第19話
一番上の段に手をかけて、飛び出すように四角い穴から抜ける。手には、湿った落ち葉がへばりついて、鼻腔に土臭さが入り込んできた。
俺は立ち上がって、足元に空いた穴を見下ろすが、それは来たときと変わらず暗く冷たく、先が見えない。
スクールバッグを肩にかけ直して、一人来た道を戻る。森と本殿の間を歩いて、朱色の低い柵をまたぎ、絵馬所を通り過ぎる。土や落ち葉で汚れた革靴で、石畳を鳴らして歩く。本殿を正面から見据えると、来たときよりも朱色が濃く、大きく感じられた。
灯のない境内を、一歩ずつゆっくりと戻っていく。木々に囲まれた石段を下り、酒樽や幟の横を過ぎていく。ただ、それらを見ているのか見ていないのか、俺は乙訓さんからの話と、ファイルに挟まっていた地図や写真を脳裏に描き続けていた。
実感がない。そうとしか言いようがなかった。分かるし、分からない。どうしても、そういう結論に行きついてしまう。俺にとっては突然の事実でも、乙訓さんや父、良子叔母さんや会の人々にとっては日常のこと。そういうギャップが埋まらない。彼らの落ち着いた様子や当たり前に話す姿のせいか、俺は驚いたり、唖然としたりするタイミングを逃してしまっていた。
今は、ああそうなのか、と思うだけ思って、ただ暗闇の境内を歩いていた。
キリシマツツジが立ち並ぶ中堤まで出てくると、視界に入った光でぼんやりした意識が覚まされた。
水上橋の先、そこにある六角舎の中から、オレンジ色の光が漏れている。暖かいはずの色が、紅葉も終わり、冬になったため池の上で寒々しく感じられる。
もしかしたら————。
俺は水上橋を歩み始める。一歩ずつ、木の板は小さな軋みを上げる。左、右、右、左、左、右と幾度も折れ曲がりながら、少しずつ水上橋は六角舎へ伸びていく。しかし、どの角度になっても、光を宿した六角舎の中は見えない。まるで、中を隠しているように。
「誰?」
そばまで近づくと、中から問いかけられた。————やはり。
俺は確信をもって六角舎の屋根の下に入る。そこには、ピンクのブランケットに包まった綾芽が、膝を抱えてベンチに座っていた。その隣には、強いオレンジ色を放つランタンが置かれている。
「あれ、悠太君、どしたの?」
綾芽は、頭を壁にもたげたまま、目だけをこちらに向けて細める。覇気のない言葉。気だるそうな態度がありありと伝わってくる。ブランケットの隙間から見える格好も、普段の制服ではなくジャージだった。綾芽も、その態度や格好を隠そうとはしていないのだろう。そうせざるを得ないのか、あえてそうしているのか。薄い唇を横に伸ばして作られた笑みも、すぐに消えてなくなり、暗いため池の向こうを見つめていた。
ため池には、綾芽のランタンの光がキラキラと反射している。だが、それは美しいわけでも、眩しいわけでもない。暗いため池に飲み込まれる寸前、消え入りそうな瞬間にもがいている光のようだ。波も起こらず、風で揺れもしないため池は、光を吸い込んでしまう。
「座ったら。」
綾芽はぼそっとつぶやく。決して視線を動かすことなく。水面に映る消え入りそうな光を見つめていた。
俺は一つ白い息を吐いて、空いている二つのベンチの一つに座った。そこから見える綾芽には、ランタンの光で作られた、大きな影が背後にぴったりと貼りついていた。
「なんで離れて座るの、寒いでしょ。」
綾芽は冗談めかして軽口を言うが、その言葉は本当に軽い。
それきり俺たちは静かに外を眺め続けた。風もなく、冬のため池は不快な匂いも放たない。ため池の向こう側、葉のない並木の奥にある大通の街灯が薄く光って見える。ここからでは、車の音も微かにしか聞こえてこない。ただ、静寂に包まれていた。
「……ねえ。」
綾芽は変わらず、頭をもたげたまま言う。
「私の話、聞いた?」
俺は返事もしない、うなずきもしない。だがそれが、綾芽の質問に対する答えを示してしまうことは明白だった。それに、嘘をつく勇気もなかった。けれど、真正面から答える勇気すらもなかったのだ。
「そっか。」
綾芽は、吐く息のついでのように短くつぶやく。何の感情も感じられない。だからなのか、俺も何を、どう言っていいのか分からなかった。
「で、どう思ったの?」
「どうって。」
「信じたの……、信じなかったの?」
