第15話
翌日、木曜日。大粒の雨を降らせた雲は、空に薄く残っているが、徐々に晴れに向かうらしい。結局、ラッキーラーメンを後にしてからは、雨に打たれながら近くのカフェに逃げ込んだ。そして、席で一人、コーヒーを飲みながら綾芽の連絡を待ち続けたが、ついに何も反応はなかった。
秘密が分かるかもしれないという期待も、次第に薄まっていき、綾芽が何をしているかで頭がいっぱいになった。とは言っても、こちらからの連絡に綾芽が答えない限り、俺から確かめようもなかった。心の隅にも、また明日会えるだろうという軽い気持ちもくすぶっていたと思う。だから、十九時を回った辺りで、大人しく家路についた。寝る前に、もう一度アプリを開いてみたが、〈今日はもう帰るよ。〉〈また明日。〉という俺の送った最後の言葉に、やはり既読はついていなかった。
ただ、今日の学校は雰囲気が違った。騒々しいわけではない。皆いつも通りに授業を受けていたし、先生も普段と同じだった。だが、休み時間になるたびに、廊下やクラスが落ち着かなくなる。それぞれのグループで輪を作って話していること自体は変わらないのに、何かが違う。騒がしかったはずのグループは、声をひそめ、教室への出入りも多いように感じられる。そして、また授業が始まり、また休み時間に空気が変わる。それが繰り返され、昼休みに入った。
チャイムが鳴ると同時に、今里が駆け寄ってきた。
「おい、聞いたかよ。」
「何をだよ。」
今里も例にならってか、声をひそめて話しかけてきた。まるで、周りに聞かれてはいけないかのように。
「乙訓嬢のことだよ。お前、直接聞いてないのか。」
「別に、聞いてないけど。」
「そっか、だったら本当なのかもしれないな……。」
「だから、何がだよ。」
話の中身を言おうとしない今里に、俺は声を尖らせる。すると、今里は机に手をついて顔をよせ、囁くような声で言った。
「乙訓嬢が交通事故にあったらしい。」
今里から聞いた話は、何の中身もない曖昧な噂だった。昨日の夕方、綾芽が交通事故にあったという。そして、それ以外の情報も何もないという。
どこで、どんなふうに事故があって、綾芽はどうなって、今どうなっているのか、本当に知りたいところは分からないらしい。それが、今日の学校の雰囲気を変えていた原因だったようだ。今里が聞きつけた噂は、広がって膨らんで、尾ひれがついて、もう収拾もつかないらしい。大した怪我もないとか、大怪我をしてしまったとか、自転車との接触とか、車との接触とか、交通事故ではなく誰かに襲われたとか、別の事件に巻き込まれたとか、綾芽が事故を起こした側だとか、これ以外にも、もっと噂のパターンはあるようだった。
確かに、どれもこれも信憑性のない噂話だった。
しかし、綾芽に何かがあった、ということだけは確信できた。昨日、約束した時間と場所に現われなかったこと、いまだに既読のつかないアプリ。そして、交通事故という噂。俺にとっては、これだけの材料で信じるだけのものがあった。
午後以降の休み時間にも、今里は噂を聞きつけてきては、綾芽のクラスメイトも何も知らないと伝えてきた。つまり、誰にも連絡は来ていないということだ。ただ、昨日の夕方、天満宮沿いの大通りに救急車がつけていて、そこに綾芽が担ぎ込まれるところを誰かが見たそうだ。そこから、この話は広まっていったということだった。
だが、そう分かってしまうと余計に連絡しづらくなる。綾芽や家族も突然のことで、立て込んでいるのかもしれない。そこにのんきに連絡はもちろんできないし、大丈夫、とも送ることができない。大丈夫ではないかもしれない人に、やすやすと大丈夫と聞く勇気は俺にはなかった。
学校を取り巻いた——とは言っても、一年生を取り巻いたそわそわした空気も、帰るころには落ち着いてきていた。久しぶりに今里と歩いて帰ったが、そこでも話の進展は何もなかった。
家に帰ると、部屋に入ってすぐ、ベッドに飛び込んだ。学校のみんなが何を思っているのかは分からない。だが、俺は気になって仕方がなかった。一言くらい何かあってもいいはずだ。なぜ、誰にも連絡しないのか。仲の良いクラスメイトにでも軽く伝えておけば、噂も広まらないのに。もどかしい。
