第22話
あの日——父に市役所へ呼び出された日、良子叔母さんから渡されたくしゃくしゃに丸められた紙には、斜めに細長い文字で三つのことが書かれていた。
・今すぐ天満宮の本殿へ行く
・真実を知ること
そしてもう一つ、括弧書きで小さく注意が添えられていた。
(綾芽ちゃんとのデジタルのやりとりはつつぬけ!)
この一文は、何かの冗談かと思っていた。だが、綾芽とカフェへ行き、取り残された俺は、良子叔母さんの書いたそれを信じて、ノートの切れ端を手紙代わりにしてみた。そして、それを良子叔母さん家の郵便受けに入れて帰ったのだった。
すると翌朝、約束されていたかのように、俺の自転車かごの中に良子叔母さんからの返信の紙が、石を重りにして置かれていた。開いて見ても、斜めに細長い良子叔母さんの文字が並んでいて、間違いなかった。
俺が書いた「綾芽がこのままなのは納得いかない」という思いつきと感情丸出しの言葉の殴り書きに、良子叔母さんは賛同を示してくれていた。ただし、天満宮児保護の会として、そのような現状を変化させる方針は取れないということだった。主に、俺の父、長岡洋が頑なな姿勢を崩さないおかげで。
そうして、いくらかのやり取りを繰り返したが、実りもなく、十二月二十六日まで、あと十日と迫ってきてしまった。そこで、もう強行策に打って出ようということになった。つまりそれは、監視の目を抜け出して、自由な一日を町の遠くで過ごすというものだった。
これをどれだけ綾芽が必要としているのかはわからない。自分たちの思い込み、身勝手なことなのかもしれないとも考えた。だが、今自分たちが出せる結論と方法はこれしかなかった。もとい、これ以上考えていられる猶予もなかった。
ただ、これが実現可能だとも十分に考えられた。というのも、会の監視方針としては、人権やらプライバシーやらが邪魔で仕方ないらしかった。俺が天満宮の地下室で見た古い資料では、徹底的に監視したものもあったようだが、現代でそれをすることは倫理的に許されない。そこが、俺たちの強行策が成功するための抜け穴だった。
綾芽の祖父、乙訓さんから聞いたのだが、綾芽も、一言用件を伝えれば監視の下ではあるが、今でも町から出られるようであった。自由意思は尊重されるそうだ。それに何よりも、綾芽の存在はあまり知られたくないのが会の実情だ。例えば、綾芽が逃走を図っても、それを大事にして捕まえるようなことはしたくないらしい。もし、綾芽が逃げた理由や、それを追いかけた理由を根掘り葉掘り聞かれると、面倒だからだ。
だがもう一つ、問題もあった。俺や良子叔母さん、綾芽の祖父も監視されているわけではないが、会にとっては要注意人物となっているということだ。そこで、会にとってのイレギュラーな存在が必要になった。そこで、今里だ。
今里は、綾芽の件については完全なる部外者だ。会の人は、注意どころかどこの誰かすら知らない。ここまできて巻き込むことも気が引けたが、思い切って話してみると、事情を勝手に汲んでくれて乗り気にまでなってくれた。
そして、詳しいことも伝えることができなかったものの、ホテルや新幹線のチケットの手配に少しばかり協力してもらうことになったのだった。
これらすべての手はずが整い、あとは綾芽に計画を暗に伝えるだけとなった。それを綾芽の祖父、乙訓さんが内密に伝えておくという最もな意見を出してくれたが、どうしてもそれは俺がしたかった。これは自分のわがままであることは承知の上だ。
二学期終業式の前日、俺は午後の授業中に保健室へ行くと言って教室を出た。向かう先は昇降口。俺は、一組の自分が絶対に使わない列、十組の下駄箱の列を探した。二組、三組、四組と、誰もいない昇降口を列を越えて進む。十組の列を見つけ、今度は一つ一つの番号を縦に横に指でなぞりながら確認していく。触れる指先がひんやりとした。開け放たれた昇降口は、外から冷たい風を連れ込んでくる。足元に敷かれているすのこは、俺が一歩横へずれるたびに微かに軋みを立てた。
ようやく見つけた番号は、控えめに一番下にあった。しゃがんだ俺は、ポケットから二つ折りにした紙を取り出して開ける。手描きの地図に待ち合わせの地点を示した印、待ち合わせる時間と、どうやってそこまで出るのか、すべてが書かれているか確認した。
