第3章
第17話
一人掛けのソファーに座って、スクールバックを横に立てかける。右隣にも、同じソファーがもう一つあり、正方形のローテーブルを挟んだ正面には、二人掛けのソファーが置かれている。父に市役所へ呼びされ案内されたのは、狭い応接室だった。隅には、なにやら観葉植物も置かれている。その葉は、エアコンから吹き付ける暖かい風に、カサカサと揺れる。巻いたマフラーを外して、ソファーと体の隙間に挟み込む。
俺はスマートフォンを取り出して、通知が来ていないか確認してみた。今日はずっと、これを続けている。
画面を開いては閉じ、開いては閉じ。また少ししたら、開いて閉じる。
綾芽とは、あれから一度も会っていないし、連絡も取っていない。いや、取っているのだが、一つも返信がない。家を訪ねようとも思ったが、実行することはできなかった。
そうこうしていると、もう十二月になっていた。
タケオが車で突っ込んできて、暴れて叫んで、あれこれと言い続けた、それからの綾芽は落ち着きすぎていたと思う。タケオが言ったことに、戸惑っているのかとも思った。だが綾芽は、俺が何を聞いても、うん大丈夫だから気にしないで、とばかり返してきた。そして、飛んで避けたときにできた手のひらや膝の傷を、戻った病院で手当てすると、俺と綾芽は別々に警察署に連れて行かれ、別々に帰された。ただ、俺が家に帰されただけであって、綾芽がそのあと、まっすぐ家に帰ったのかは知らない。
それからずっと、スマートフォンを確認し続けている。
そして、休み時間のたびにスマートフォンを確認している俺に、今里は、何してんのさ、と素っ頓狂に聞いてきた。今里は知らなかったのだ。俺と綾芽が轢かれかけたことも、車に乗っていた男が、襲い掛かろうとしていたことも。今里が知っていたのは、病院前の交差点で、車の単独事故があったということだった。
ドアノブがぎこちない音を立て、ドアが開かれた。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって。」
「良子……叔母さん?」
なぜか初めに入ってきたのは、良子叔母さんだった。続けて父も入ってくる。二人とも、目の下にくまを作っていた。良子叔母さんはにこやかに表情を見せるが、父は疲れを隠そうともしていない。俺の正面のソファーに腰かけると、気だるそうなため息を吐いた。父がネクタイをしていない姿を始めて見た。すべてを整えたくて仕方がないはずの父が、服装すら気にしている様子がない。
「はい、これ。」
良子叔母さんが、丸いお盆に載ったプラスチックのカップをテーブルに並べる。中からは湯気が上がり、コーヒーの香りが広がっていく。
それが合図だったかのように、父は姿勢を正して手を組み、俺を見据えた。良子叔母さんも、父の横に座ると、不安そうな、申し訳なさそうな表情を浮かべて俺に向かった。
「あのね悠太、今日は大切な話があるの……。」
「ああ、そうだ。」
久しぶりに対面する父に緊張する。俺は唾をのんで待ち構えた。どんなことを言われても耐えられるように。
だが、ずいぶんと間が空いた。長い沈黙。良子叔母さんも話そうとはしない。その間、エアコンの低くうなる音とそれに揺れる葉の音だけがしていた。
そして、父がようやく、意を決したように話し出した。
「……あのな悠太、あの男が言ってたことはな、全部嘘、でたらめだ。だから気にしなくていい。」
「ちょっと洋。」
良子叔母さんが、父につっかかる。しかし、父は良子叔母さんの方を見向きもせずに、言葉を重ねる。
「なんかな、俺たちにも良く分からないんだ。」
「あのとき言ってた、子どもが死んだとか、乙訓さんのせいだとか……、それに、もうすぐ死ぬとか、消えるとか。」
「そうだ。彼の妻は確かに子どもをなくしているが、誰のせいでもなかった。被害妄想みたいなものだ。」
「そう、なんだ。よかった、のかな。」
もっと訊くべきことがあると分かっているが、父の目つきが追及するなと言ってくる。たぶん、考えがあってのことなのだとも思う。だが、それを振り切ってでも訊けない自分が悔しかった。綾芽なら、気にせず知りたいことを問うだろうか。
「お前も知ってるだろ。まだ調べてる途中なんだが、薬物かなにかをしてたんだと思う。幻覚やら幻聴やらが聴こえて錯乱したんだろう。」
「そう……。」
俺は足元に視線を落とす。そこには、黒とグレーが交互になったタイルカーペットが敷き詰められていて、俺の心をもやもやさせる。すっきりさせてはくれない。二つの色が交じり合って、暗く澱んでいく。大人の都合に飲み込まれる。
しかし、テーブルを叩く衝撃で、目が覚まされた。
