第11話

 「どうした。遠慮せずに食べてくれ。」


 俺たちはスキンヘッドの一声で、組事務所に通されていた。

 あっという間に二階の一室に案内され、黒の光沢を放つ皮張りのソファーに腰を掛けている。四人は座れるような大きさのソファーに一人で座っていると、両側の開いた空間が余計に際立つ。俺と綾芽はガラスのローテーブルを挟んで向かい合っていた。足元には真紅の絨毯が一面に敷かれている。


 俺たちそれぞれの背後には、スーツの男が一人ずつ立っている。自分の後ろは分からないが、綾芽の後ろにいる男は、金髪オールバックでこめかみの辺りには傷痕が目立っていた。常に監視されている状態で、どうにも落ち着かない。何よりも、部屋の雰囲気そのものが落ち着かない。壁には日本刀が飾られ、太刀まで置いてある。勝城組の代紋も目立つ位置に飾られ、今までの人生で最も異質な空間を経験していた。


 俺の右手にはデスクがあり、そこにスキンヘッドが深々と腰かけている。そのデスクの上はすっかり片付いている。だが、天秤を持った女神のアンティークだけが華麗にポーズをとっていた。

 部屋の中にはスキンヘッドと男二人、そして綾芽と俺しかいない。だが、スキンヘッドしか話さないこの空気が肌に痛かった。


 「ちょうどティータイムにしようと思ってたんだ。」


 スキンヘッドがスコーンにジャムを塗り、小さく口に含む。その見た目とは裏腹に、スコーンの欠片が落ちないよう優しくそれは割られていく。

 俺は視線を前に戻した。ローテーブルにはティーセットが用意されている。紅茶にスコーン、ジャムにナフキン、一人に一揃いはある。しかし、用意されたとて食べる度胸などなかった。まだここに入ってから数分もたっていない。俺の胸元には、掴みかかられていた感覚まで残っていた。

 綾芽も大人しく座っていたが、一度息を吸ってスコーンを手に取り、生地を崩しながら食べ始めた。


 「私が焼いたんだが、お口にあったかな。」

 「……ええ、おいしいです。」


 孫に話しかけるようなスキンヘッドの声音に、綾芽は遠慮がちな返事をする。だが、綾芽の後ろにいる男は終始、無表情だ。俺の後ろの男も息をしていることも感じられないほど静かに立っている。


 俺は、自分一人だけ手をつけていないことに居心地が悪くなり、ようやく紅茶を一口飲む。手におさまったティーカップには、色とりどりの草花があしらわれている。白く美しい。だが、手が小刻みに震え、口に含んだ味を気にする余裕もなかった。スコーンも食べてみたが、これが思った以上に崩れやすく、絨毯に生地の欠片を落としてしまう。自分の膝にもパラパラと欠片が散ってしまっていた。それを払っていいものか、拾った方がいいものかどぎまぎしていると、スキンヘッドが軽く笑んだ。


 「まあまあ、気にしなくても後で掃除すればいいだけだよ。」

 「……すいません。」


 やはり、俺たちの返事は一呼吸遅れてしまうようだ。俺は膝を小さく払って生地の欠片を落とした。その動作がどう見られているのか気になって、綾芽の背後の男に目をやったが、こめかみに傷のあるその男は、どこも見ていないようにまっすぐ顔をあげていただけだった。

 その後も、スコーンを食べる衣擦れの音、ソファーの皮が擦れる音、ティーカップとソーサーのぶつかる音だけが小間隔で鳴り続けた。時折、スキンヘッドが俺と綾芽を見てくるが、その視線が向けられるたびに、冷や汗が出る。何か彼の気に障るようなことをしていないか、突然どなられるのではないか、怒りを買うようなことをしていないか、そういうことばかりが気になる。その焦りをかき消すようにスコーンを食べ、紅茶を飲む。そうしていることだけが、今は一番自然だと思われた。


 「じゃあ、本題に入ろうか。」


 俺と綾芽のティーカップと小皿が空いたところで、スキンヘッドが椅子に座り直して言う。それとともに、二人の男が広げられたティーセットをドアの横に置かれていたワゴンに片付けていく。俺の目の前に、後ろに立っていた男の顔と腕が近づく。四角く鋭い眼鏡をかけたその男からは、香水のキツイ香りがする。左手には部屋の照明に反射した貴金属が輝き、首筋にも金色に輝くものがあった。身長の高い、その男が手に持つティーカップは、俺が持っていたときよりも小さく見えた。そして何よりも、男たちはやはり無表情だった。


 全て片付けると、眼鏡の男がドアにノックをする。すると、それが合図だったのか廊下側からドアが開き、また別のスーツの男がワゴンを押して出ていった。ドアが閉まると、俺たちの背後にまた男たちが戻ってくる。

