第7話

 事務所のドアを開けた。


 ドアの向こうから現われた綾芽は、すごーいと小さな声で喜んでいる。いや、何もすごくはない。家の住人が中から鍵を開けただけのことだ。だが今回は、普通の状況ではない。父にとって全くの他人を、勝手に事務所内に招き入れてしまっている。


 内心、かなり緊張しているが、今はまだ誰にもバレていない。このまま静かにして、すぐ出てしまえば終わるのではないか。俺は、五分程度中にいたって大丈夫だと思うようになってきていた。そう、綾芽に少し調べさせて、終わった終わったと追い返し、俺は部屋に戻って寝る。それで何事もなかったことになるはずだ。


 綾芽が中に入り、ドアを閉めると、俺も事務所内を見渡す。そのとき、部屋の中に小さな丸い光がパッと浮かんだ。後ろを振り返ると、綾芽が右手にペンライトを持ってにやついている。準備万端だったようだ。綾芽としては探偵モードに入っているかもしれない。だが、それは勘弁してほしい。俺にとっては、とにかく早く帰ってもらうことが先決だった。


 俺も、事務所にはほとんど入ったことがないから、そこがどうなっているか、詳しくは知らない。しかし、ペンライトの光にチラチラと照らされることで、部屋の様子が次第に分かってきた。

 部屋の中央部分に六、七台くらいのデスクが固めて置かれ、壁にはビッチリと中身が詰まっているラックが並べられている。そして、特殊な空間を作り上げられていた。ラックのファイル、本棚、デスクの書類、パソコン、キーボード、ペン立て、卓上カレンダー、置時計、ティッシュの箱、リモコン、チェア、ソファー、小さなアンティーク、ポスター、観葉植物。すべてが縦に横にまっすぐ配置され、直線の世界がそこには広がっていた。誰一人としてズレることを許されない世界。何もかもに主人の性格があらわれていた。


 「何これ、お父さん、潔癖症なの?」

 「几帳面なんだよ。」


 そうしている間にも綾芽は、事務所の中を照らしながら歩いている。

 俺は一緒になって探すつもりもなく、玄関に一番近い、事務所内が見渡せる角に立っている。ウロウロしている綾芽を、ただ見ているが、何かを触ったり開けたりしている様子はない。綾芽はペンライトで近くを照らしては、次に進むだけだった。


 すると、事務所の奥、俺の対角線上の先の角で綾芽が立ち止まった。足元にペンライトを向けて下を見つめている。


 「ねぇ、ちょっと来て。」


 そう、微かな声で呼ばれ、俺は綾芽のもとに行く。綾芽が見つめる先には、腰の高さより少し低いくらいの、大型の金庫が照らし出されていた。

 それは、グレー単色で重厚感があり、扉には0から90のメモリが刻まれたダイヤルと、鍵穴、そしてドアレバーが横一列に付いていた。


 「これが怪しいわね……。」

 「いや、明らかすぎるだろ。」


 金庫だから怪しいという、なんとも短絡的な発想にツッコミを入れてしまう。


 「開けられるのか?」

 「そんなの私が知るわけないじゃない。」

 「じゃあ、どうするんだよ。」

 「さあ、どうしよう。」


 そう言う綾芽は、ペンライトを金庫の上に置き、しゃがんで、ドアレバーをガタガタと動かしている。


 「あっ。」


 綾芽は突然、手を止めて固まった。そして、ドアレバーを握りしめたまま、こちらに振り返る。なぜだか、半笑いだ。


 「ねえ、お父さんに、防犯意識を高めろって言っといて。」

 「え?」


 俺がとぼけていると、綾芽は金庫に向き直り、スーっと息を吸った。

 そして、俺の目の前で、金庫のドアレバーが勢いよく下げられた。ガチャリと重たい音を立てたそれは、まっすぐに縦になっていた。


 「マジかよ。」

 「鍵、かかってなかったみたい。」


 俺は、下げられたドアレバーから目が離せない。本当に開いてしまったのか。

急に、触れてはいけない秘密に手をかけてしまった気がしてきた。これは開けてはいけない。もし鍵かかかっていなかったとしても、勝手に見ていいものではない。俺の脳内に危険信号が点滅する。これ以上進んではいけない。


 「じゃあ、開けるわよ。」

 「おい————」


 俺が止める間もなく、綾芽はいとも簡単に金庫を開けてしまう。扉は分厚く重たそうだが、動きだけは軽そうだった。


 「んんー、見えない。」


 中をにらむ綾芽はうなる。俺も後ろから覗いてみるが、金庫の中は大きさの割に、狭く、見た目のほとんどが扉や構造上の分厚さだったようだ。

 綾芽は金庫の上に置いていたペンライトを取ると、中を照らす。しかし、そこには何もなく空っぽだ。いや、一つだけ、紙の束が入っている。逆に、それしかなかった。

 綾芽は左手でそれを取り出すと、ペンライトを握ったまま、とめられたクリップを器用に外す。


 俺も、ここまでくると興味が湧いてきていた。つい、気になってしまう。これだけの金庫に入れられた書類とは何なのか。見たい気持ちと、見てはいけないという自制心が、俺の中でせめぎ合う。いや、見るだけだ、見るだけ、知るだけなら何もないはずだ、その後も知らないふりをすればいいだけだと、そう自分に言い聞かせるようにする。

