第12話
「あのこと? 失礼だが何のことかさっぱりですな。」
デスクに置かれた綾芽のスマートフォンに向かって、神足はとぼけた口調で言う。だが、それは言い方だけであって、目つきは鋭く、薄い板をにらみつけていた。見ると、先ほどまで汗を滴らせていたタケオも、スマートフォンに目が釘付けになっていた。
『何とぼけてるんですか、これまで、ずっと、話し合って協力してきたじゃないですか。』
「あなたが誰か分からないと、これまでと言われてもやはり分かりませんな。」
『そうですねー、天満宮の様子はどうですか?』
「天満宮? それがどうした。なぜ私が様子を知ってなきゃならん。」
『あなたも強情ですねえ。よくそこまでしらを切っていられる。』
あざけるようなその台詞を聞く神足の眉間にしわが寄る。それにしたがって、ますます不機嫌さがにじみ出てきていた。
「何の話か分からないものを、私にどう答えろと言うのだ。」
『いやはや、真実を伝えないことは善いことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか、どちらなんでしょうか。』
「そんなこと、時と場合によるだろう。一体何が言いたいんだ、話にならん!」
ついに神足も怒りをあらわにした。話し方まで荒々しくなってきて、剃り上げられた頭には薄く血管が浮き上がっていた。
会話を聞いている俺は、話の流れすらよくつかめていない。そんな相手に、余裕を持っていられるわけもないだろう。綾芽も、自分のスマートフォンを見つめているだけだ。何かに気づいたり驚いたりしている様子もない。おそらく神足や俺と同じように、理解できていないのだろう。
『時と場合? いえいえ、私たちがしていることについて言ってるんですよ。そうでしょ、神足さん。』
「もう結構だ。これ以上訳の分からないことを言ったら切るぞ。」
『………素晴らしい、しっかり会則を守るようですね。』
神足は何も言い返さない。それは、相手の言っていることを認めたということなのだろうか。表情も怒りではなく、深刻なそれにまた一変していた。
「何が言いたいんだ。」
『いえ、私はどちらかと言うと、会則には少々否定的でして、それでは幸せにはならないと考えているんですよ。』
「それが話したかったことか。」
『確かに、このことはあなたにも、ここにいる方にも、聞いて、欲しかったんです。』
聞いて、の部分だけが強調された。そこに意味を含ませるように。そして神足は、またもや言葉を返そうとしない。くぐもった加工音が続く。
『まあ、お互い、しっかり仕事をしましょうということですよ。協力しないと観測することも大変ですからね。』
「やはり訳が分かりませんな。」
また、やり取りがもとの流れに戻ってしまった。電話の相手が何かを言う、そして神足は分からないと言う。これではどうしたって堂々めぐりだ。
『そうですね、これくらいにしておきましょう。でも、消失日は近いです、残りの日数も観測対象によろし————』
「黙れ‼」
神足はデスクにこぶしを振り下ろして、叫んだ。その衝撃でデスクに置かれた女神も倒れ、ガタリと重たい音を鳴らす。空気が震え、部屋まで揺れたのではないか。俺が怒鳴られたわけでもないのに、身体が強張ってしまう。綾芽も身体を一瞬飛び上がらせた。
電話の相手も間を置いて話し出した。
『これは失礼しました。会則違反でしたかね。では、これで。』
それきり、綾芽のスマートフォンからはツーツーと電子音が出るだけだった。
神足はぶつけることのできない怒りを噛みしめているようだ。立ち上がり、ブラインドの下りた窓を見ている。両手が固く握りこまれ、震える。俺たちには、何かを言うことも許されない感じがした。今は、神足の次の言葉を待つしかない。
スマートフォンの音も止まり、部屋に沈黙が訪れる。神足もようやく深呼吸をして、気を静めようとしていた。綾芽のスマートフォンを手に取り、放り投げる。綾芽はそれを危なっかしくキャッチする。