 これで再び、はじめに俺たちが案内されたときと同じ状況になった。もう、食べたり飲んだりして気を紛らわすこともできない。心の逃げ場をなくなってしまった。


 「では。はじめまして、勝城組七代目組長の神足龍志と申します。まずは君たちの名前を教えてくれるかな。」


 神足はデスクに両肘をつきながら、一言一言はっきりと発音していく。落ち着いているが威圧的で、耳に通るその声は他の音を除けるようにずしりと重い。


 「……教えません。」

 「あんなことをしておいて、強気だねえ。」


 また冷や汗が出る。出続ける。なんで言わないんだ、と綾芽に言ってやりたい。だが声は出せない。俺は自分の意志を伝えようと綾芽をにらむが、綾芽は自分の手を見ているだけで俺の反応に気づく様子がない。

 誰も話さない静寂がまた生まれる。


 「まあ構わんか。今は『君』と『少年』とでも呼ぼう。」


 その一言で、張り詰めていた緊張の糸も一本だけ切れてくれた。どうにか綾芽が突っぱねることを許してくれたらしい。


 「質問してもいいですか。」

 「また肝が据わってるな。」

 「いいですか? ダメですか?」

 「……なんだ。」


 神足はしぶしぶといったところだろう。


 「なんで何も聞かずに、私たちをここに入れたんですか。私たちを知っているんですか。」


 神足は肘を離して、椅子の背もたれを沈みこませる。椅子の軋む音が鳴る。二人の男は無反応を貫いている。

 綾芽の言う通り、俺たちは今の今まで名前すら聞かれなかった。だが、神足が組事務所から出てきてからすべてが予定されていたかのように進んでいっていた。紅茶や菓子まで用意された。手下のような若い男たちは俺たちに敵意を示していたにもかかわらず。


 「なに、大したことじゃない。高校生がこんなことをするとは、一体どんな用があるのかと気になってね。私の代になってからこんなことはなかったものだから、興味が湧いたんだよ。町の人々とはうまく付き合っていたつもりだからね。ということで君たちのことも知らない。」


 筋が通っているような、いないような。綾芽もさらに何かを聞こうとはしなかった。


 「ではこちらも聞こうかな。今日は何の用があって来たんだ」


 俺にも視線が向けられる。だが、この状況に至った理由、何よりも、なぜここに来たのか完璧に説明できるだけの理解は俺にはない。だから今は、綾芽が答えるのを待つだけだった。


 「……市議会議員長岡洋と勝城組との関係についてです。」


 綾芽が絞り出すように言葉を紡いだ。


 「市議? 長岡? すまんが聞き覚えがないなあ。もう少し詳しく聞かせてくれないかな。」

 「その長岡って市議会議員が議事録で勝城組の名前を出していたんです。だから何か関係があるはず。」

 「証拠は? その証拠は持ってるんだろうね。」

 「……。」


 綾芽は押し黙る。それも無理はない。俺たちはあの日、確かに議事録を読んだが、それは父に見つかってしまって手に入らなかった。だから、仮に、あそこに書いてあったことが本当だったとしても、肝心の証拠は、当人たちの手にあるということになる。どれだけ綾芽が見たと言い張っても、しらを切ってしまえば攻めようがなくなるのは当然だった。

 それらも見越しているのか、神足は余裕の表情を崩さない。先ほどよりもにこやかになっている気さえする。完全にガキ扱いといったところだろう。


 「ほら、証拠すらないんだろう。用は済んだな。お引き取りね————」

 「いえ、確かに勝城組と長岡洋は関わってる。だって、」


 綾芽が次の言葉の間をあける。俺も綾芽の口元にだけ集中する。それを聞き逃すまいと。


 「…………後ろの男が、うちで、その市議と話していたから。」


 部屋の中の視線が一点に集まる。

 綾芽以外の全員に見つめられた傷のある男は、表情こそ変わらないが、口を固く結び、先ほどよりも背筋に力が入った立ち姿になっていた。額に湧いてきた汗が照明の光に照らされはじめる。

 だが、すぐに神足は綾芽の方を向き直った。


 「うち? 君は一体どこのお嬢さんかね?」

 「……天満宮にある料————」

 「ああ、あそこのお嬢さんか。たまに利用させていただいてるよ。素晴らしいところだ。」


 綾芽は教えないと言っていたが、これで身元は明かされてしまった。それもやむを得ないと考えたのだろうか。

 神足はまた男に視線を戻して、長い溜息をつく。男の汗はもう顎をつたって滴っていた。


 「それで、タケオ、彼女が言ってることは本当か?」

 「いえ、身に覚えがありません。」


 タケオというその男は、間髪なく答える。綾芽に指摘されて出た汗と、台詞が合っていないのではないか。まるで、この時のために準備してきたような言い方が、気になった。それとも、本当に身に覚えがないから焦っているのか。どうとでも考えられるが、俺には判断のしようがなかった。


