第21話
映画館の劇場を出て、並べられた柔らかいクッションの椅子に腰かける。手にかけてあったコートを羽織り、ポケットの中を外から触れて確認する。そこには、上映前に今里から渡された茶封筒の感触が間違いなくあった。
遠くに見える屋上駐車場へつながるドアの外は、すっかり暗くなっている。そこを何組かのカップルが出たり入ったりする。あとは家族連れや、休みの学生がはしゃいだ様子であちらこちらを歩いている。一番大きな駅まで出てきただけあってか、混雑している。
敷き詰められた絨毯は柔らかく、所々にポップコーンが散らばっていて、ドリンクのしみが目立つ。足元に落ちていたポップコーンの一欠けらをつま先で軽く蹴ると、横に現われた見知った靴に飛んでいった。
「あーあ、クリスマスイブにまでお前と映画かよ。」
俺の隣に今里が勢いよく座る。その勢いで、クッションの中にたまっていた空気が微かに飛び出すような軽い音がする。今里の手には、館内ショップの袋が引っかかっていた。
「もういいか?」
「おう。お前も、いいのか?」
「ああ。」
俺は、今里の問いに答えながら腕時計を見る。針は、刻々と予定の時間に向かって進んでいた。
「なあ、ほんとに教えてくれないのか。」
今里は後ろに手をついて、上を仰ぎ見ながら言う。もう何度目かの質問に、今里も間延びした言い方だった。だが俺も、同じことを繰り返す。
「わるい。また今度な。」
「やっぱそれかー、頑張っておつかいしたんだからさー。」
「無理言ってるのは、分かってるけどさ……、わるい。」
言いつくろう歯切れも悪くなってしまう。だが、今里は何かと文句を言っているが、本気で言っているようには見えない。だからか、いつものおちゃらけた口調で言ってくる。
「まあ、お前が相談してくるなんてなかったからな。ほらな、俺の予感は当たっただろ。」
「そんなことも言ってたな。」
俺たちは、示し合わせたように笑う。面白おかしいわけでも、冗談を言ったわけでもないが笑えてきた。
すべては俺が無理を言って頼んだことだ。しかも、理由は聞くな、詮索するなとくぎを刺して。それを今里は簡単に承諾してくれた。もう少しごねるかと思っていたが、そのあっけなさに驚くばかりだった。その今里を見ていると逆に俺が不安になってきて、つい聞いてもしまった、理由は気にならないのかと。すると、またもや簡単に、「お前の頼みなら聞いてやるよ、その代わりいつか俺の頼みも聞けよな、それで十分。」と言い切られてしまった。
そうして、高校生活の中ではビッグイベントであろうクリスマスイブにまで、わざわざ付き合わせてしまった。だから、さっきの映画は俺のおごりだった。
映画館のアナウンスが、次の上映のための開場を告げる。周りに座っていたカップルや、立って待っていた人々が、チケット片手に談笑しながら列を作り始める。そして、その先頭から、スタッフによって手早く半券を切られ、劇場の中に吸い込まれていった。
あらかた人が入っていったのか、混み具合もわずかになった。すると、隣に座っていた今里も立ち上がり、テキパキとコートを着てマフラーを巻き始める。
「じゃあ、俺は遠いし、帰りますか。」
「そうだな。さっさと駅まで行こう。」
身支度を整えた俺たちは、エスカレーターに並んで、一階まで降りる。モールの外に出ると、葉のない木々が全身に電飾を光らせて立ち並んでいた。白や黄色や青といったカラフルな色が、順番に点滅を繰り返し、特別な日を目一杯演出している。開けた空間には、電飾を使って作られたキャラクターが飾られており、楽しそうに記念撮影をしている人が集まっている。だが、俺は突き刺さる寒さに、身震いして縮こまって通り過ぎる。
光と人に囲まれながら、俺たちは一直線に駅へ向かう。横断歩道を渡っていると、目の前の高架に、駅を発車した新幹線が見えた。はじめはゆっくりだったが、徐々にスピードを上げていき、すぐに視界から横へ外れていく。俺は、それを見送って青信号が点滅する横断歩道を渡り切る。