綾芽の事情も察することができるが、知りたいことが知れないことに、苛立ちを感じてしまう。ただこれは、誰にもぶつけてはいけない。自分が勝手に苛ついているだけで、綾芽のせいでもない。
ベッドにあおむけになりながら、ポケットに手を入れる。今日は一度も振動しなかった薄い板を中で握る。握っても、それに変化はない。天井には白く電気がついていて、近くにあったリモコンを左手に取って、色を変えていく。白、オレンジ、水色、薄くして、濃くして、暗くして、明るくして。変わっていく部屋の色に包まれる。
そうしていると、自分の気持ちも落ち着いてきた。
そして、分かった。ああ暇だ、と。
綾芽からの呼び出しに、口では文句を言っていたが、案外楽しんでいた。毎日毎日、しなくてもいい会話をアプリの中で交わして、返信するのも面倒だとぼやきながら、返信する。でも、それは退屈ではなかった。呼び出されては、また訳の分からない計画を話され、俺はそれらを次々に切り捨てていった。でも、降って湧いてきたような計画も、聞いていると面白かった。買いもしないショッピングに付き合わされもした。でも、家で寝転がっているより、楽しかった。
また、部屋の色を変えていく。白、オレンジ、水色、薄くして、濃くして、暗くして、明るくして。ぐるぐると変わっていく様子は、自分の気持ちを一つ一つ、外側から眺めているような気分にさせてくれる。だが、その気持ちを一つに表現するはできない。天井にある電気の色が、一度に一つしか表現できないように。
ポケットの中で握っているスマートフォンが震えた。
急いで出して、画面に表示された通知を見る。
〈今里慎吾:明日の帰りに映画みにいかね?〉
ため息が出た。肩すかしを食らった気分だ。これも、今里が悪いのではない。自分が勝手に期待してしまっていただけだ。
そのまま片手で、ロック画面を解除して、文字を打っていく。
〈おっけー何みる?〉
すぐに既読がついた。それを確認して、腕を下ろす。スマートフォンを握ったまま、次に震えるのを待つ。部屋の色を水色に変えた。また、手の中が震える。顔の上にスマートフォンを持ってきて見る。
〈Ayame Otokuni ①〉
はじかれたように飛び起きた。今度は、両手でスマートフォンを握る。今里との会話を閉じて、綾芽からの通知を開く。そこに書かれた言葉を、穴が空くくらい、見つめた。
そしてもう一度、今里との会話に戻って、ためらうことなく言葉を打っていく。
〈わるい、明日はやっぱりやめとく、別の日にな〉
*
『512』と書かれた病室のドアをスライドさせる。エレベーターを上がって、一番突き当たりのそこは個室だった。だが、普通の個室ではない。外には、スーツを着た警察が男性一人に女性一人、パイプ椅子に座っていた。俺が来ただけで軽くにらまれたが、面会証を見せると、すんなりと通してくれた。
町で一番大きな病院へ、放課後来ていた。
中に入って、浴室があるらしいスペースを通り過ぎる。廊下はまっ白な床だったが、この部屋はフローリングになっていた。この個室は一泊いくらなのだろうかと考えながら奥まで進んでいくと、ベッドに座ってオーバーテーブルにお菓子を広げる綾芽がいた。
「やっほ。」
チョコのお菓子をポリポリ食べながら、左手をパーにして、お気楽なあいさつが向けられた。いつも見ていた制服姿が、今はベージュの病衣姿だ。
カーテンが開いていて、窓の外は、オレンジ色に染められている。個室にしては、また広く、ソファーやテレビまで置いてあった。ベッドの横には花瓶が花を咲かせ、そこにもお菓子が高く積まれている。
「よ、贅沢してるな。」
俺は茶化すように言う。
「いいでしょうー、うらやましいでしょー。一番大きい個室らしいよー。」
綾芽も、食べかけのお菓子を指揮棒のように振って、笑って答える。なんてことはない。いつものやり取りだった。
「にしもて、大袈裟じゃないか。」
隅にあった椅子を引き寄せて、ベッドの横に座る。
