第20話
空いた食器をトレーから、水を張った台に一つずつ入れていく。皿は静かに沈んでいき、先に浸けられている皿に重なるようにぶつかる。
「あー、理科室行くのめんどくせー。昼の時間少なくなるんだよなー。」
今里が横で、同じように皿を沈めながら愚痴っている。
いつものように食堂で昼を済ませた俺たちは、まだ十五分も残して、移動教室のために片付けを始めていた。
「つっても、毎週おんなじだろ。」
「そうだけど、めんどいのは変わらねーよ。」
最後にトレーを返却すると、俺たちは並んで歩き出す。まるで、何事もなかったかのような日々が続いていた。実際、今里や他のクラスメイトにとっては、何事もなかったのだ。その何事かがあったのは、俺と綾芽だけ。特に、綾芽。
だが、ここ数日が日常すぎて、あんな秘密はなかったのかと考え始めてしまうくらいだった。
「なあ。」
「なんだよ。」
今里は寒そうにポケットに手を入れて、気の抜けた声をかけてくる。
「やっぱり、乙訓嬢となんかあったのか。」
「いや、別に。」
できる限り、平静を装う。面白いことに、これにも慣れ始めてきていた。上手くできているのかは分からない。だが、変わらず今里は、事件のことも秘密のことも知らない様子だった。
「別に、じゃないだろ。お前、見舞い行ったんだろ、なんでそれっきりなんだよ。喧嘩のでもしたのか。」
「喧嘩も何もないって、これまでと変わらない。」
「そうか? 前はあんなに頻繁に連絡取ったり会ったりしてただろ。」
「あのときがおかしかったんだよ。今が普通。」
「学校でも話してないだろ。」
「まあそうだな。」
今里は、事あるごとにこの調子だった。とにかく俺と綾芽の関係を探ってくる。そして俺は、なんとかして話をスルーしようと努める。だが、やはり上手くいっていないのだろう。今里は諦めもせず、何度も聞いてくる。
「まさかお前、それって……。」
今里がにやつく。デジャヴ。こういう時は決まって、ありがたい勘違いをしてくれている。そういう予感は当たると思い、俺は足を速める。そして、当たる。
「お前ら、付き合ってんのか⁉」
「おいおい、お前はバカか。」
俺は呆れて階段の下を振り返った。今里はポケットから手を出して、大袈裟に驚いていたポーズをとっている。どういう流れてそんな結論に行きつくのか見当がつかない。喧嘩別れでもしたのか、と言われる方がまだよかった。
「だってよ、付き合う前は積極的に会って、付き合ってしまえばそんなことなく、程よい距離を保つ。ほら、ありえるだろ。」
「いや、ありえないから。」
俺は今里の言葉を切り捨てるように答える。ここ数日かけてたどり着いた結論がこれとは驚いた。確かに、今里なら導き出しそうな答えではあるが。
「ありえないかー。それでも、俺に相談するときは近いな。」
「まさか。どこからその自信は出てくるんだよ。」
まさか。本当にそのまさかだ。今里に綾芽のことや、町のことを相談するときは絶対に訪れない。してはならないのだ。乙訓さんから聞いた会則にとやらに則すと、今里は秘密を知る権利すら持っていない。彼は、この町の出身でもなく、住んでもいない。決して知ることができない部類の人なのだ。だから、俺も相談することができなかった。
「それはな、俺の第六感ってやつさ。」
今里が格好つけた台詞を言いながら教室に入っていく。教室では弁当を食べ終えたクラスメイトも、教科書や筆記用具を小脇に、移動教室のために出始めていた。一人、また一人と足早に教室を後にしていく。俺も自分の席へ次の準備を取りに行く。そのついでに、スマートフォンを取り出して、チャットアプリを開いた。
綾芽とのトークを開けると、最後の会話がお見舞いの日であることが表示される。そして、俺が次に送ろうとしている一文は、すでに打ち込まれている。天満宮で別れたあの日から、どうしても聞きたいことがいくつかあった。それを聞くためにも、綾芽を呼びたかったのだが、いつまでも送信を押すことができずにいた。
俺は今度こそボタンをタップしようと構える。けれど、その数センチが動かない。なぜ押せないのか。なんとなくとしか説明できなかった。
「なーに見てんだよ。」
今里が勢いよく、後ろから肩を組んでくる。
「ほー、なになに。」
「おら、勝手に見るな。」
じゃれつくように離れない今里は、スマートフォンを覗き込んでくる。
「ほら、貸してみろよ。」
「おい待てって。」
今里が俺の手からスマートフォンを奪った。そして、右手に持って高く掲げると、不敵な笑みを浮かべる。
「今里さんに、相談しない報いを受けろ。いや、ありがたく思うんだな。ポチっと。」
「ああ!」
抵抗の間もなく、今里は俺が書いた一文をそのまま綾芽に送信した。したり顔の今里は、画面を見せつけてくる。俺の書いた一文が、確実に送信されていた。
