第24話

 使い慣れた改札を抜け、数えきれないほど上り下りした階段を下りる。自動改札がガタリと開閉するぎこちない音や、「よ」「う」「こ」「そ」と一文字ずつ書かれたポスターが出迎えてくれた。たった一日いなかっただけで久しぶりに帰ってきたような感じがする。


 空は灰色の薄曇りで、冷たい空気が吹きさらす。駅前にある店々は、昨日までクリスマスだったはずなのだが、もうお正月模様に変わっていた。それぞれの店舗の窓や入り口には、年末年始のセールや休業日のお知らせが貼られている。全国チェーンのドーナツ店では、すでに限定グッズ付きの福袋を販売していた。時刻からすると開店間もないが、何人もの人が入店していて、出てくる人は皆、手に福袋を提げて寒そうにしている。


 「行こう。」


 俺は綾芽に先立って歩き始める。行きよりも増えた荷物を肩に提げ、綾芽のついて来る足音を耳で確かめる。それが分かれば俺は振り返ることをしない。

今日はずっとこの調子だ。


 パークのクリスマスナイトショーは大盛況だった。キャラクターたちが総出演し、自分たちの世界観を模した乗り物に乗って手を振ったり、大名行列のように歩いたりして見ている人を楽しませていた。その進行が止まると、短いパフォーマンスが行われ、また進んでパフォーマンスが続く。進路には電飾があふれていて、眩しいくらいの光の世界に俺たちは飛び込んでいた。パークの中心にそびえる城では、プロジェクションマッピングの演出も行われ、ショーの間は目を瞬かせる暇も、休む暇もなかった。

 そんな中でも、カップルや女性グループを中心に大盛り上がりしていて、キャラクターに呼びかけたり、手を振ったり飛び跳ねたり、写真を撮ったりと全身をくまなく使ってそのときを楽しんでいるようだった。


 だが、隣にいる綾芽は彼らのように、昼間のように、元気にはしゃぐことはなかった。歩く速さもそぶりも表情も変わらない。みんなが注目する方に視線も動かすし、大きな音にびくりと驚くこともあった。派手なパフォーマンスには、「おお」と感心するような反応も見せていた。ただそのほとんどでは、今を目に焼き付けるようにか、ショーのすべてを真剣に見つめていた。


 ホテルに帰る途中、俺は吊り革に汗をしみ込ませながら、明日の朝には帰ることを前に座っている綾芽に伝えた。だが、そのときも、翌朝のロビーで待ち合わせたときも、新幹線に乗っているときも、綾芽は町へ帰ることに反感を示すことはなかった。まるで、初めからそう決まっていたかのような自然さだった。だから、父の条件に従う形で町へ帰っているという状況も言う必要がなかった。結局、バッグの奥底に詰め込んだきり、父からの封筒には手を触れていない。


 綾芽が考えているような、考えていないような、このような反応になってしまった理由には心当たりしかない。クリスマスプレゼントとかこつけて渡したシュシュも、あれから見ていない。もしかしたら、もう持ってすらいないかもしれない。写真もどうしたのだろうか。


 それでも俺は後悔していなかった。自分が正しいと思ったことはすべてやった。それがどう正しいのか、綾芽にとって最善だったのかは分からない。ただ、思い出————家族との思い出と家族の想いは伝えられたと思う。綾芽が町の人を信じられなくても、ずっとそばにいた人たちのことは信じてほしかったから。


 天満宮までの一本道の途中で、私鉄の踏切に遮られた。カンカンカンと警告音がけたたましく鳴り、遮断機がゆっくりと下りる。赤色灯が光って、表示には通り過ぎる電車の方向が片方だけの矢印で示された。遠くから電車の音が近づく。踏切の向こう側では、低学年くらいの女の子と両親が手をつないで踏切が開くのを待っていた。