「だよねー。なんでこんなところにいるのか私も分かんない。」
「なんともないんだろ?」
「昨日も言ったでしょ、ちょっとした打撲と、擦り傷くらいだって。」
そう言って、綾芽は左手の袖をまくって、家でもできそうなガーゼを当てた処置を見せつけてきた。確かに、昨日聞いていた通りだ。夕方、天満宮沿いの大通りで、車と接触したのは間違いないが、間一髪のところで避けたらしい。だが、スクールバッグと残った足先が、通り過ぎる車に擦るように触れて、それで転倒してしまったようだ。そして、それを見ていた通行人が救急車を呼んで、思った以上に大事になったということだった。
「でもまあ、救急車は正解だろ、そういうときは。」
「分かってるけど、なんで、襲われたーとか、加害者ーとか、救急車に担ぎ込まれたーとか言われているの。ピンピンしてるし、被害者だし、救急車にも自分で乗ったんですけど!」
「それは、誰にも連絡しなかったからだろ。それで噂になったんだよ。」
昨日、綾芽から連絡が来たあと、俺は学校で聞いたことをあれこれ伝えた。どれが正しいのか、確かめたかったのだが、一つとして合っているものはなかった。そのときにも、文字越しに怒っていることが分かったが、今も、ありもしない噂が広まったことに怒っている様子だ。また、袋からお菓子を出して食べている。
「そう、それ。スマホが没収されてたんだから、しょうがないでしょ。」
「で、なんで没収されたんだ?」
そこから先は、俺もまだ聞いていなかった。というよりも、教えてくれなかった。直接話したいと。
「それがね、ちょっと事件なの。」
綾芽は声を低くして話し出した。チラを俺の背後を見たようだが、ドアが閉まっているか、人が来ないか確認したのだろう。
「昨日、秘密が分かるかもしれないって言ったでしょ。あれって実は、私にそういうメールが来たからなの。」
「メール?」
「そう。学校が終わってすぐに、秘密を教えるからラッキーラーメンに来いっていうメールが来たの。」
「誰から?」
「それが分からないの。返信しても返ってこないし、たぶん捨てアドだと思う。」
「よくそれで信じたな。」
「まあ、あそこのおっちゃんとは仲良いし、途中で怪しいと思ったから、悠太君も呼んだんでしょ!」
なぜか怒られてしまった。それにしても、そのとき詳しく言ってくれれば、俺も何か相談に乗ることができたのに、と思ったが、そのとき何かを助言できたとも思えないから黙っておく。
「それで、私が青信号を走ってたところに、横から車が来たってこと。」
「そこからなんで、スマホが没収されるんだ?」
俺の頭の中では、話と話がつながらなかった。それを見る綾芽は、あきれた表情をつくっている。
「勘鈍いねー、そのメールが私をおびき出すためのメールかもしれないってことでしょ。」
「ああ、なるほど。」
今度は、話の流れからスマートフォンの没収まで、簡単につながった。綾芽の言う通り、その可能性もありえるにはありえる。
「悠太君も、外の二人に会ったでしょ。私がメールの話をしたら、あっという間に二人がつくことになって、病室も個室になっちゃったの。」
なんとも壮大な話だ。刑事ドラマの導入シーンのような感じがする。
「にしても、やっぱり大袈裟じゃないか。スマホが没収されたのは分かったけど、こんな個室になったり、警察が見張るまでいるのか。」
「さあ、だから私にも分かんない、って言ったでしょ。スマホ返されたときに、どうなったか聞いたんだけど、教えてくれなかったし。」
すべては大人の都合とやらで、言ってはくれないのだろう。まさか、綾芽が誰かにねらわれているということなのだろうか。だから、病室の前にも警察が見張っている。ただの交通事故くらいでは、たぶん、こうはならない。綾芽も分かっていることだと思う。
俺は、さらに椅子をベッドに寄せて、外の二人には聞こえないよう、声をひそめる。
「でさ、俺の父さんと勝城組とか、事務所に行ったこととかは話したの?」
「それは言ってない。言ったところで、何か教えてくれそうでもないし。」