二択、その二択にだけは、やけに力が込められていた。そしてなによりも、鋭さが潜んでいるようだった。
「……わからない。」
「ふっ、そう言うと思った。」
俺の返事に、やっと綾芽が自然な笑みをつくった。いつもは腹の立つその言いぶりに、今だけは安堵を覚える。そして、綾芽も堰を切ったように話し出した。
「そうなんだよねー、私もいきなり言われて、チンプンカンプン。正直、意味わかんないとしか言えないし。」
「そう、意味分からない。みんな何言ってんだろな。」
「ほんとに。んなわけあるかーバカヤローって言ってやりたかった。」
「なんだよ、言ったんじゃないのかよ。」
「そんな乱暴な口きくわけないって。どんなイメージ持ってるわけ?」
「いやまあ、そんなイメージとしか。」
「でも————。」
不意に、声のトーンが下がった。
でも、の後に続く言葉もすぐには出てこない。じっくり時間をかけて、また静寂を取り戻すまで待たされる。
「でも————、ほんと反応に困っちゃうよね。」
綾芽は、抱えた膝の中、ブランケットの中に顔をうずめる。その眼はまた細められ、木の板を見つめている。そこにある木目やささくれだって剥がれた木屑は何も語ってはくれない。
「だってさ、病気で死にますって言われた方が、何倍もましだと思わない?」
「……。」
「そしたらさ、映画のヒロインみたいに、がむしゃらに頑張ったり、感謝を伝える旅に出たり、やり残したことをしたり、必死に生きようともがいたり、泣きじゃくったりできたのにさ。」
「……。」
「それがさ、あなたは十二月二十六日に消えます、生まれたときから決まっていました、それはずっと繰り返されてきたことです、実はみんな知っていました、そしてみんなで監視していました、今も監視しています。だって言うじゃん。」
俺は、ため池を周回する遊歩道や、水上橋の始まる森を首を振って交互に見る。だが、どこも暗闇しかない。
「大丈夫。監視って言ってもプライバシーとか人権とかは守ってるって言ってた。とにかく、家族を含め、町の人が私と話したり、通り過ぎたり、目撃したり、そういうので把握してるって。まあ、家族は————。」
最後の言葉は、聞きとれなかった。だが、追及する気にはなれない。たぶん、言いたいことは分かったから。それが、どれだけ綾芽にとって残酷な事実であるかも分かったから。
「ほんとすごいよね。びっくりというか感心。父さんも母さんもおじいちゃんも、学校の先生も、病院も、図書館も、駅も、レストランも、コンビニも、ショッピングモールも、ラッキーラーメンも、おまけに勝城組も、みんなみんなみーんな、私を監視してたんだってさ。」
「……。」
いつまでも、俺は無言を貫く。同情したり、慰めたりする方法も資格もないだろう。
「だからさ、反応に困るの。死にたくないって叫べばいいの、みんな死んじゃえって叫べばいいの、もう誰も信じられないって叫べばいいの?」
綾芽の顔は、ついに抱えた膝の中に埋まってしまった。綾芽はピンクのブランケットの塊と化す。そのとき見えた膝を抱える両腕、右手でさすっている左手首には、いつものシュシュはなかった。
ため池で、何かが跳ねる音がした。水を散らして落とし、水面に波紋を広げる。それが、反射しているランタンの光を揺らす。強いうねりも、やがては弱まっていき、再び静かな水面に戻っていく。
「……なあ、明日からさ、学校どうするんだ?」
俺は、できるだけ他愛のない話題を探して、恐る恐るゆっくりと問いかける。
「行くよ。そろそろ行く。」
「そっか、よかった。」
「だって————」
綾芽は顔を上げる。別に、落ち込んでいるわけでも、泣いているわけでもなかった。今は逆に、強い意志が感じられた。
「だって、友だちは正真正銘、友だちだから。」
「ああ。」
俺はすぐに綾芽の言う意味を理解できた。乙訓さん——綾芽の祖父が町の秘密として話した一つには、この歴史が大人になった一部の人間にしか知らされないということがあった。つまり、綾芽の友だちは、何も知らない。何も知らずに友だちをしている。いや、そのままの綾芽と友だちなのだ。知らないのではなく、目の前の綾芽を知って綾芽と友だちになったのだ。