そして、元通りに折り直して綾芽の下駄箱を開け、革靴の上に祈るようにそっと置いた。
*
「で、俺は今里と遊びに出かけて、綾芽も友達と遊びに行くっていう口実で町を出て、こうやって新幹線に乗ったってわけ。」
車内販売の弁当を食べながら、俺はこれまでの経緯を綾芽に話した。右隣、窓際に座る綾芽の奥、窓の外には夜とそこに灯るビルや街灯、車の光が点々と見える。トンネルに入ると、窓は鏡となって、並んで座る俺たちの姿を映し出す。通路を挟んだ隣に人は乗っておらず、斜め前に腹の出たサラリーマン風の男性がいびきをかいて寝ていた。
綾芽は、九つに仕切られた幕の内弁当の中から、順番におかずとご飯を取って食べ進めていた。
「うーん、なるほど……。」
眉間にしわを寄せた綾芽が、箸を持ったままあごに手をやって唸る。
「どうした。」
「……うん。このお弁当、おいしい。」
「そっちかよ。」
「ごめんごめん、冗談だって。ちゃんと聞いてたから。」
そう言って、パッと明るい表情をつくると、綾芽はまた一つおかずを取って口へ放り込んだ。俺も自分の弁当を食べ進める。車内アナウンスが、あと数分で次の停車駅に到着することを告げ始めた。
「でさ。私の下駄箱に入ってた紙にさ、なんで差出人書かなかったの?」
「ああ、それは。」
自分があえてやったことなのだが、面と向かって理由を訊ねられると背中がこそばゆくなってくる。
「ほら、綾芽が俺の下駄箱におんなじように紙を入れて呼び出しただろ。そのとき、差出人が書いてなかったから、その仕返しというか真似したというか、その方が粋かなあと思いまして……。」
自分で言うと、ますます恥ずかしくなってくる。最後の方は不自然に声も小さくなって、かしこまった言い方になってしまった。綾芽の方を見ることもできずに、俺は気を紛らわすために、一気にご飯を口に詰めた。
「あれ? 私、書き忘れてた?」
「うっ。」
思わず口からものが飛び出しそうになってしまった。それを押さえようと、ペットボトルを開けてお茶で流し込んだ。むせ返りながら俺は思ったことを聞く。
「いやいや、書いてなかったし、あれってわざと書かなかったんじゃないの。」
「わざとじゃないってば。じゃないと誰か分からなくて怪しすぎるじゃん。」
「じゃあ、ほんとに書き忘れただけだったってこと?」
「そういうことになるね。」
大したことでもないように、綾芽は淡々と言う。それに俺があっけに取られていると、綾芽がクスリと笑った。
「いや、逆に、誰か分からない紙切れに、よく応じたね。そっちの方が、私はびっくりなんだけど。怪しまなかったわけ?」
「おかげさまで、めちゃくちゃ怪しかったよ。だけど、あんな脅しみたいなこと書かれてたら、行ってみるしかないってなるだろ。」
「それは、私の書き方が良かったってことかな。」
「脅しは良いことじゃないと思うけどな。」
差出人のない手紙には、特別な意味があるとばかり勝手に思っていた。だから、このカミングアウトに少し拍子抜けしてしまった。だが、ただ名前を書き忘れてしまったというのも、今考えると綾芽らしいとも思えてきた。それに踊らされてしまった自分も、随分おかしいわけだが、自分らしいとも思う。
「それでさ、結局私たちはどこに行ってるの? 東京から先は聞いてないんだけど。」
いつものように、俺より早く食べ終わった綾芽が、箸を置いて訊いてきた。
「えっと、それは。」
俺は箸を置いて立ち上がる。通路に立って腕を伸ばし、上の棚に置いていたコートから質問の回答になるものを引っ張り出した。
「これ。ここに行こうかと思って。」
「ああ、ここ……。」
綾芽は目を瞬かせたと思うと、変わって声がしぼんでいった。それに、若干うつむき加減になってもいた。
東京のテーマパークのパンフレットを持つ俺の手が、一瞬で汗ばんだ。俺はそれを誤魔化すように強く握ってみる。窓に反射して映る俺の表情は、強張った上に妙に作られた笑みが塗り重ねられているようだ。新幹線はトンネルを抜け、アナウンスが繰り返される。英語や中国語の聞きとれない言葉が軽快に流れてきた。