「君たちはもう帰りなさい。」
ため息まじりの言葉には、疲れが見えた。神足はすっかり輝く自分の頭を一度なでる。そしてまた、ため息が吐かれる。俺は、はい、とも言えず座ったまま動けなかった。だが、綾芽はくってかかる。
「相手が言ってた、会則とか観測とか消失ってなんのことですか。」
「さあ、私にもさっぱりだ。」
神足は困ったという表情で綾芽を見る。大げさに両手をあげるその姿は演技めいて見えた。
「……じゃあ、なんで、怒鳴ったん、ですか?」
途切れ途切れに、慎重に言葉を選びながら綾芽は質問した。それは、おさまりかけていた神足の機嫌をまた悪くしていく。もう一度、自分の頭をなでると、俺たちに背を向けた。
「お前たち、二人を玄関まで案内しろ。」
「ちょっ————」
突然、俺たちは二の腕を掴まれた。絞り上げるようにして、強く引っ張られる。無理やり立ち上がらされ、俺も綾芽も慌ててスクールバッグを取る。
「ちょっと、離してよ!」
綾芽はいきなりにことに抵抗しているようだが、なすすべもないようだ。ただズルズルと引きずられるようにして歩き始めていた。俺も、腕が締め上げられながら、引っ張られる。自分の歩調で進めないそれは、ただただ歩きにくく、おかしなステップになってしまう。部屋を出る間際、神足のデスクを見たが、女神は微笑みを浮かべて倒れたままだった。
俺たちは、強引に引きずられながら玄関までたどり着いた。腕は解放されたが、筋がおさえられていたから痛い。綾芽も左腕をさすっていた。だが、もう抵抗する様子もなさそうだ。
もう、帰るしかないと悟ったのか、綾芽は自分の革靴を履いて、ドアを開けていた。ひんやりとした空気と薄い夕焼けが外から入り込んでくる。開け放たれたドアの先で、綾芽は先に立っている。俺もそれに続いて革靴を手に取る。右足を入れ、左足のかかとを入れようと屈んだ時、肩に大きな手が置かれた。
「彼女をエスコートして帰りなさい。それが君の、仕事だ。」
神足だった。俺の耳のそばで、囁くように告げられる。綾芽はこちらに背を向け、門扉まで出ようとしていた。
「えっ————」
俺は立ち上がって振り返ろうとしたが、背中を押された。その強さのあまり、つまづきそうになりながら玄関を飛び出る。そこでやっと振り返えったが、ドアはほとんど閉まりかけていた。
その最後の瞬間、ドアの隙間から見えたタケオの眼差しが、俺たちの方に向けられていた。
*
俺の隣で、おでんフェア実施中と書かれた幟がはためいている。広い駐車場には一台の車も停まっていなかった。辺りはすっかり夕日に彩られている。はぁーと吐息を吐いてみるが、まだ白い息にはならない。足元を見るとそこには、背後のコンビニの光に照らされて生まれる影が伸びていた。左右に体を揺らしてみると、それにしたがって影もゆらゆらと揺れる。何も起こらない。ただぼんやりと見つめているだけだった。
暇をもてあそんでいると、コンビニから綾芽が出てきた。あちちちっと言いながら、店舗と幟の間を小走りに向かってくる。
「はいこれ、悠太君の分。」
綾芽の伸びた手から膨らんだ包み紙を受け取る。湯気の立つそれは肉まんだった。
「ごめんね、付き合わせちゃって。だからお詫び!」
「安いお詫びだな。」
「なにぃ、一番高いやつだったんだから、プレミアムって書いてあったんだから。」
綾芽は早口にまくしたてながら、自分の肉まんにかぶりついた。案の定熱かったのか、口をホクホクさせて、湯気を吐いている。俺も小さく齧ってみるが、それでも熱く、二人して夕空に湯気を立ち昇らせた。
「じゃあ、悠太君は何ならお詫びになるの?」
横に並んで立つ綾芽が聞いてくる。俺は手におさまっている湯気立つ肉まんを見ながら考える。
「そう言われても、特に、ないかなあ。」
「でしょ。」
明るい返事をして、綾芽は歩き始めた。