結局、俺たちは外に出てから大した会話もせずに、すぐに駅までたどり着いた。見るところ全てが、クリスマス商戦で忙しく、至る所にサンタが湧いている。それのせいか、立ち止まる人が多く、真っ直ぐ歩くこともままならない。駅の南側の階段を上がり、在来線の改札口を目指し、四方八方から来る人をどうにか躱していく。隣を歩く今里は、提げたショップの袋をワシャワシャといわせながらも、飄々と歩いていた。
「よし、じゃあ、達者でな。」
在来線の改札口前で、今里が立ち止まって言う。
「なんだよ、今生の別れじゃないぞ。」
「いいんだよ、一回言いたかったんだよ。」
俺たちは、さっきまで黙りこくっていたのが嘘のように、冗談を交わし合う。そして、今里はあっさりと背を向けると、改札口へ足を進めた。
「じゃ、お疲れさん。正月暇してたらなんか連絡するし。」
「おお、じゃあな。」
俺は手を振って歩く今里の後ろ姿を見送る。やがて改札を抜け離れていくと、雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
正月という言葉が、やけに遠い未来に感じられる。その頃の俺は、一体何を考えているのだろうか。
しばらく、その場でぼんやりと立っていた。だが、ふと思い出して、腕時計を見る。もうすぐ時間だった。
俺は足早に駅の北側へ向かう。縦横無尽に歩き回る人々の波を躱すのにも慣れ、長い階段を小走りで降りる。そこから見下ろせる人々は、豆粒のように小さく見えた。
階段を下りた北口は、駅の玄関口となっていて、広大なコンコースになっている。吹き抜け構造でガラス張りの高い天井は、空間の広さを強調している。下まで降りると、邪魔にならないように隅の方へ避けた。
外にはバスロータリーがあり、路線バスや高速バスが発着しているのが見える。ここにも、電飾を身にまとった木々が立ち並び、クリスマスショーを繰り広げているところもある。頭上には、全面ガラスの結晶体のような駅ビルがあって、奇抜なデザインが目を引き、さらにそこら中の明かりを反射して輝いていた。
バスロータリーの向こうを見上げると、タワーがそびえ立っていて、赤と緑でライトアップされている。そのイベントカラーに、スーツケースを引く人や寒そうに首を縮めている人までもが、立ち止まり、スマートフォンで写真を撮っていた。
俺も何気なくスマートフォンを片手で構える。画面の枠の中にタワーを捉えた。そこに映るタワーは、色も形も同じはずなのだが、目で見るよりも小さく、色の鮮やかさも失われているように見えた。そして、カシャと無機質な音が鳴る。カメラモードを閉じて、時刻を見ると、もうギリギリだった。
焦りから、貧乏ゆすりを始めたとき、ピコンと通知音が鳴る。画面の上部に通知のバーが表示された。
〈どこ?〉〈いた!〉
「おーい! ゆーたくん!」
スマートフォンが鳴るのと重なるように、俺を呼ぶ声が雑踏の中から飛んできた。行き交う人の隙間、その遠くに、手を振って走ってくる人影がチラチラと見える。
「あのバカ、大声出すなよ。」
綾芽がもこもこのマフラーと肩から提げたポーチを揺らして、白い息を吐きながら走ってくる。大袈裟に手を振っているおかげか、周囲の人々も綾芽の走る道を海を裂くように空けているようだ。
「早く! もう時間!」
「わかってるって!」
綾芽が近づくと、俺はリレーのバトンパスのように先んじて走り始める。そして、綾芽が追いつくと、並んで走る形になった。
「ねえ、どこ行くの?」
息を乱して走りながら、横の綾芽が訊ねてくる。
「まず間に合わないと。」
「だから何にってば!」
コンコースを走りながら綾芽が叫ぶ。俺は、さっき下りてきた階段に差し掛かると、試しに後ろを振り返ってみる。
ちょっとした確認のつもりだった。だが、嫌な予感は当たるものだ。綾芽が来た方向から、スーツ姿の男女二人が同じように走って来ていた。決して速くはないが、間違いなくこちらを見ている。
「ほら! やっぱり追いかけられてるじゃないか。」
