かにそよぐ。


 今夜も日常が繰り返されていた。

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