俺たちは駐車場をぬけて、大通り沿いの歩道まで出た。もう、この道をまっすぐ進めば、天満宮、綾芽の家まで行きつく。夕方の帰宅ラッシュで交通量は多いが、歩道を歩く人はほとんどいない。二人並んで歩いても幅に余りある歩道は広い。しかし、脇には等間隔に木が植えられ、車道の中央分離帯にも、ブロックに縁どられた植え込みが整えられている。天満宮へ続く道は、緑で彩られている。ここを歩くときは、心が休まる。
俺たちは、夕日でできた影を右に伸ばしながら歩く。
「ねえ、あの電話、何だったと思う。」
綾芽は前を見ながらつぶやいた。
「わからない……。」
そう答えるしかない。俺には何が何だか分からなかったのだから。というか、あの場面で俺は何一つ自分から声をあげることができなかった。ただ状況に飲み込まれて、そのまま追い出されただけだ。掴まれていた左腕を動かしてみる。もう何もないはずなのに、強く掴まれ、引きずられる感覚が思い出された。
「でも、やっぱり何かあるはず。」
「何かって?」
「そんなの知るわけないじゃない。何か、知られたくない秘密ってところね。」
「それじゃあ、何も分からないのと同じじゃないか。」
「そうね。」
綾芽は肉まんの最後の欠片を放り込んで、包み紙を丸める。
「悠太君だって、あのハゲの態度を見たでしょ。あの焦りようは、絶対、何か隠してる。」
「ハゲって。」
綾芽の言い方に、つい笑ってしまった。だが、言っていることは、俺も気になっていることだった。神足は、一貫して相手の言っていることは分からないと言っていた。それなのに、あれだけ憤るのは、何かあるからなのだろうか。
「まあでも、それが大人の世界ってことなんじゃないか。」
「私たちに知られちゃいけない世界なんて、ろくなもんじゃないわ。」
「そうかもしれないけどさ。」
正論かもしれないが、そのまま受け止めきれない。知らない方がいいことだって世の中にはあると思ってしまうから。あの電話の相手も言っていた気がする。真実を伝えないことは善いことなのか、悪いことなのか。その答えを、俺はまだ持ち合わせていない。いつまでも答えを得られないことなのかもしれない。
俺の手にある肉まんは、もう湯気が出なくなっていた。
重なった影が二つに分かれる。綾芽が俺から一歩先を行った。
「私は、やっぱり秘密が知りたい。悠太君のお父さんと勝城組、観測とか消失とか。悠太君はどうする?」
綾芽は歩みを止めずに尋ねてくる。迫るような訊き方ではない。俺の意志を確かめようとしている。そう、付いて回るだけだった俺は、どうしたいのだろうか。
議事録に残されていた父の発言。勝城組との関係。電話の相手の言葉。消失、会則、観測。それを聞いた神足の反応。追い出された俺たち。絶対に完成しないピースが散乱している。
俺は、先を歩く綾芽に追いついて、また並んだ。影が重なる。
「じゃあ、これからは何かするなら相談して。もういきなりは勘弁。」
「分かった、そうする。」
綾芽はこちらを向いて微笑んだ。これが綾芽の素直な笑顔なのだろう。見られているこちらが気恥ずかしくなってきた。その気を散らすように、肉まんを口に詰め込む。冷めきっていたが、プレミアムを謳ったそれは口の中に肉汁を広げた。そして、俺も、残った包み紙をつぶして丸める。
後はのんびりと歩いただけだった。短いようで長い時間、長いようで短い道のり。俺たちは、三叉路になった天満宮の入り口に着いた。
ここで綾芽は家に帰る。俺も信号を渡り駅前まで向かう。エスコートは、これで完了したことになるのだろうか。神足の言葉を思い出す。確かに俺の仕事と言っていた。もちろん、綾芽には言っていないが、自然と送っていく流れになってよかった。俺から言い出すほど勇気はない。
「送ってくれてありがとう。またね。」
「ああ。」
ただそれだけを交わして、綾芽は石段に一歩足をかけた。だが、そこで立ち止まった。
「そうだ! ID教えてよ、これ、やってるでしょ?」
