第8話

 『おい、何してる。』


 振り返った先に立つ父は、普段のスーツを着ているが、シャツの裾が崩れ、ネクタイも緩められている。短く整えられた髪もかき乱したようになっていた。


 「悠太……、お前か。」

 「いや、これは……。」


 四角い眼鏡から向けられる視線に、俺は言葉が続かない。腰が抜けてしまいそうだった。俺はつい後じさってしまい、すぐ後ろのラックに踵をぶつけ、ガシャと小さな音を立てる。対して綾芽は、父の方を見ながら眉根を寄せ、苦笑いを作っていた。


 父が歩み寄ってくる。

 近づいてくるにつれて父の顔がはっきりと見えるようになってきた。

俺は首を縮め、自分の足元を見つめる。

そして、さらに後じさろうとする。だが、すでにラックに背後から止められていて動くことができない。

 もう父の顔を見られない。しかし、そうしていても、足音だけで父が近づいてきていることが分かってしまう。

 目線の先に、父の足が見えた途端、俺は目を閉じた。両手を握りしめ、肩に力が入る。脇も強くしまって、体全体が固まった。そして、父の怒鳴り声を待つ。


 「君は、やっぱり……。」


 しかし父は、小さくそう言っただけで立ち止まったままだった。

 俺は姿勢を変えず、少し待っていたがそれ以上何も起こらない。恐る恐る顔をあげると、父は俺ではなく、綾芽の方を見ていた。その綾芽は、手を後ろに回して、うつむき、つま先をぶつけ合ってモジモジしている。前にかかった前髪から少しだけ見える綾芽の口元は、叱られる前の子どものように真一門に閉じていた。


 「……お前は部屋に戻って寝ろ。君も早く家に帰りなさい。」

 「……。」


 諭すような優しい声音は、俺たちに言い訳の余地を与えない。ただ、うなずくことしかできなかった。

 俺と綾芽は同時に歩き出す。その足取りは二人とも、床を擦り、一歩一歩が小さいものだった。大人しく俺は部屋に戻り、綾芽は帰るという選択肢をとる。

しかし、すぐにまた父に呼び止められた。


 「君、その手に持ってるものは置いて行きなさい。」


 どうやら綾芽は、この期に及んで手に入れた書類を持ち帰ろうとしていたようだ。見てみると、父から見えにくくしているのか、書類は胸の前で握られていた。


 「……。」

 「置いて行きなさい。」


 立ち止まったまま動こうとしない綾芽に父は、もう一度小さな声で、だがはっきりと言う。

 ようやく綾芽は、すぐ左手にあったデスクにゆっくりと書類とペンライト置いた。置いた後もすぐには手を放さず、名残惜しそうに書類は掴まれている。しかし、観念したのか、ついに手を放す。持っていたものを失って、脱力しているようにぶら下がっているだけの綾芽の手を見ると、なぜだか虚しくなってきた。


 「ごめん。」


 そうつぶやいた綾芽に俺は答えられない。もう、終わってしまったことだ。今更どうこう言っても仕方がない。

 綾芽はそうして、玄関まで無言のまま向かう。俺は自宅につながるドアの前から立ってそれを遠巻きに見ていた。父も綾芽の後ろについて玄関まで向かっている。

 ここからはもう、父の陰に隠れてしまい綾芽の姿を見ることができない。

 二人は玄関で少し立ち止まっていたが、一瞬、フードを被った綾芽の顔がのぞいた。しかし、すぐ後には父の陰に吸い込まれ、玄関のドアが開いて閉まったことだけが分かった。


 事務所内は父が来たことによって、変わらない静けさのはずだが、硬い空気で満たされていた。掛け時計の刻む音も心なしか、とげとげしい。チクリチクリと耳の中に刺さってくる。

 立ち呆けている俺のところへ、父が戻ってきた。たばこの香りがする。久しぶりに面と向う父は、少し背の高い父はいつも以上に大きく感じられた。

もう事務所内は俺と父の二人だけだ。俺はまた目を強くつむって両手を握りしめる。そして、今言えることだけをどうにかして紡ぎ出す。


 「……ごめん、なさい。」


 反応はない。

 また静寂。


俺は父の言葉を待った。何か言い訳を考えようか、それとも順番にすべて話そうか、ただ謝るしかないか。俺は頭の中で、父の言葉の後に、自分が何を言うべきか一番いい答えを探し回る。しかし、答えは見つからない。

 父の長い溜息が吐かれた。


 「部屋に戻って寝なさい。」

 「……。」


 言おうと考えていたあれこれの言葉を、一つも口にすることができなかった。ただ、父の言うことだけが俺の次の行動を支配している。

 俺が無言でドアを開け、戻ろうとすると、父がささやき声で言う。


 「母さんを起こさないようにな。」

 「……。」


 俺は顔を向けず、耳だけでそれを聞き、一瞬止まる。だが、それに続ける言葉もなく、俺はドアを閉めた。


 部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。フカフカしたベッドが、身体に張りついた緊張感を吸い取ってくれる。沈みこむベッドが、いつもより深い気がした。このまま眠ってしまいたい。

 置いたままになっていたスマートフォンを取ると、そこには深夜一時五十七分と表示される。

 綾芽はちゃんと帰ったのだろうか、あの議事録に書いていたことは本当なのだろうか、明日、父さんと何を話そう、これからどうなるのだろうか、やはり怒られるのだろうか、綾芽はどうなるのだろう。


 あるかもしれないし、ないかもしれない。そんな未来が次々と思い浮かぶ。目をつむるとそれらの映像が、瞼の裏に映し出されていく。ああ、どうなるのだろうか。今日は疲れた。そう、疲れた。


 いつの間にか眠ってしまっていた。うつ伏せで寝ていたからか、身体が痛い。ジリジリと起き上がって、カーテンを開ける。


 昨日の夜に占拠していた重たい雲はどこかへ行って、すでに高くなった太陽が空を独り占めしていた。


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