第14話
十一月に入った水曜日、ホームルームが終わると同時に、ポケットの中のスマートフォンが震えた。教室には、ガタガタとイスを動かす音が鳴り、一日を終えたクラスメイトがあちこちでお喋りを始めている。エナメルバッグを持って出る部活勢、ゲームの話に興じている男子、いつもと同じように騒がしい女子。今日は湿度が高い教室だが、普段と変わらない日常が繰り広げられている。
俺はスマートフォンを取り出す。一件の通知を知らせる赤い丸印が付いたアプリをタップする。起動する画面を眺めていると、後ろから肩を小突かれた。
「よ、雨降る前に帰ろーぜ。」
今里も、いつものように声をかけてきた。
「んー、今日は無理かも。」
俺は振り返らずに、腕を前に伸ばして机に突っ伏す。伸びた手の中にあるスマートフォンでは、アプリが開き、緑を背景にしたその一番上の欄に〈Ayame Otokuni ②〉が表示された。
「おいまたかよー、別にいいけどさー。」
今里は俺の右隣で立ち、前に屈んでスマートフォンを覗き込んできた。今里の言うように、ここ数日は一緒に帰ることも少なくなっていた。約束事でもないから、基本はその時々なのだが、最近は特別多い。そして、その理由は常に一つだった。
「で、今日は何なんだ。」
「まあ、いつものように呼び出しですねえ。」
俺は画面に指を滑らせていく。すると、綾芽との会話がすばやく上に流れていく。そこには綾芽から送られてくる白い箱の言葉と、俺が送る緑の箱の言葉が縦に並んでいる。綾芽の言葉は細切れで数が多い。対して俺の言葉は短く、大抵は一言、一文だ。返事が面倒なのではない。他愛ない話だから、俺としてはそうなってしまうのだ。それが、この一週間で長々と続いていた。
「ふーん。お前、乙訓嬢とどこまでいってんだよ。」
今里はにやついている。良子叔母さんのにやつき顔と同じだ。
「どこまでって、どこまでもいってないって。」
「とか言ってさ、イイ感じになってるんじゃないか。」
横でしゃがんだ今里が、声をひそめて言ってくる。にやつき顔が、さらににやついている。祝福してやろう、という顔ではない。どうも、みんなして俺と綾芽の関係は、勝手にも確定してきているようだ。学校でも、俺と綾芽が話している様子を気にする者はいなくなっていた。
「何がイイ感じなんだか。」
俺はそっけなく言って、今度は下に向かってスマートフォンをスクロールする。緑と白が流れていく。
「ほーら、こんなに連絡取ってるんだろ。それをイイ感じって言うんだよ。」
「別に大したこと話してないけどなあ。」
「それが、いいんだよ。」
今里はそう言うが、本当に中身のない話が多い。今日のご飯何だった? 今テレビ面白いから見てみて、宿題わからないーここ教えてー、と雑談が続く。ただし、その間には、〈学校終わったらすぐに集合!〉と、ときどき呼び出しが挟まる。
「ま、なんか相談したくなったら言えよ、何でも協力するぜ。」
そう言って立ち上がった今里は、やはりにやついている。ほとんど面白がっているのだろう。少し鬱陶しいが、これ以上は踏み込んでこないあたりが、いいやつなんだと思う。
「下まで降りようぜ。」
「おお。」
今里に言われ、俺も立ち上がる。スマートフォンをポケットに突っ込んで、スクールバッグを取る。自転車置き場までは今里と向う。
階段を下りる途中も、俺と綾芽のことが話題の中心になった。
「で、今日の用は何なんだ。」
「いやー、それが分からなくてさ、とりあえず時間と場所だけ言われた。」
これは嘘。綾芽に呼び出されると言えば、理由は一つしかない。アプリで連絡し合うようになってからは、何度か呼び出されているが、いつも同じ理由だった。しかし、それを今里に言うわけにはいかない。特に意味はない。ただ言わない方がいいと思っているだけだ。
「お前も、よくそれで毎回行くよな。俺だったらヤになるな。」
「まあ、そうだよなあ。」
曖昧な返事をしておく。
「お前ら、何して遊んでんの?」
「うーん、ラーメン食べたり、スイーツ食べたり、モールをフラフラしたり、そんなところかなあ。」
これは半分嘘。町のスイーツ店を回ったり、ショッピングに付き合わされたりはしている。その一つ一つでは、綾芽とも雑談をするし、綾芽も楽しそうにしている。だが、それが目的ではない。だから、半分嘘。
「それをデートって言うんだろ。」
今里が肘で突いてくる。俺は、それを受け流しながら、靴を履き替える。そして、履き替えながらも、勝城組に打ち上げ花火を投げ入れることはデートと言えるのか、と心の中でぼやいてみる。そんな過激なデートは聞いたことがない。言ったら今里もデートではないと認めるだろう。認めさせてやりたいが、また今度にしよう。
昇降口を出たところで、今里が中に引き返した。
「あ、傘傘。」