 俺が、そうなんでもない光景を眺めていると、後ろから袖の先が弱く引っ張られた。振り返ると綾芽が手に封筒を持っていた。


 「これ。」


 綾芽はそれを俺に差し出す。昨夜、パークのレストランで俺が渡した、写真の入っていた封筒だった。


 「ん?」

 「持ってて。」


 綾芽はぶっきらぼうに言う。俺は事情がつかめず首をかしげるしかなかった。そうしていると、電車が踏切に差し掛かった。轟音が辺りの空気を振動させ、冷たい風が速度を増して吹きつけてくる。綾芽の巻くマフラーが風に泳ぐにようにはためく。


 あっという間に電車は通り過ぎ、警告音も風も止まった。

 遮断機が上がると、向こう側にいた女の子が両親の手を放して、我先にと踏切を渡り始める。しかし、線路の隙間に足を引っかけたのか転んでしまい、母親が駆け寄っていた。父親は二人の様子に温かな眼差しを向け、母は娘を立たせながら膝を払ってやっていた。そうやって時間が進む中、綾芽は封筒を右手に差し出し続けていた。


 「うん……、分かった。」


 ややあって俺が封筒を受け取ろうと手を出すと、綾芽はそれを押しつけるようにして素早く手を離した。俺は胸の辺りに強く押し込まれた封筒を抱えるように受け取った。綾芽はそうしたきり、踏切を早足に渡っていった。

 さっきまでの重い足取りではなく、抱え込んでいた荷物が空になったかのように軽く見えた。

 また電車の通過を知らせる警告音が踏切で鳴り出した。俺は急いで踏切を渡る。そして、綾芽のすぐ後ろまで追いついた。


 今日は、十二月二十六日————天満宮児の消失日。


 もう、綾芽の家はすぐそこだ。



 天満宮の正面玄関、大通りにぶつかる三差路まで来た。あとは、横断歩道を渡れば到着だが————。


 普段とは様子が違っていた。正面にある石段のところには、「工事中」と書かれた黄色い柵が設置されていて、関係者以外立ち入り禁止とされているのが見える。信号を待っていると、天満宮に来たであろう人が「工事中」の柵を見て、中をチラチラ覗いた末に通り過ぎていった。

 普通はそうだろう。

 信号が青になると、俺たちは並んで横断歩道を渡る。「工事中」の柵には、工事の内容や期間、業者などが書かれる欄が設けられているが、何も書かれてはいなかった。だが、この黄色い柵は、ここに置かれるだけで人を寄せつけない効果を抜群に果たしていた。


 俺たちには、この柵が何のために設置されているのかが分かる。分かってしまうことが悔しいし認めたくもない。それに、柵が設置され、訳も書かれずに天満宮に人が入れないという事実が、今日の出来事を真実であると告げているようだ。

俺たちは何にも気にしていないそぶりで、柵の脇にある隙間を抜けて石段を上がった。

 石段の奥には、石造り鳥居が力強く立っている。一段ずつ上がるごとに、上の方から徐々に鳥居の全貌が見えてくる。石段の中段辺りを過ぎると、鳥居の下に女性が立っているのが見えた。朱い着物に大判の黒いショールを肩から羽織っている。


 「……来た。」


 俺と綾芽が揃って石段を上り切ると、その女性は両手で口元を覆って潤んだ目を瞠った。


 「お母さん……。」


 綾芽が言うが早いか、その女性はショールを落としたことも気にせず駆け寄ってきて、綾芽に抱き着いた。飛びつくように抱き着かれた綾芽は、身体をのけぞらせて、肩に掛けていた荷物を足元に滑り落とした。綾芽と変わらない身長のその母は、綾芽の全身を押さえつけるように強く、背中まで腕を巻いている。そうされている綾芽の腕は、神経が抜かれたようにぶら下がっていた。


 「ごめんね、ごめんね。ごめんね。ほったらかしにしてごめんね。」


 綾芽の母は、壊れたテープのように同じ言葉を繰り返し繰り返し、震えた声で言い続ける。

 俺は少しだけ離れて二人の様子を、綾芽が何を言うのか、どうするのか見届けよう。桜の木はすっかり葉を散らし、太い幹からだんだんと細い枝に分かれて、その大きな手を広げている。枯れ葉が風に飛ばされて乾いた音を立てている。