広い、広すぎる個室の中で、俺たちは小さくなって、囁き合う。その声は、壁に届くことなく、俺たちの間で消費される。こんな話し合いも久しぶりに感じられた。
「でも、話した方がいいんじゃないか。」
「そうかもしれないけど、それでまた秘密を隠されるかもしれないわよ。」
「だからって、警察が見張るほどのことになってるんだろ、言った方がいいって。」
「だからよ。見張ってるんだから、何かあっても、あの人たちが何とかしてくれるって。」
「またテキトーな。」
綾芽が言っていることも、分からないでもない。だが、やはり言った方がいいと思う。
「もう、俺たちがどうこうするレベルじゃないかもしれないだろ。」
俺は、いつものように説得する姿勢に入る。成功した試しはないのだが。
「この事故は、ね。でも、あのことは別。見たでしょ、議事録に書かれてたこと。しかも、勝城組に行ったときの、あの電話とハゲの反応。私の勘では、警察も動けないことだと思うの。」
「それは、妄想だろ……。」
ただあきれる。だからこそ、警察に言うべきなのではないか。それに————、
「俺たちに、これ以上何かできるのか?」
真正面から疑問をぶつけた。綾芽がそこまで言うのなら、俺たちにだって、できることはないはずだ。
綾芽は、姿勢を正して、またお菓子をつまむ。
「そこなのよね……。」
悩み始めた綾芽は、口を動かしながら、なにやら一人つぶやいている。あごに沿える右手は、綾芽が考えるときのくせだ。何回か会う中で、そういうことまで分かってきていた。あと、お菓子を食べるのも止まらない。
だが、悩んでくれているのなら、ありがたい。綾芽から何か行動することはない、ということだから。
綾芽が話さないから、俺もこれまでのことを思い出してみる。父の事務所には、勝城組と関わりがあるかもしれない、と分かる議事録があった。それは父に見つかって、取り上げられてしまった。勝城組で、組長の神足は、何も知らないと言い張った。だが、綾芽にかかってきた電話の話に、明らかに動揺していた。そして、それきり追い出されてしまった。
何かがモヤモヤする。いや、何かでモヤモヤする。何かがありそうな気がするが、ない気もする。顔を上げて、窓の外を見ると、夕焼けが夜に溶け始めていた。
「おーい、面会時間は終わりよ。」
ドアの方向、廊下の方から声がした。パイプ椅子に座っていた女性の警察だ。
「じゃ、そういうことだ。またな。」
俺は立ち上がって、椅子をもとあった隅に寄せる。
「うん、お見舞い、ありがとね。こんなに元気だから大丈夫。」
綾芽は、左腕を挙げて、力こぶのポーズをとる。袖の先からは、ガーゼがちらりと垣間見える。
「まあ、ゆっくり休んで。」
「だから大丈夫だって。日曜日には退院させてくれるらしいし、また連絡する。」
「おっけ。期待しないで待ってる。」
「なにそれ。」
綾芽は小さく微笑んで、右手を口元にやる。それを見届けると、俺は、じゃあな、と言い、綾芽は、バイバイと左手をパーにして振った。
病室を出ても、見張っている警察から何も話しかけられることもなかった。一階に降りて、面会証を返却し、スリッパを履き替えて外に出る。
外は肌寒くて、そろそろマフラーが欲しくなってくる。ほぉーと息を吐いてみると、もう少しで息が白くなりそうな気がした。
冷える手をポケットに突っ込んで銀杏の木の下を歩く。すでに葉が散り始めていて、銀杏の実が独特の匂いを放ちながら転がっている。俺はそれを踏まないように下を見ながら足元を選んでいく。
正門に近づきつつあるところで、そこに立つ人に気がついた。長身の金髪オールバック、こめかみに傷、どう見ても悪そうな風体は勝城組で会ったタケオだった。向こうも、俺が来ていることに気づくと、一瞬、目が合った。俺はそれだけのことで、心臓が張り裂けそうになったが、タケオはすぐに身を翻して、足早に去っていった。
門を出て、その方向を見てみると、夕方と夜とのはざまに、一人歩いて行くタケオの背中があった。
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