俺も思い出して、靴箱横にある傘立てまで戻った。傘が身を寄せ合っている中から、自分のビニール傘を取って、もう一度昇降口を出る。空を見ると、暗く、溜まった水分で重たそうな雲が広がっていた。湿度が高いせいで、薄っすらと雨の匂いもする。それを見ていると、無意味に気分が落ち込んできてしまう。
自転車置き場に分かれるところで、今里と別れる。
「おーい、困ったことがあったら言えよな、マジだぞ、絶対だぞ!」
正門へ向かっていた今里が、こちらに振り返って叫ぶ。
「おー、わかってるってー。」
こちらも叫び返す。それを聞いた今里は手を挙げ、正門へ方向を変えると、傘をぐるぐる回しながら帰っていった。
たぶん、いつか、必ず、今里には二学期になって起こったことを話すだろう。それがいつになるのかは分からない。少なくとも、今ではない。だが、本当に困ったら、今里に相談することになるだろう。やはり、俺にとって彼が良き友人だと思うから。
自転車置き場へ入り、自分の自転車の前でスマートフォンを取り出した。いつの間にか、新しい通知が来ている。また、〈Ayame Otokuni ①〉だ。アプリをタップして開く。
「えっ。」
小さく声が漏れた。たった一文を、俺は凝視する。何度も読み返す。だが、驚きと小さな興奮は少しずつ大きくなる。
そのとき、スマートフォンに雫が落ちた。空を見上げると、額にも雫を感じた。すぐに自転車置き場の屋根に入って、画面を袖で拭く。
そして、〈今日、秘密が分かるかもしれない!〉と表示されたアプリを閉じて、自転車を引っ張り出した。
*
レバーを強く握って、ブレーキを鳴かせる。自転車の悲鳴が短く響いた。あれから急いで自転車をこぎ、十分ほどでラッキーラーメンに着いた。結局、重たそうな雲はそのままに、雨は降り始めなかった。
店構えは前と何も変わっていない。ラッキーラーメンと書かれた赤い暖簾。その隅はほつれ、糸がたれている。錆びついた立て看板は、豆電球をほとんど切らしたままで、またその数を減らしているようだ。戸には営業中の札が掛けられていて、換気口から出る湯気は、ラーメンの香りを外に漂わせている。しかし、大通りから一本路地に入っているここには、俺以外誰もいなかった。
自転車を壁際に停めて、戸に近づく。それにつれて、自然と綾芽の顔が思い浮かんでは変わっていく。秘密が分かるかもしれないと、はしゃいでいるのだろうか。それとも、実はもう知っていて、得意げに話してくるのだろうか。はたまた、もっと大きな秘密が現われて悩んでいるのだろうか。一体、どんな表情で綾芽は待っているのだろうか。なんだか、会う前から胸が張り詰めてしてきた。これは楽しみだからだろうか、それとも緊張のせいだろうか。おそらく、どちらも正解だろう。俺は、秘密が分かるかもしれないという緊張感を楽しんでいるのかもしれない。めずらしく湧いてきた感情を抑えて、俺は戸を開けた。
開けると、すぐ手の届く距離にカウンターが現われる。そこには破れた赤い革張りの丸椅子が並んでいる。
「いっらしゃい、おお、前来た兄ちゃんか。」
店主の声だけがする。厨房の奥にいるのだろう。
「はい。」
「好きな席にどうぞ。」
俺はそのまま目の前の丸椅子に座った。右を見ると、店の奥まで五、六席のカウンターが続いて、客席は終わり。あとは、厨房が奥に面しているだけだ。カウンターの上には、所狭しとメニューが貼られ、ティッシュ箱、箸入れに蓮華、楊枝、しょうゆにラー油、胡椒がずらりと並べられている。壁には、水着にビールを持つ色あせたポスターまで張っていて、狭い店内がさらに狭く感じられる。厨房の中には、立ち上る湯気と、白いタオルを巻いた店主の頭だけが見える。
俺の他に客はいない。
「あの、先に誰か来ませんでしたか。」
「いや、今日はまだ誰も来てないな、兄ちゃんが第一号。」
カウンターの向こうから顔だけを見せた店主が、商売としてはあまりよろしくないことを、なぜか誇らしげ言ってくる。ふくよかな笑みが人懐っこさを感じさせる。だが、肝心の綾芽が来ていないことの方が気になる。
「あ、綾芽ちゃんか。来るって言ってたのか。」
誰とも言ってないのだが、言い当てられた。
「はい、先に行ってるから来いって言われて。」
「そうかー、どっかで追い越しちまったんじゃねーか。待ってりゃそのうち来るだろう。」
「そうですね。」
「で、兄ちゃん、注文何する?」
言われてようやく気づいた。ここは、ただ待ち合わせで利用する場所ではない。焦って目の前の張られたメニューを目で流していく。爆弾ラーメンやらご馳走ラーメンやら、よく分からない名前が並んでいて、とにかくメニューが多い。目を端の方まで動かしていって、小さく並んだ見慣れたメニューが見つかった。
「じゃ、じゃあ、しょうゆラーメンで。」
「あいよ。」
そう言うと、店主は厨房の中へと顔をひっこめた。中からは、カチャカチャと音が鳴り出す。もう一度、右を向いて店の奥まで見てみるが、やはり、このカウンターに座っているのは自分だけだ。膝に置いていたスクールバッグを足元のフックに掛ける。