「違うでしょ!」
良子叔母さんが顔を紅潮させ、父をにらみつけていた。テーブルに伝わった衝撃で、コーヒーがはねて辺りに飛ぶ。
「洋、ここまできてまだ変わらないつもりなの?」
「変わらないも何もない。これでいい。」
「違うでしょ。」
良子叔母さんは、ヒステリーになりそうな勢いで父に盾突く。
「神足さんも言ってたでしょ、正面から向き合えって。」
「もうあいつは無関係だ。意見などいらん。」
「またそうやって、何もかもなかったことにして、振り出しに戻ろうとするつもり? もう戻れないのよ。」
俺が目の前にいることなどお構いなしに、二人は言い争いを続ける。
「分かってる。だけどな、関係ないやつは関係ない。それにわざわざ巻き込むことが、向き合うってことじゃないだろ。」
「だからそれが違うって言ってるの。悠太はもう無関係じゃない。関わってるの。これからを向き合わないといけない、私たちと同じ一人なの。」
良子叔母さんが俺の方を見ると、父も続いた。その父は貧乏ゆすりをしている。左足がリズムなく不規則なタップを鳴らす。時計の針よりも速く、繰り出されるその音は、誰に向けられているのだろうか。
父が眉間にしわを寄せ、また良子叔母さんに向き直す。
「だからってな、年齢の条件すら満たしてないだろ。」
「また会則、そんなの意味あるの? 会則通りの状況じゃないって分かってるでしょ。」
「いや、分からん。会則通りものを進めるのが一番いいに決まってる。これまでだってそうしてきた。」
「だから、これまでとは訳が違うって言ってるでしょ!」
凡そ話にならない。そして、俺には二人が話している内容も分からなかった。
だが、綾芽のことを言っていること、やはり父には隠し事があること、良子叔母さんはそれを知っていること、こんなところだけは分かった。
「どうするのよ。あの子、今日学校休み気味だそうじゃない。」
「それがどうした。」
「どうしたですって⁉ 信じらんない。それが責任者の言うこと。」
「ああ、今は休むべきときだからな。」
「じゃあ、このまま学校に通えずに済ますわけ? それで、はい終わりました、って書くわけ。」
「それも、一つのあり方だ。」
父の落ち着いた言葉に、良子叔母さんが呆れと驚きの入り混じった顔をする。父に迫っていた姿勢も、やや後ろへ引くように動いた。
「嘘でしょ。これは、この町のお役目なのよ。それをそんな形で終わらせるなんて、ありえない。」
「またそんな宗教じみたこと言って。」
「じゃあ、なんて説明するのよ!」
また、父は間を置く。たっぷり時間をとって、絞り出すように言う。
「……現象だ。」
「何よそれ。」
硬くて重い、淡白な単語がポツリと出された。そう言う父の顔も冷たく見える。だが、渋々言っているような、控え目な言い方だった。
「だから現象だ。この世界で起こっている観測可能な事象の一つ。だから観測し、記録し、調査、研究してるんだろ。」
父は早口でまくし立てる。それが常識だと言わんばかりに。
「現象? あの子を現象って言ってるの。信じられない。」
「だが、そうとしか説明できない。謎を解明することも、この会の役割だ。」
「だからって、現象で済ませられるわけないじゃない。これまでだって、一人ひとりには思い出があって、それを大切にしてきた人がいて、そうやって続いてきたんでしょ。」
良子叔母さんの声は、だんだんと勢いがなくなっていく。
「そんなこと言ってたらこの仕事は務まらん。自分の仕事だって忙しいんだ。」
「そうやって言い訳して、変わらないのね、あんたは。」
「ああ、変わる必要がないからな。」
「呆れた……、そんなんだから、会の人たちの気持ちもバラバラなのよ。」
「おい、何のことだ。」
父が、はじめて戸惑いを見せた。ずっと続いていた貧乏ゆすりも止まる。
「私たちみたいな人がいるってこと。」
「誰だ、私たちって。」
「あんたの事務所にある金庫に、議事録を仕込んだり、あの子に遠回しに伝えようとしたりしてた人たちよ。」
「お前、また余計なことしやがって!」
父は、ついに怒りを露わにする。その怒鳴り声は、小さな応接室に反響して、さらにその大きさを増す。
「ちょっと待って、金庫ってどういう————」
俺は間に入って湧いて出てきた新情報を問おうとするが、簡単に遮られてしまった。
「余計な事じゃない。会を作り直すためよ。きちんと、あの子のためを思って、それを目的にして助け合える会にするの。」
「そんなの今だって同じだ。」
「そう? だったらなんで神足さんに聞かれたとき、答えられなかったの。」