「まあまあ、どーせいつかは送るつもりだったんだろ。何かは知らんけど、早いに越したことはないだろ。」
「そうだけどさ、心の準備ってのがあってだな————」
そのとき、スマートフォンが震えた。今里は俺に見せることなく、勝手に自分一人で読み始めた。そして、またしてもにやつく。
「ほれみろ、早いに越したことはないだろ。」
そうして見せられた画面には、〈オッケー〉と短い返事が、綾芽から届いていた。
*
綾芽がショートケーキの苺をフォークにさして、一口に頬張る。そして「んっー」と歓喜の声を上げる。暖房が効いているせいか、やんわりと頬を赤く染めている。それを見ていると、なんだか気恥ずかしくなって、俺も自分のモンブランを切り崩して食べる。
「いやー、このお店来たかったんだよねー、気が利くじゃん。」
「コーヒーが美味しいらしいって聞いてたから、俺も来たかったんだよ。」
「悠太君、コーヒー党だもんね。ま、私もどっちかと言うとそうだけど。」
そう言って、二人してコーヒーに口をつける。軽やかなジャズが流れる店内は、暖色系の弱い照明がメインで、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「にしても、クリスマスムード全開じゃんここ。いいの、私なんかと来て。」
店の窓や天井には、赤や緑の装飾が施されており、出入り口にはツリーが飾られている。客層も心なしかカップルが多いように見受けられた。
「いいんだよ、せっかくなんだから。」
早口にそう言って、モンブランに手をつける。だが、ふと失言ではなかったと気づいてしまう。何をもってしての、せっかくなのか。それの意味するところを綾芽が気づかないわけがない。
「そうだよね、せっかく、だもんね。」
しかし、意外にも綾芽は、俺の言葉をそのままにショートケーキを頬張る。気にしている様子がない。だが、テーブルに置かれた左手の手首にシュシュがついていないことが、俺にはどうしても目についてしまう。見ないように心がけるが、それが余計に目を向けさせてしまう。
俺が話しかけられないでいると、綾芽はフォークを置いた。カチャリと小皿にぶつかる軽い音が鳴る。
「……ありがとね。」
綾芽はうつむきがちにつぶやく。あの、六角舎のときの弱弱しさと同じだ。
「何がだよ。」
「心配、かけちゃってるよね。別に気にしなくていいのに、大丈夫だって。」
綾芽は左腕で力こぶをつくるポーズをとって、ニヘラと笑ってみせる。だが、俺が黙ってそれを見ていると、綾芽はまたしぼんでいく。
今里がつくってくれたこの機会を無駄にはしたくなかった。たぶん、今里が送信してくれなければ、俺は最後まですることができなかっただろう。そして、もう日も残されていない。
「なあ、聞いてもいい?」
「ん?」
綾芽が小首をかしげる。俺は、当たるか外れるか分からない、だからためらっていた質問をする。
「いつも左の手首につけてたシュシュはどうしたの。」
「……。」
綾芽は、俺の問いを聞くと気まずそうに左手をテーブルの下に隠した。だが、うつむいた顔を勢いよく上げると、揚々と話し出した。
「なに? シュシュまで見てたの。だからキモいってそれ、女の子にはそんなこと言っちゃだめだから。」
「……。」
今度は俺が答えない番だ。綾芽がきちんと話してくれるまで。
「……だからなに、別に飽きて、捨てただけだから……。」
「……。」
揚々としていた声も、徐々に落ち込んでいく。最後の方は、ぼそぼそと聞きとれないほどの大きさになった。そして、再び綾芽は顔を上げる。
「はあ、もう降参降参。やっぱり分かる人には分かるってことかあ。」
「ごめん、無理に聞かないつもりだったんだけど……。」
「いいのいいの、こんなこと友だちには話せないし、話しちゃった方が楽になるかもしれないしね。」
綾芽は吹っ切れたように、だが、周りには聞こえない小さな声で話し出す。
「あれ、家族で旅行に行ったときに、お母さんに買ってもらったの。ほら、東京にあるテーマパークで。」
胸の辺りで、綾芽は左の手首をさすっている。そこにあったものを探るように。そして、今はない物を掴むように。
「それでね、お父さんもおじいちゃんも使わないのに、お母さんったら、家族おそろいって言って、みんなにおんなじシュシュを買ったの。おかしいでしょ。」
「……だね。」
「それにね、おばあちゃんともそれが最後だった。それきり行ってないし。————でも!」
その一言は、悔しそうに炸裂する。溜まったものがにじみ出るように、綾芽は抱えていたものを吐き出していく。
「でも、ぜんぶ家族ごっこだった。よくて家族っぽいだけ。結局、お店が忙しいからとか言ってほったらかしだし。だから、なんとなく捨てちゃった。あんなのゴミ。何の意味もない。」
「その……、家族とはなんて話したの?」