「えっと、クリスマスショーにパレードもあって、今年は花火も打ち上げるらしいって、書いてあってさ、十二月二十五日にどこか遠くへ行くなら、ここしかないかなあと思って、ほら、俺が案内するのも自信ないしさ、いっそのことおもてなしされちゃおうかなって思って……。」
取り繕おうとして出る言葉は、つらつらと出てくるが、要領を得ないそれらは自分でもわからなくなっていく。それに、明日、十二月二十五日がどういう意味を持つのか、言ってから気づいてしまった。綾芽にとって、ただのクリスマスではないのだ。だからか、俺の言葉を聞く綾芽の曇りがちな表情は、変わらず隣にあった。
それから何も話せないままに、時間が進む。新幹線は停車駅のホームに入り、速度を落としていく。やがて止まると、斜め前に座っていた男性は慌てて席を立って降りていった。新しい乗客が数人乗りこんでくると、すぐに発車メロディーが流れ、ドアが閉まった。
新幹線は、俺たちの間の沈黙を妨げないように静かに速度を上げていく。眩しいくらいのホームが流れ去っていくと、再び闇の中に戻る。
新しい乗客が落ち着いたころに、俺はようやく声をかけることができた。
「……ごめん、やっぱり迷惑だった?」
決して、気の利いた言葉ではない。こう言うことによって、俺の言葉のどこが迷惑だったかもしれないのか、余計に際立ってしまう。
消失日。
何度振り払おうとしても、その単語が頭をよぎる。それを言わないようにすればするほど、それを意識してしまう。言わないことが、かえって言ってしまうよりも重くその未来を刻みつけてくる。
綾芽が、どれだけそのことを気にしているのか、悩んでいるのか、俺には分からない。ただ、綾芽はあれ以来、一度も十二月二十六日のことを話そうとしていないことは確かだった。
「……ううん、迷惑なんかじゃないよ。」
新幹線の音にかき消されそうな微かな声が、綾芽の口からこぼれた。
「あの町にいるのが息苦しくなってたし、最近は全然楽しくもなかった。ああやって、佐藤さんとか柴田さんから逃げるのは楽しかったし、パーっとはしゃげるのも楽しみ……だから、ありがとね、って感じ。」
綾芽は俺の方を向いて笑みを浮かべる。だが、ぎごちなく見えてしまうのは、俺がそう見てしまうからだろうか。
それからの綾芽は、これまでのことをすべて振り払うかのように、テーマパークのパンフレットを開いてあれこれと盛り上がった。これは昔乗ったことがある、新しくできたこれに乗りたかったんだよね、夜のショーが楽しみ、この写真とか素敵じゃない、悠太君初めて行くんだ、私が案内してあげる。
そう振舞っている綾芽を邪魔したくなくて、俺も綾芽の言うことすべてに付き合った。これがいつのも綾芽の調子だ。だが、やはり俺の頭の中は別のことでいっぱいになってしまっていた。
東京駅に着いて、新幹線を降りようとコートを羽織り直していると、ポケットの中にまだ入れているのもがあったのを思い出した。ポケットに手を入れて、指先でそれを撫でる。
まだ、ここで出すものではなかった。
*
俺たちは日用品から着替えまで、何一つ持ってきておらず、必要なものを揃えながら午後九時を回ってようやくホテルにたどり着いた。ホテルはテーマパークまで数駅の所にあり、俺の名前でシングルルームが二つ予約されていた。外観からしてどこかの宮殿を彷彿とさせ、一階も高い天井にシャンデリアが輝いていた。フロント周りには大きな花瓶が設えられていて、床も磨かれた琥珀色をしていた。本来、高校生だけで泊まれるようなところではないと理解はできたが、疲れも溜まっていて大したリアクションもできないままに、それぞれの部屋に分かれた。
翌朝、一人で朝食を買いにコンビニからホテルへ戻ると、フロントから鍵と、もう一つ封筒を手渡された。
「お客様に預かり物がございます。」
整った髪型のフロントマンが丁寧に両手でそれを差し出してきた。受け取った細長い封筒は、少しばかり厚みと重さがある。
そして、表に書かれた俺の名前の筆跡にはなじみがあった。角ばっていて、まっすぐな線、はらいが長い特徴的な文字。封筒の裏側には、『長岡洋』と書かれていた。