 綾芽は俺が悩んでいる間にも、ペラペラと書類をめくっていっている。


 「うーん、何かの議事録みたいね。」

 「議事録?」

 「うん、でもほとんど黒塗りになってて読めない。」


 そう言うと綾芽は、書類の一枚目に戻る。そこに照らされた文字を俺も読んでみる。


『■■■■■■委員会、■■■■年■■月■■日(■)、午後■■時■■分開会、午後■■時■■分閉会、場所:■■■■■』


 確かに、最低限の情報すら黒くつぶされていて分からない。これでは、読んでいないのと同じだ。どうやら、その議事録のほとんどがそのようになっていて、読んで理解できるところなどなかった。

綾芽はもう一度、一枚ずつめくっていく。俺もそれを目で追っていった。


■■■議員:『■■からの報告にあるように、■■■■は、■■■■■■■に■■し、問題なく、■■しているようです。』

■■■■:『■■■■■■■は、■■まで、あと■■■■ほどになりましたが、■■は報告されていません。』

■■■■:『■■後の■■、■■■、■■、その他■■■■に関する調整も早急に進めるべきです。』

■■■■議員:『来年度以降の■■■■■■に関する財源や、■■、■■■の調整も今から動きましょう。』

■■■:『■■時の■■や■■との連携も進めております。』


 どれもこれも、欲しいところが黒い。紙の束は枚数の割に、何も教えてはくれないようだ。俺はがっかりもしたが、少しだけ安心していた。重大な秘密に触れてしまうのかと、ひやひやしていたが、そんなこともなく、金庫を開けてしまった後も、何も知らない自分のままだったから。


 これで綾芽も満足するだろう。何も収穫はなかったが、怪しんだ金庫も開き、とりあえず何だか分からない書類が出てきた。綾芽にとっては残念かもしれないが、それでおしまいだ。

 俺はかがめていた腰をあげ、もう一度事務所を見渡す。何も変った様子はない。

俺は、掛け時計のカチカチ進む針の音で、結構時間が経ってしまっていることに気がついた。たぶん五分だけというのはとっくに過ぎているだろう。そろそろ綾芽を帰した方がいい。


 「ちょっと、ちょっと見てって。」


 俺が時間を確認しようと掛け時計に足を進めたとき、再び綾芽に呼ばれた。俺はしゃがむ綾芽のもとに戻り、視線を紙の束に落とす。綾芽は手に持った書類の何枚目かのページで止まって、じっくり読み込んでいるようだった。


 「なんだよ。どうせ真っ黒で分からないんだろ。」

 「ううん、ここ。」

 「どこだよ。」


 綾芽は書類をペンライトで照らしながらそう言うが、紙の全体が照らされていて、俺にはどこのことを指しているのか分からない。俺は上から順番に見ていくが、やはり黒塗りの文字列が続いているだけだった。

 しかし、下段に差し掛かった途端、議事録にはよく知った名前が登場していた。


 「長岡、ひろし……。」


 俺は自分の父の名をつぶやく。議事録には間違いなく発言者として、父の名前が記されている。というか、他のすべての発言者は黒塗りだが、父の名前だけがそうなっていなかった。


 「えっと、『長岡洋議員:「勝城組かつじょうぐみについてですが、これまで通り規則に従いながら、■■■■■■なになにに関する報告書を提出しております。■■なになにの管理も徹底されているようです。」』って。」

 「勝城組。」

 「そう。たぶん、あの勝城組のことだと思うわ。」


 父が地元暴力団の名前を言っている。その記録が俺の耳を通って、思考にぶつかってくる。他に比べると格段に理解できる内容であるはずだが、俺にはどうも飲み込めなかった。勝城組、報告書、規則、提出、管理、徹底。分かる言葉の組み合わせを何度も何度も目でなぞっていくが書かれていることは変わらない。それらはやはり、父の言葉として残されていた。


 「ちょっと貸して!」


 俺は、綾芽の持っている書類とペンライトを奪い取り、さっきの続きの部分を読んでいった。黒塗り、黒塗り、黒塗り。黒塗りが続いた先にまた父が現われる。


 「えっ……、『長岡洋議員:「■■■■■■なになにに関する活動資金の増加を勝城組が求めてきています。財源の調整にかかわることなので、慎重に判断していくよう、後日の議題にしたいと思います。」』……なんだよこれ。」

 「クロね。」


 綾芽は立ち上がって、俺の方を見ながら言う。


 「何がクロなんだよ。」

 「お父さんと勝城組が何かしら関わってるってこと。それも、密にね。」

 「でも……。」


 俺は綾芽が下す結論に、どうにか言い返そうとしたが、何も言えなかった。言い返せるだけの材料が思いつかない。俺はもう一度、手に持った紙を見てみるが、もう分かることもなかった。


 真っ暗な事務所の中で二人して立つ。相変わらず、掛け時計は同じリズムを刻んでいる。それ以外の音は、今はない。

 俺は肩を落とし、綾芽は胸を張る。いい証拠を見つけたと言わんばかりに大満足の様子だ。俺にとっては、全く喜ばしくない情報だというのに。


 「どうしよう……。」

 「どうしようって、決まって————」


 『おい、何してる。』


 背後から低い声が飛んでくる。

 振り返ると、スーツ姿の父が、俺たちから一番遠い角に立っていた。

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