 やがて、繰り返されていた「ごめんね」は止んで、綾芽の母は名残惜しそうに身体を離していく。肩に手を置きながら、もう一方の手で目元を掬い、綾芽をじっと見つめた。


 「……ううん、謝りたかっただけじゃないの。ずっと伝えたかった。ありがとうって。生まれてきてくれて、家族でいてくれて、ありがとうって。」


 そうして綾芽の母はまた抱き着いた。

 俺はさっき綾芽から渡された封筒から、一枚の写真を取り出す。綾芽が天満宮の森の中で発見されたときに写真だ。その裏をめくる。

 やはり、独特でキツく曲がった丸字でこう書かれていた。


 『生まれてきてくれて、ありがとう。』


 伝えたかった言葉を直接伝えた綾芽の母は、一層声を漏らして泣き始めた。力を失っていた綾芽も、震える肩を抱くようにそっと腕を回す。


 「……ありがとう。」


 綾芽の微かな言葉が俺の耳にも届いた。

 それを聞く俺も、肩の荷が下りたような気がする。

 だが、すぐにズシリとした重さが肩にかかった。後ろから、大きな手で肩を掴まれる。その触れる感触だけで誰なのかが分かり、覚悟を決めて振り返る。


 「父さん。」

 「ちゃんと、帰って来たな。」


 眼鏡の奥にある鋭い眼つきは、俺を捕まえていた。



 空を覆っていた雲は流れ去って、澄んだ夜空が一面に広がっている。点々と明るい星だけが浮かんで見える。底抜けの空はどこまでも続いている。

 風もないが街灯もない天満宮は、しんと静まり返っていて、淡い月明かりが辺りを照らしているだけだ。そうやって照らされる木々や幟、石畳は薄く妖しい色合いを見せている。俺は、少し慣れた目で、砂利へと踏み外さないように石畳を慎重に歩いていた。


 特別な一日のはずだったのだが、時の流れは普段と変わりがなかった。良子叔母さんや、綾芽の祖父、乙訓さんが駆けつけて同席したからか、父も大手を振って俺を𠮟りつけることはなかった。それよりも、またもや良子叔母さんと父が、喧嘩をはじめ、取っ組み合いに発展するところだった。

 結局、その後も天満宮から帰されることもなく、大人たちは忙しく動き回り、綾芽は自室で、俺は料亭の隅っこで時間を過ごした。一時間、また一時間と過ぎていくのは、短いわけでも長いわけでもない。三時の次は四時でその次は五時。その進む間の時間は、どうしてもきっかり一時間だ。ますます陽は傾いていき、夜には料亭に集った大人たちに紛れて、夕食を取った。一目見ただけで、力の入った品々だと分かったが、席に座る誰を見てもお通夜のように黙々と箸を進めているだけだった。話声がしていても、何やら事務的な内容しか聞こえてこなかった。

 もう、俺には何もすることがないのかと呆けていたところに、綾芽のご両親がやってきたのだった。時刻は午後九時半を回っていた。午後十時十三分までもう少し。


 「長岡、悠太君? ちょっといいかな。」


 綾芽の父は深い紺色の作務衣の姿で、俺の前の席に座る。その横には、すでに涙にぬれる綾芽の母が座った。刺繍の入った薄いハンカチを目元に当てている。

 黒光りした塗装のテーブルに、小粒な湯呑が置かれる。足元から天井まで届く窓の外には庭が広がっているが、照明も消されていて今は見えない。鏡のように三人を映し出していた。