誰もいない店内で、ただ一人座っていると、手持ち無沙汰になってくる。俺はポケットからスマートフォンを出して、アプリを開いた。通知は何もない。綾芽の最後の連絡から二十分は経っているが、遅れるとも来ていない。とりあえず着いたことを知らせよう。
「先に、着いた、けど、どこに、いるの」
文字を打ちながら、その言葉を小声に出していく。送信。既読の印はつかない。
今ちょうど、こちらに向かって来ているのかもしれない。なら、連絡をいちいち確認することもないだろう。ラーメンを食べるだけの時間があれば、そのうちにでも、ごめん遅れた、と息を切らしながら来るだろう。
また、綾芽のその姿が想像できた。戸を開けて、サッシに置かれた左手首には黄色のシュシュ、ワイシャツの第一ボタンは外され、リボンは緩められている。急いでいたはずなのに、髪はそんなに乱れていなくて、綾芽が軽く手ぐしをすれば、肩下まで伸びたふんわりカールは、そのまとまりを戻す。店内に入りながら、ごめんごめんと繰り返して、言い訳がましいことは言わない。もしかしたら、前のように、今日はおごりにするから、と言ってくるかもしれない。横のカウンターに座ったら、迷うことなく注文をする。大きな声で厨房の中に、またラーメンセットと言って、早速本題に入る。
そうやって、ただ待っているが、綾芽からの返信はまだない。既読もつかない。
何もすることもなく、ニュースサイトをぐるぐる眺めていく。今日も大したニュースはなかった。政治に経済、スポーツに芸能、事件に事故にちまたで話題のあれこれ。読んでいるのか、読んでいないのか、その程度で進んでいく。俺にとって、一つ一つのニュースに何の価値もなかった。見て、知って、忘れていく。どれだけ小さなニュースであっても、当事者にとっては大事件かもしれない。だが、どれだけそのことが分かっていても、やはり俺にとっては意味がなかった。明日になれば大抵忘れている。世の中の人々も、ニュースが大事だと言っている。だが、チェックにチェックを繰り返していた後に、本当にすべてを覚えているのだろうか。たぶん、多くの人が俺と同じように、小さなニュースは忘れていくのだろう。そうやって、忘れられて日常が続いて行く。そういうものだろう。
そうだとしたら、俺と綾芽が遭遇した秘密は、どれだけ大きなニュースなのだろうか。これも当事者だから大きく感じるのだろうか。そして、他人からすれば小さなニュースであって、忘れられていくのだろうか。小さな町の小さな秘密。そう言われておしまいなのかもしれない。別に悔しくもない、寂しくもない。ただ、面白くもない。
もう一度、アプリを開いて確認するが、まだ既読はついていない。
アプリを閉じたとき、店内に、軽やかなメロディーが鳴り出した。
店主が、俺の前を通り過ぎ、左手にあるレジ横の子機を取った。俺は、またニュースサイトに戻る。だが、店主の話声はしっかり耳に届いてくる。
「はい、ラッキーラーメンです。あ、どうもお世話になっています————。」
店主は相づちを繰り返しながら、ほーとか、はいとは、そうですかと返事をする。しかし、明るく応じたときから、少しずつ声の調子が沈んで、暗くなって、低くなって、深刻になっていく。俺はもう、ニュースを読んでいなかった。目を向けないように心がけて、耳から入る声に集中していた。
「ええ、そうですか、分かりました。また連絡してくださ————え? 今から? それはちょっと……、はい、はい、そうですね、じゃあ、すぐ行きます、では。」
電話を終えると、店主は長い息を吐いた。溜息にも聞こえたが、どちらかと言うと、気分を落ち着かせようとするときに吐く息だった。
店主が厨房へ戻ってくると、奥へは進まず、カウンターの向こうから、こちらに顔を見せてきた。
「悪い、今日は店じまいになっちまった。ほんと申し訳ない。今日の注文はなしでいいから、また今度来てくれるか。ほんとごめんな。」
顔の前で熊のような両の掌を合わせ、目一杯残念な声で言われる。
「いえ、あの、何かあったんですか?」
「いやー、まあちょっとな。すぐに行くとこできちまって、ほんとごめんな。普通こんなことしないんだけど、今日だけ、ほんとごめん。」
「いえいえいえいえ、こちらこそすみません、またにします。」
いい大人に何度も謝られると、こちらも申し訳なってくる。これ以上訊くのも野望だと思い、スクールバッグを取って席を立つ。戸を開けて外に出たが、店主から声が掛かってくることはなかった。後ろからは、もうバタバタと急いでいる音がしていた。
外は来たときから、何も変わっていない。今にも落ちてきそうな、どんよりと暗い雲に、湿った空気。戸を閉めて、またアプリを開く。まだ、綾芽の既読はついていない。
頭に雫が当たった。またか、と思い空を見上げると、今度はそれを合図に、大粒の雨が地面をたたき始めた。
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