先に階段を上っている綾芽になじるように言って、俺も階段を上る。
「わかってる! だから走ってんの!」
綾芽はバテ始めているのか、階段を駆け上がりながらも、やけになったように言う。俺たちの様子に、周囲の人は奇異の目を向けてくるが、気にしている余裕もなかった。
階段を上り切ったところで、綾芽が膝に手を置いて止まってしまった。大きく肩を上下させ、早まった呼吸を整えている。
「おい、止まってる暇ないぞ。後ろ後ろ!」
「マジ……、ほんとだ。」
俺が追いついて急かすと、綾芽が階段を見下ろしてつぶやいた。俺も倣って見てみると、さっきまで離れていた二人が階段を上り始めていた。そして、この近さにもなると、二人が誰なのかはっきりする。綾芽が病院にいた時に張りついていた佐藤と柴田だ。二人とも、コートをはためかせながら、せかせかと走っている。
だが、特別呼び止められたりはしない。予想通りだ。
「よし、早く。」
綾芽の背中を一押しして、二階通路を走り出す。歩く人の間を、すみませんすみませんと言いながら、縫うようにして行く。無数の足音の中で、俺たちのバタバタと焦るスニーカーの音が目立つ。すぐ後ろの綾芽も何とかついてきていた。そして、今里と別れた在来線の改札口を横切る。
「あれ? 電車じゃないの?」
「もう一つ先!」
そう言って、追って来ている佐藤と柴田を確認してみると、さっきまでとは違って確実に距離を詰めてきていた。マズイ。二人は俺がどこへ向かっているのか勘づいたのかもしれない。だからか、人を避けようとしている様子もなく、まっすぐ向かって来ていた。そして、ついに————、
「待って! 綾芽ちゃん! どこ行くの。」
柴田が声を張って呼びかけてきた。それによって、四人は明らかな追走劇の様相を呈し、周囲の注目が俺たちにさらに集まる。
「私も、知らなーい!」
綾芽が走りながらも、愉快に声を上げる。構内に響いたその声は、開放感に満ち溢れているようだ。疲れているはずだが、そこには笑みが含まれていた。それが分かると、俺の焦りも、自然と楽しく感じられてきた。
「おい待て————おあっとぉ。」
今度は佐藤のどすの利いた声がしたかと思うと、突然途切れ、後ろでざわめきが起こる。いちいち振り返っている暇などないが、つい見てしまう。すると、俺たちが通り過ぎた改札口前で、佐藤がしりもちをついてこけていた。その前にうずくまる人がいたと思うと、こちらに視線をよせ、親指を挙げてみせた。今里だった。佐藤がなにやら怒鳴り散らしているのにも構わずに、今里は不敵にやりきったという笑み浮かべている。
「サンキュ……。」
俺は絶対に届かない声でつぶやく。
しかし、そんな余韻に浸っている場合でもなく、もう一人、柴田が追いつかんとばかりに走って来ていた。
「やばいやばいやばいやばい!」
「わかってる!」
二人してわちゃわちゃと走る。半階ほどの階段を降りると、ようやく新幹線のりばが見えてきた。スーツケースを引く人や、大きなバックパックを背負った外国人、土産物売り場にもたくさんの人でにぎわっている。
「新幹線?」
「そう!」
俺はコートの右ポケットから、茶封筒を取り出す。それを逆さにして中身を出すと、二人分の乗車券が出てきた。間違いなく、今から発車するものだ。
だが、そうこうしていると、いつの間にか走る方がおろそかになってしまい、柴田の足音がすぐ近くに聞こえてきた。
「ちょっと待ちなさい!」
もう数メートル後ろに迫ってきていた。
「ほら、これ持って!」
綾芽の分を手渡すと、全速力で改札に向かう。綾芽も受け取るや否や、足を速めた。改札を目の前にすると、その奥に電光掲示板が見えた。あと、発車まで二分。わざとギリギリをねらったのだが、本当にギリギリでまた焦りが顔を出す。
「よし、間に合う!」
「あああっ————」
俺が改札を抜けると、後ろから綾芽の小さな叫びが聞こえ、騒々しい足音も止んだ。
「捕まえた。」
見ると、柴田が綾芽の首から尾のように伸びたマフラーを掴んだ瞬間だった。だが、綾芽も抵抗を続けている。