父はこぶしを握りしめて、何も答えない。ときどき、口を開けようとするが、何度もやめて、結局答えない。
「もういいわ、ここまで来たら、私たちがいいと思った方法をとるわ。もっとも、早くそうしておくべきだったけどね。そしたら、こんなことにはならなかったかもしれない。」
そう言いながら良子叔母さんは、ポケットからメモ帳とペンを取り出して、何かを書きつけ始めた。
「おい、何書いてるんだ。」
「私たちが、正しいと思ったことをするの。あんたは、あんたのやり方を貫けばいいじゃない。」
素早く動くペンは、硬い音を立て、次々と文字を紙に刻み込んでいく。父がそれを覗こうとすると、良子叔母さんは体で覆って隠す。
書き終わったかと思うと、突然、乱暴に紙を破って、手の中に丸め込んだ。そして、立ち上がって、俺の横まで歩み寄ってきた。
「悠太、手を出しなさい。」
真剣な声音に、俺はそっと手を差し出す。
よろよろと出した右手を、良子叔母さんは引っ張るようにして取り、そこに自分の手を重ねる。すると、俺の手の中に、良子叔母さんが握って丸めた紙が渡されたのが分かった。だが、まだ手を放そうとはしない。俺の手を両手で包むように添える。
「いい? ここに書いてあるようにしなさい。それが、私の答え。正解かどうか分からないけど、新しい方法だと思って考えたの。だから、悠太も考えて。」
そう言う良子叔母さんは、俺の手を強く握る。その力が、紙を握っている俺の右手にも伝わってくる。俺にはなかった力が、そこにはあるように感じられる。俺も力を込めて、紙を握りしめてみる。くしゃくしゃに丸まったそれは、手の中でさらに小さくなる。
「おい、何してるんだ。」
父は、良子叔母さんの肩を後ろから掴んで、引き離そうとする。しかし、良子叔母さんは、頑として動こうとしなかった。
「じゃあ、これを持ってここを出なさい。それから、中を見てみて。いいわね。」
俺は、ただ瞬きを繰り返す。力を込めてみた右手も、まだ俺の意志を強くはしてくれなかった。
「よし! 行きなさい!」
良子叔母さんが、俺を引っ張って立ち上がらせる。スクールバックも、押しつけるように手渡され、ドアに向かって背中を押される。
「待て悠太……。どうなっても知らんぞ。」
父の凄んだ声が背後から届く。こんな声を聞くのも、今日が初めてだ。
「いいえ、待たなくていいわ。」
俺の背中に手を添えたままの良子叔母さんが、ハッキリとそう言った。
「悠太、前に言ったでしょ。覚悟を持てって。」
「うん。」
「今が、そのときよ。」
そう言うや否や、廊下に勢いよく押し出され、ドアが激しい音を立てて閉まった。
誰もいない廊下、追い出された応接室からは、二人の言い争う声が聞こえてくる。ただ、先ほどまでとは違って、堰を切ったようにお互いが喚き散らしていた。
俺は、その場から逃げるように大股で歩いて、目についた階段を駆け下りた。その途中途中も、ほとんど人とすれ違わない。流石に一階まで降りると、幾人かの職員がいたが、もう受付も終了間際で、閑散としていた。
正面から外へ出た。冷たい風が頬に当たり、口から出る白い息を後ろへ流していく。
首元に、来たときとは違う寒さを感じる。マフラーを巻こうと探したものの、応接室に忘れてきていた。だが、そこで自分の握りしめたままの右手を思い出す。
胸の高さにこぶしをもってきて、風で飛ばないように、そっと開ける。くしゃくしゃに丸まった紙がしっかりと手の中に入っていた。
それを広げる。
広げると、歩き出していた。箇条書きにされた項目と短い一文を見ながら、身体は自然と前に進む。はじめはフラフラとしていた足取りも、やがて力強くなっていくが分かった。思わず、駆け出していた。決して速くはない。買い物かごにスーパーの袋を満載にした自転車にも追い抜かれる。それでも、走った。白い息を吐いて、足を前に出す。
前の踏切がけたたましい警告音を鳴らし始める。赤い警報灯が、交互に点滅し、左側の遮断機から下りていく。左右の矢印が両方点灯して、今から通り過ぎる電車の方向を教えてくれる。車が踏切手前に止まる。だが、まだ遮断機は閉まり切っていない。下りてきた右側の遮断機を、体をねじるようにして避ける。踏切の中は警報音で耳が痛い。それを耳に感じながら、反対側まで走って、そこに下ろされている遮断機を飛び越えた。
そのまま駆ける。踏切から幾分か遠のいた時、電車の通り過ぎる音が聞こえてきた。その音は、少しずつ小さくなっていく。
俺は右手を握りしめる。さっきよりも強く、中の紙をまたくしゃくしゃにして。
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