「それにさ、なんだか私が全部知っちゃったから、もう町から出ちゃだめなんだって。だから、学校でみんなと会うくらいしかできないし。」
「町から出られない?」
綾芽が当然のように言った言葉に、俺は引っかかる。
「そう。非常事態だからとか言って、監視を強めるらしいよ。それで私は許可なくここを出ちゃだめって。」
「誰がそんなこと。」
「悠太君のお父さんが。」
「やっぱり……。」
綾芽に指をさされ、俺は頭を抱える。夕方に話した父の態度、あの様子からして綾芽にそんなことを言ってもおかしくはないと直観してしまう。
「で、でもさ、それってさっき言ってた、人権とか問題なんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、よく教えてくれなかった。悠太君のお父さんが。」
「はあ……。」
ここぞとばかりに、綾芽は指をさして俺を責め立てる。しかも、追及の手を緩めることがない。
「それに、無断で出たりしたら連れ戻すとか言ってた。悠太君のお父さんが。」
「ああ、もうやめて……。」
言われれば言われるほど、自分のことのように肩身が狭くなっていく。実際、抱えた頭は膝まで下がってしまっていた。
しかし、俺をいじって楽しかったのか、綾芽は再び笑みを取り戻していた。
「で、悠太君はどうする。」
「俺?」
「そ。」
予想していなかった問いだ。これは綾芽の問題であって、それを取りまく町の人々の問題であって、俺は部外者のはずだ。たまたま知ってしまっただけだ。俺もこの町に住み続ければ、いずれは知ることになっていたのかもしれないのだが。
とは言っても、良子叔母さんが覚悟を持てといった理由はもう分かっていた。知ってしまった人には、最後の日が分かってしまうということだ。そして俺は、そういう立場に否応なく立ってしまっている。だから、俺はどうするのか。どうしたいのか。
「……やっぱり、まだ分からない。」
「そう言うと思った。」
さっきと同じやりとりをすると、綾芽はランタンとブランケットを手に取って立ち上がった。ため池や屋根の上に向かう光が動く。それに伴ってつくり出される影も動く。だが、綾芽の背後に貼りついた影は離れることがない。
「じゃあ、帰ろっか。寒いし。」
「うん。」
一人で来た水上橋を、今は二人で歩く。足音の数も、木の板の軋みも、二倍になる。だが今はさっきとは違って、綾芽の持つランタンで足元が照らされている。
右、左、左、右、右、左と折れ曲がっていく水上橋は、キリシマツツジのある中堤に近づく。
「あーあ、もう一回だけ、ツツジの花が咲くの見たかったなー。」
「桜じゃなくて?」
「え、だって桜なんて結構どこにでもあるじゃん。でも、ここの朱いツツジは見応えあるし、そうそうなくない? それに単に好きなの。」
綾芽の言う通り、桜の季節が終わり四月末になると、キリシマツツジが朱く燃えるように咲く。それは、桜が咲き乱れるよりも、この天満宮らしい色と華やかさだと思う。
「あー、だからアイコンがここのツツジだったのか。」
俺は、綾芽のチャットアプリのアイコンを思い出した。
「何それ、覚えてるの、キモいんですけど。」
「うっせーな。たまたまだよ、たまたま。」
そうやって俺たちは、冗談を交わしながら水上橋を渡り終える。左手には大通りつながる中堤とその奥に石鳥居。右手には天満宮の参道。
綾芽が右手にランタンを下げたまま、シュシュのついていない左手を胸の高さで小さく振る。その手にはブランケットが握りしめられている。
「じゃあ、また学校で。」
「ああ。」
「それと————」
綾芽は、ひらりと背を向ける。ランタンの光が下から綾芽を照らし出す。森の中へ続く暗い参道と、その枠におさまるようにして立つ綾芽の後ろ姿。
「それと、今度は、だから、さ、私の分までツツジが咲くのを見て。」
綾芽は途切れ途切れに、つっかえるようにして言う。そして、俺の返事を待たずに歩いていってしまった。
俺も、それを見て中堤を渡り始める。そこには、春を待つキリシマツツジが、俺の背よりも高く並んでいる。それらに囲まれて俺は歩く。
石鳥居の下まで来て、後ろを振り返る。その先に、もう綾芽の姿はなかった。
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