「どこ行くの。」
「————ここじゃないとこ!」
綾芽が苦しい表情をして、声を絞り出す。しかし、そうしている間に、柴田は綾芽の腕を取り、がっしりと固め捉えた。二人とも髪を乱して、汗ばんでいる。
「どうして。」
「最後、だから。」
「最後?」
「そう。最後くらい、好き勝手するの!」
柴田は綾芽の背後にピッタリついて、綾芽の肩に顔を乗せるようにして問う。
「またワガママ言って。」
「そう、最後くらいワガママ、叶えるの!」
「……後悔しない?」
ふいに、柴田の声が落ち着いた囁き声に変わる。念を押すような言い方に、綾芽の身体をばたつかせるのを止める。その瞬間で、俺たちの騒ぎを見る人々の声も静まった気がする。皆が綾芽の答えを待つように。
駅員は止めにかかろうかと足を踏み出していたが、それきり止まっている。俺のいる改札口の中は、騒ぎを知らない人々の往来が続き、階段の上、ホームでは新幹線の発着を知らせるメロディーとアナウンスが聞こえてきた。
そんな中で、綾芽が意を決したように、俺の方をまっすぐ見つめる。
「……うん。私が決めたことだから。」
俺に向けた言葉でも、柴田に向けた言葉でもない。自分で自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
すると、柴田が綾芽の耳元で何かを告げ、背中を押した。
「————え、なに?」
突然のことに綾芽も驚いたのか、つまずくように前に足を踏み出した。
柴田はもう、俺たちの方を見ていなかった。大きなため息をついたように肩を落とした。そして、左手で額をおさえながら、俺たちを追い払うように右手をはためかせる。
「……りがと。ありがとね、柴田さん!」
綾芽は少し潤んだ声になったかと思うと、一気に快活な声に変わって大きく叫んだ。
そうして、ダルダルに緩んだマフラーをそのままに、改札を抜けてくる。
「早く、行くよ。」
俺が棒立ちになっているところへ、綾芽がたどり着いた。そこにある表情は、爽やかに晴れ晴れとしていた。
「あ、ああ。こっち!」
俺は我に返ったようにホームへ続く階段を指差し、また走り始める。そのとき、改札口の方から、ようやく追いついてきた佐藤の怒鳴り声が響いてきた。だが、改札口で駅員に止められているようだ。なにやら言って説明しているようだが、綾芽を追う理由を満足いく形で説明できるはずもない。
俺たちは階段を一段飛ばしで駆け上がる。ホームからは、車掌の間もなくの発車を告げるアナウンスが聞こえてきた。それに続いて、発車時刻や、車両と行先の放送も流れる。それを聞いて、綾芽も気づく。
「東京?」
「そう。」
階段もあと数段の所で、ピピピピと急かすような音がホームに響き渡る。それを注意するかのように、車掌が何度もドアが閉まると繰り返す。
そして、階段を上り切って目についたドアに飛び込む。中からホームを見ると、綾芽も階段を上り切ったところだった。そのとき、「ドアが閉まりまーす。」と最後を告げる声がした。
「早く!」
俺はドアから手を伸ばして、顔を突き出しながら叫ぶ。それを見た綾芽も走り出す。
ドアは静かに閉まった。
「————ああ、もう、疲れたあー。」
ぺたんと座り込んだ綾芽が、大きな声でぼやく。閉まったドアの外では、ホームが流れるように進んでいた。俺も壁に肩を寄せて一息つく。二人して、ゼーゼーと息を整えるのに必死だった。間に合った安堵から、吸い取られるように力が抜けていき、俺も床にへばりついてしまった。
そのまま、新幹線がホームを出て、だいぶ速度を上げたころで、綾芽はポーチを開けて中を探り始めた。
「でさ。」
「なに。」
「この紙切れは、なに?」
綾芽は額に汗を浮かべながら、二つ折りにされた紙を取り出して、俺に見せつけてきた。
「ああ、それな。」
俺はその紙をつまみ取ると、立ち上がって、ひらひらと振って見せる。
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