「話? そんなのする必要ないじゃない。もう喋ってない。」
綾芽はフォークを取り直して、ザクザクとショートケーキを食べ進めていく。怒りに任せたように、生地が崩されクリームが倒されて、瞬く間になくなっていく。綾芽の言葉と姿に胸がズキンと痛む。締め付けられる。
「やっぱり、ふつうにはなれなかったみたいだし。」
「ふつう?」
「そ、ふつう。」
以前少しだけ話した。確か綾芽は、ふつうが好きで、ふつうでありたいと言っていた。俺にはそう願うことすら想像できなかったが、今は理解できるような気がする。それに、ふつうを願っても綾芽はやはり、ふつうではないのかもしれない。
「ふつうじゃないって言われても、実感ないし、どうもこうもないし。」
投げやりな台詞を言うと、綾芽は片付いた皿の上にフォークを投げるようにして置く。自暴自棄、ではないが、すべてを諦めたという意志がひしひしと伝わってくる。また、胸がズキンと痛い。
だからこそ、もう一つだけ聞きたい。
「この前、俺はどうしたいのかって聞いてきたよな。」
「……うん。」
「それで思ったんだよ————、綾芽はどうしたいのかなって。」
「私が?」
綾芽は予想だにしていなかったのか、固まってしまっている。綾芽の祖父や良子叔母さんが変えたかったこと、天満宮に生まれる子も自身の運命を知って生きるという道。それは今、不運な形で達成された。だったら、なんであれ新しい方向に進まなければならないはずだ。今までにないのだから。
そしてそれは、綾芽自身の意志を確かめるということではないだろうか。
「そう、綾芽はどうしたいの、これから。」
「私は……。」
「このまま、でいいの?」
「このまま……。」
綾芽は薄めていた眼を開けていく。その視線は、テーブルの上の空中を捉えて離さない。じっと、そこにある何かを見つめている。
「私は……、このまま……。」
綾芽の途切れ途切れの言葉に、時間もゆっくりとなる。軽快なジャズも歩き回る店員もスローモーションになる。すべてが、綾芽の発する次の言葉を待っていた。
下を向いていた綾芽が、ゆっくりと顔を上げていく。それを見ていた俺と目が合う。もう、さっきまで悪態をついていた綾芽ではなかった。その眼の奥には、まだ言葉にしたいことがあるように見える。
「私は、せめて、もう少し————」
『そこまでです。』
俺たちのテーブルに女性の店員が割り込んだ。さっきから歩き回っていた一人、俺たちのところへケーキとコーヒーを持ってきた店員だった。
「それ以上は干渉しすぎかと。」
その店員は、にこりともせず微かな声で言う。険しい目つきには、鋭い針が仕込まれているようだった。そして、その一言で綾芽の表情は曇り、またうつむいてしまう。続く言葉は、ついに出てこなかった。
今なら、俺と綾芽にも分かる。この人は、間違いなく会員の一人だ。可能な限り広い職種で広範囲にいることは聞いていた。だが、これほどまで近くにいたのかと分かると、かえって恐ろしく感じられる。俺はその店員の姿をまじまじと見つめる。
「いや、でも。」
俺は少し足掻いてみせた。だが、次の瞬間には、その店員は満面の笑みをつくり出していた。
「空いたお皿をお下げしてもよろしいですか。」
数秒前までの突き刺さるような眼は丸くなり、硬かった口元も柔らかく、口角がきれいに上げられている。一瞬にして現われた会員の姿は、再び一瞬にして店員に戻っていた。そして、俺が追及する間もなく、店員は綾芽の前の小皿を持っていってしまった。
綾芽は、頭のつむじが見えるくらいにうつむいていた。表情は見えない。だが、俺はそれを見て、また胸がズキンと痛む。先ほどの痛みとはまた違う。監視という言葉が否応なく分かってしまった痛み。
「……ごめん、やっぱり無理みたい。」
「無理って、何が。」
綾芽はそそくさと立ち上がり、コートを着てマフラーを巻き始めた。
「何もかも。」
短くつぶやくと綾芽は一人、足早に店を出て行った。ドアベルがカランと乾いた音を鳴らし、ドアはゆっくりと閉まっていった。
残されてしまった俺は、手前に残っているモンブランをフォークで切っていく。そうやって、黙々と、何が正解なのか掘り当てていく。だが、どうしてもそこには見つからない。やはり、正解はないのかもしれない。だったら、自分が正しいと思ったことをするまでだ。
俺はスクールバッグから、ノートを出して数枚破って取る。そして、一枚ずつ丁寧に、だが、誰にも見られないように素早く書きつけていった。
それが終わると、俺はスマートフォンを取り出す。チャットアプリを開くと、ためらうことなく打ち込んでいく。そして、たった一文を、今里に送信する。
〈お前に、相談がある。〉
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