 「……はい。」


 俺は居住まいを正して答える。


 「これまで、綾芽と仲良くしてくれてありがとう。それに、大人たちの都合に巻き込んでしまったようで本当にすまない。」


 綾芽の父は、準備していたかのように整った調子で言い、少しだけ頭を下げた。隣の母は、お構いなしに洟をすすっていた。


 「いえ、こちらこそ、勝手なことをしてしまって……。」

 「いいや、それも含めて私たちは君に感謝しているんだ。」

 「そんな……別に……。」


 綾芽の父は、泣く母とは対照的に軽やかな笑顔をつくった。笑った顔は綾芽に似ている……のかもしれない。彼は清々しいほどの声音で続ける。


 「私たちも綾芽が高校一年生になって、ついに十五年経って、悩んでいたんだ。どうしようかって。」

 「どうしようか?」

 「そう。隠していることを伝えるか、伝えないか。」


 俺に言葉を挟む余地はない。


 「でも、結局私たちは伝えないことにしたんだ。会則通りね。」


 会則、その部分だけ嫌みのこもった粘ついた言い方だった。


 「君は、会則を見たり読んだりしたことはあるかな。」

 「いえ。」

 「そうか。いつかすべてを知ると思うけど、ほんとに事細かに決められているんだ。今日のこの日をどうやって過ごすか、までね。」

 「そう、なんですか。」


 俺は相づちを打って、湯呑を撫でる。熱の伝わった縁は柔らかな温かさを持っていた。


 「まあ、もう君にも分かるだろう。私たちは綾芽を本当の家族だと思っている、いや、家族だ。だけど、会則通りに何も変えることはできなかった。どうしようもないと諦めてたんだ。」

 「今のこの状況も、会則通りってやつなんですか。」


 俺は料亭内を見渡しながら訊ねる。夕食時にわんさかといた大人たちは、ほとんどいなかった。皆、スーツやジャージ、私服とバリエーションに富んだ服装で外へ出て行った後だ。今頃は、天満宮の周りを密かにうろついているらしい。


 「そうだね。始まりの場所と終わりの場所は同じで、また繰り返す。そのたびに大勢の人が準備する。誰も繰り返されることの説明はできないんだけどね。」

 「それって、本当に繰り返すんですか。綾芽はこれまでみたいには繰り返されないかもって言えないんですか。」

 「……絶対に、ない。必ずそのときはくる。」


 綾芽の父は、一瞬のためらいを見せたがきっぱりとそう言い切った。横で黙っていた母は、ついにこらえきれなくなって席を立って行ってしまった。背中は小さく丸まり、駆けていく姿は今朝よりもしぼんで見えた。


 「あらら、ごめんね。」


 苦笑いを浮かべる綾芽の父は、頭を掻きながら母の走っていった方を見る。


 「あの……、悲しくは、ないんですか。」


 それを見ていると、訊きたくなってしまった。


 「私が、家内のように悲しそうに見えないかい?」

 「いえ、そういうわけでは、ないです。」


 俺は自分の言葉の軽率さに言ってから気がついた。だが、綾芽の父はそれを咎めることをしない。


 「まあね、もちろん悲しいって言ったらそうだけど、それよりも悔しいっていう方が強いんだよね。私たちは、ある程度放任することで自由に生きてもらおうとしたんだけど、それも綾芽に不満を抱かせた一つなのかもしれない。来たるべき運命も自分たちで伝えることができなかったし、挙句の果てには、怖い目にもあわせてしまった。一体、どうやったら一番良かったのだろうかって、後悔してるよ。」


 自分の組んだ指先を見つめるその眼は、過去を振り返っているのか、じんわりと湿り気を帯び始めていた。


 「だから、最後は後悔しないようにしようって家内と話したんだ。」


 強い眼光がこちらに向けられた。目が合ったというよりも、囚われてしまったようだ。しっかりと俺の目を捉えたそれは、言葉にならないすべてを語っていた。


 「綾芽が、今一番信頼しているのは多分君だ。だから、最後は君が一緒にいてほしい。」


 そう言って今度は、テーブルに額がつくほど頭を下げた。


 「……俺が、そんな、最後なんて。ご両親と一緒が一番————」

 「綾芽が言ったんだ、最後にするお願い、だと。」


 俺は息をのむ。窓に映る俺の姿はピクリともしない。


 綾芽の、最後の願い。

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