綾芽はポケットから取り出したスマートフォンを見せてくる。そこには、もはや当たり前に使われているチャットアプリが表示されていた。
「うん、持ってる持ってる。」
俺もスマートフォンを取り出して、アプリを開く。お互いに、QRコードを見せ合って、友達登録する。俺のアプリには、〈新しい友だち1〉〈Ayame Otokuni〉と表示された。そこをタッチすると綾芽のアカウントホーム画面が出る。丸くくり抜かれたアイコンには、真紅のキリシマツツジが咲き誇っていた。
「なに、このアイコン。」
綾芽はスマートフォンに顔を近づけて、くすくすと笑った。
「これ、小さいころやってた、子ども向けアニメのキャラクターでしょ。悪者三人組と正義の主人公がロボットで戦ったりするやつ。」
「そうそう、よく知ってるな。」
これまでずっと、同じアイコンだったが、はじめてキャラクターを言い当てられた。
「あれ面白かったよね。毎回新しいロボットが出てきて、悪いことするんだけど、それが工場を占拠して値札のシールを全部貼り変えるとか、ハッキングして郵便の配達先をランダムに変えちゃうとか、せこくて困ることして、ほんと面白かった。」
「でも、結局、ロボットに乗った主人公と戦って、毎回負けちゃうんだよな。」
「そうそう! 爆発して飛んでいくんだけど、いつも捨て台詞が変わってて、意外と凝ってたよね。」
思わぬところで話が盛り上がった。俺も、ほとんど忘れかけていた記憶がよみがえってきた。小さい頃、テレビにかじりついて見ていた思い出は、簡単に忘れられるものではなかったのだろう。一つ一つの場面、話がくっきりと思い描ける。
「私、期間限定公開だった劇場版が好きなの。」
「そこまで知ってるのか。あれって二週間くらいしかやってなかったと思うぞ。」
確か、小学二年生あたりだった気がする。母に連れて行ってもらった記憶がある。一回しか見ていないから、内容も詳しくは覚えていない。
「舞台がどこかの外国になるの、そこで三人組は悪だくみをするんだけど、その国のもっと悪い人たちが登場して、主人公と力を合わせて戦う。よくある話ね。」
興奮して話すのかと思ったが、意外にも綾芽は、淡々と話をまとめていく。俺も記憶を手繰り寄せるが、そんなような話だった気がする程度だ。
「でも、今観てみると、その悪い人たちにも主張があって、幸せを求めて戦ってるって話だった。正義と悪じゃなかったの。正義と正義が戦ってたのね。」
「それは、考えさせられるね。」
「そう、どっちも幸せになると信じて行動してた。でも一つしか選べない。なら、どっちが善いことで、どっちが悪いことなのかなって。」
「……。」
やはり、今の俺には答えられない。神足の言ったように、時と場合によると言ってしまえばいいのかもしれない。だが、それでは逃げただけのような気がする。もっと違う答えを見つけるべきではないか。もっと違う答えがあるのではないか。だから、今の俺には答えることができなかった。
「ま、観てみてよ。ネットでポチっとしたら買えるからさ。」
綾芽は軽やかな足取りで、石段を上がっていく。左右に揺れる影が、俺に重なったり、離れたりする。それは、だんだんと細長く伸びていく。綾芽が最後の一段をジャンプして、両手を広げ、一番上に着地した。沈みかけるオレンジの太陽と、石鳥居。その鳥居の枠におさまって立つ綾芽は、夕日に照らされて、長い影を作る。
「じゃあ、またね。」
綾芽はくるりと振り返ると、顔の横で小さく手を振る。逆光で、綾芽の輪郭がぼやけて見える。俺はまぶしくて、顔の上に片手をかざして光をさえぎる。そうして見える綾芽は、ほとんど陰になってしまっていた。
俺が、うんじゃあ、と言うと、綾芽は夕日に向かって、鳥居の中へ影と一緒に吸い込まれていった。
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