それが分かると、心臓が跳ね上がる思いがして俺はエレベーターに駆け寄った。上階のエレベーターが早く来るわけでもないが、何度も何度もボタンを押す。カチカチカチカチと静かなホールに忙しない音が繰り返される。右手に掛かっているなんとも場違いな、ビニール袋がワシャワシャとうるさい。今いる階の点滅を見ながら、その場で足踏みをする。一つ一つしか進まない光がじれったく、余計に落ち着きをなくしていく。まもなくチンと音が鳴ると、ドアが開いた。飛び込もうとすると、中から出てくる中年ほどの男性にぶつかりかけた。「すみません。」と平謝りをして、隙間を抜けるように入れ違う。そして、また俺はボタンを連打する。
部屋に戻って、コートとマフラーを椅子に掛けてベッドに座った。その柔らかさに、身体が軽く跳ね上がる。開いたカーテンの外には、ビルの街並みが広がっている。朝陽が水平線の向こうから顔を覗かせようとしていて、高いところに残された夜と明暗のグラデーションを作り上げていた。
封筒の口を破って、中を覗く。折りたたまれた便箋が一つと、なにやら紙束が入っている。それらをまとめて摘み出すと、紙束の正体は現金だった。思わず一人で「えっ。」と甲高い声を漏らしてしまった。それを数えるとちょうど三十万円。折れ目のない新札だった。
それをそのままベッドに放るわけにもいかず、テーブルに置いた。そして、残った便箋を手に取る。三つに折り込まれたそれに汗ばんだ指を入れて開ける。予想していた通り、父、長岡洋の字が縦に横にずれることなく並んでいた。
『悠太 乙訓綾芽。
お前たちが、今どこにいるのか私たちはすべて把握できている。監視を振り切ったつもりでいるかもしれないが、そのようなことは決してないと理解してほしい。たとえ、これから向かう先を変更しようとも、必ず調べがつく。それが天満宮児、乙訓綾芽を監視して保護するということだ。
ただ、ここまできて無理やりに連れ帰すようなことは私たちも本意ではない。会としては、町の秘密を守りながら、天満宮児の安全と幸福を保障することが何よりのことだ。その方法が我々、昔からの会則を守る者たちと、そうでない者たちとの間ですれ違ったということだ。
良子や前会長であり乙訓綾芽の祖父となった乙訓実さんにも、もう詳しい話は聞いた。
そこで、私は、条件つきでお前たちの自由な時間と行動を認めることにした。条件は一つ、十二月二十六日の午前十時に天満宮へ二人一緒に帰ってくること。これだけだ。この条件が守られないと判断した場合、その時点でお前たちを強制的に連れ戻す。お前もそれは良い結果をもたらさないと理解できるだろう。
だから、十二月二十五日だけがお前たちに与えられる自由な時間というわけだ。
そして、自由な時間と行動のための資金はこちらから提供することにした。現金三十万円と、クレジットカードが入っている。暗証番号を書いたメモも同封してある。これをどこでどうやってどれだけ使うかもお前たちの自由だ。
もう一度書いておく。我々は天満宮児の安全と幸福を第一に考えている。それをお前も考えて行動するように願う。
条件を必ず守るように。』
便箋は、三分の一ほどの余白を残して終わっていた。
読み終ってからも、嫌な汗が噴き出してくる。思わず、開いたカーテンを勢いよく閉めた。鋭い音を立てたカーテンレールが揺れ、カーテンが大きく翻る。今まで気にもしたことない、得体の知れない視線を無駄に感じ取ってしまう。横にある鏡さえも見る気にならない。
監視されている。
今になって、ようやく綾芽が感じていた気持ちが分かった気がした。この言葉にならない落ち着かなさ。なんとなく、封筒を渡したホテルマンと、ぶつかりかけた中年の男性の姿が、頭に浮かびあがった。ありえないと思うが、勘ぐってしまう。この異様さの中に綾芽がいたのかと思うと、ゾッとする。
鏡の前においてある時計だけを確認すると、いつの間にか、綾芽と約束していた時間が近づいていた。
俺は、現金と便箋を封筒に戻して、新しく買ったバッグの奥深くにそれを押し込んだ。二度と見ることのないように。少なくとも、今日は絶対に取り出さないと決めて。
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