 「と、うちのタケオは言っているがね。」


 神足はタケオを問い詰めることもなく、綾芽にもう一度戻る。


 「そんなはずはないわ! 髪型にこめかみの傷、間違いなく私が見た男よ。」

 「それはここにいる君だけが、そう言っているのであって、確かめようがない。少年は見たのかね?」

 「い、いっ、いえ。」

 「ほうら。」


 突然、質問が俺に振られ、勢いのまま答えてしまった。またもや余裕の笑顔の神足。そして俺に鋭い眼を向ける綾芽。おそらく綾芽は嘘をついて、見たと言ってほしかったのだろう。しかし、もう遅い。俺は綾芽に苦笑いするしかなかった。声には出さず、アハハと笑ってみせる。


 「うーん。折角訪ねてもらったのに、話は尽きてしまったね。」

 「いや、でも。」

 「まだ言えることがあるのかな?」

 「……。」


 もう、俺たちが持っているカードはない。そもそも、弱かった情報は、簡単に跳ね返されて取りつく島もなくなってしまっていた。綾芽は悔しそうに、まだ何か考えていたが、思いつくはずもないだろう。秘密は持っている方が上手だ。突きとめようとする方に障害が多いことが常だろう。


 そのとき、部屋に着信音が響いた。


 また、スマーフォン初期設定のままの音。綾芽のものだ。足元に置いてあるスクールバッグに入っているのか、綾芽は手を伸ばす。だが、動きが止まった。綾芽はゆっくりと神足の方を向く。確かに、今は電話に出られるような状況ではない。綾芽もそれに気づいたのだろう。だが————、


 「出てもかまわんぞ、こっちの要件は終わった。手短に済ませて帰ってくれ。」

それを聞くと、綾芽は鳴り止まないスクールバッグを引き寄せる。ソファーに座ったまま、屈んで中を探っている。かなり長い間着信が続いている。切れないうちにスマートフォンが取り出されたが、綾芽はすぐに出なかった。一瞬、訝しんだ目で画面を見つめ、タッチする戸惑いが見られた。


 「もしもし、どちら様ですか? はぁ、そうですが、どなたですか。」


 俺も神足も、黙って綾芽の電話の様子を見ていた。だが、交わされている会話が不自然であることが、綾芽の言葉からだけで分かった。綾芽も時折、首をかしげなら返事をしている。


 「え? 今ですか? ええ、そうですけど、なんで知ってるんですか? ほんと誰なんですか。切りますよ。え? 話す? 今から? ちょっと意味が分からないんですけど。」


 神足も異様さに気づいたのか、また両肘をデスクについて前のめりになっている。綾芽の後ろに立つタケオも綾芽を見ていた。


 「あの、相手が話したいって言ってるんですけど。」


 綾芽はスマートフォンを耳から話して、神足に向かって控え目に言った。電話に出た綾芽が戸惑ってしまっている。


 「誰からだ。」

 「それが、分からなくて。でも今話したいと。」


 もう不自然どころではない。明らかに不審な電話だ。綾芽も知らない相手からかかってきているにもかかわらず、今綾芽が神足と会っていることをその相手は知っている。何の変哲もない電話で終わると思っていたが、部屋の空気がまた、緊迫してきた。神足も真剣な表情に様変わりしている。


 「分かった、それをよこせ。」

 「でも、またそれが、」

 「まだ何かあるのか。」

 「スピーカーにして、机に置けと。」


 いよいよおかしい。神足はどうするのか返事を渋ったが、ついに決めたようだ。


 「結局、出てみんと分からん。それでいいから代われ。」


 綾芽はスマートフォンを耳に戻して、一言二言相手と言葉を交わすと、立ち上がって神足のデスクにそれを置いた。

 一枚の薄い板に視線が集まる。デスクに立つ女神も、それを見つめているように見えた。


 『こんばんは、神足さん。』


 初めて、俺たちにも電話相手の声が聞こえた。だが、その声は誰であるのか分からない。おそらく誰にも分からないだろう。綾芽のスマートフォンから発せられる声は、ボイスチェンジャーがかかっていて、低く、くぐもった加工音になっていた。


 「どちら様ですかな?」

 『あなたを知る人、としか今は言えません。』


 感情の読めない加工された声の主は、正体を明かすつもりは毛頭ないようだ。


 『今日は、神足さんとお話がしたかったんです。』

 「なんのことでしょうか。もったいぶらずに仰ってください。」

 『やだなあ、大切な、あのことについてですよ。』


 声の主は無機質にそう言った。

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