第6話

 あの日以来、綾芽からの呼び出しはなかった。俺から行って話しかけようとも思ったが、結局する勇気はなかった。廊下ですれ違うこともあったが、綾芽はまるで知り合う以前のように、俺を気にしてもいないようだった。


 今里には、俺と綾芽の関係がどうなっているのかと、毎日毎日質問攻めにあった。特に何もないとどれだけ言っても、とか言ってさーと納得してくれない。それに、月曜日に呼び出されて何を話したのかと聞かれたときは、咄嗟に嘘をついてしまった。まさか、自分の父親が地元暴力団と関わりがあるかもしれないと、自分の口から言うことができない。そもそも俺は、綾芽の言ったことが本当のことだとも信じ切れていない。証拠もないのだから。


 だから、俺は誰にも話すこともできず、悶々と一人で悩み続け、ついに土曜日の深夜を迎えてしまった。

 俺は、ベッドの上で毛布を被りながら眠りにつこうと、必死に目をつむっている。だが眠れ、寝ろと唱えるほどに目が冴えてきてしまう。


 綾芽は本当にうちに来るのだろうか。もしかしたらもう来ているのだろうか。来たとしてどうやって入るつもりなのだろうか。すでに何とかして入り込んでいるのだろうか。実はもう調べ終わっているかもしれない。もし、事務所の方から物音が聞こえてきたらどうしようか。寝ている母は気がつかないだろうか。母が何かに気づいてしまったらどうしよう。俺は寝たふりをする方がいいのだろうか。俺も母について見に行くのだろうか。もしそれで事務所を漁っている綾芽が見つかったらどうなるのだろうか。未成年者が不法侵入するってどんな罰を受けるのだろう。


 俺の頭の中で、見てもいない光景がぐるぐると回り続ける。もし、もしかしたらが止まらない。どれだけ考えないようにしても、余計に考えついてしまう。今、綾芽は何をしているのだろうかと。そして、どうなるのだろうかと。


 一体どれくらい時間がっただろうか。俺はスマートフォンを取って、画面をつける。暗闇に慣れた目には明るすぎる光。日付が変わった深夜十二時四十二分だった。

 このままだと夜を明かしてしまいそうだ。


 俺は、今夜、何事も起こらないという確証が欲しくなって、静かに自室のドアを開けた。

 一回だけ、家の周りを確認してみよう。ついでに、外から事務所の中も覗いてみたい。外には誰もいない、もちろん事務所の中は真っ暗で人のいる様子はない。それを見届ければ安心して眠れると思う。


 母に気づかれないように、軽くすり足のように腰を低くして歩き、階段をゆっくりと降りる。俺は小さくミシミシと音が鳴る度に動きを止める。物音を立てないように歩くのは結構疲れる。普段使わない筋肉まで使っているような感じがする。

ようやく玄関までたどり着くと、隅っこに置かれたスリッパに裸足を突っ込み、ジャージのまま外へ出る。


 九月も中頃を迎え、夜は涼しげな空気が流れるようになってきていた。それに、今日はなんだか湿っぽい空気が鼻を抜ける。上空には、黒く重たそうな雲が一面に塗られていた。


 俺は、肌にまとわりつくような空気の中、隣の棟になっている事務所の玄関へ向かってみる。暗いが、遠目からでもドアが開いている様子はない。

 ただそれだけのことで、不安が掻き消されたような気がした。けれども、それらは完全に掻き消されることもなく、もっと確かめたくなってくる。

 俺は、足を擦って砂利を鳴らさないように気を付けながら、事務所玄関を通り過ぎ、事務所の角を目指す。裏の方まで見て、それで戻って寝よう。それで終わるはずだ。


 しかし、角を曲がったとき、それに気づいてしまった。

 一階の小さな窓の下、事務所の壁と塀の間にしゃがみ込んだ人がいる。人が一人通れるスペースにすっぽりとはまっていた。暗くてよく見えないし、たぶんフードを被っている。

 近づいていくと、向こうもこちらに気づいたのか、一瞬びくりと飛び上がった。しかし、また腰を落ち着かせ、こちらに顔を向けて同じ姿勢に戻る。


 「ほんとに来たのか。」

 「やっと出てきたー、もう、まじ寒かったんだからー。」


 そう言う綾芽は、両手を抱え込んで身体をさすっている。グレーのだぼついたスウェットパンツに黒のパーカー、そしてマスク。昼なら若者ファッションかもしれないそれらは、暗闇の中で不審者を作り上げていた。


 「いつから来てたんだよ。」

 「んんー、十一時半くらいから?」

 「そんなに。」


 人の家の陰に、一時間以上も縮こまっていたらしい。残暑の九月とはいえ、冷えてくるに決まっている。どこからそれだけの執念が生まれてくるのだろうか。それに、俺以外の人が見つけていたらそれこそ補導されたのではないだろうか。


 「でも結局は入れなかったんだな。」


 分かりきったことだが言わずにはいられない。不可能だったという事実を綾芽に認めさせたくなっていた。高校生が他人の家に忍び込むなんて芸当、できるわけがないのだ。


 「当たり前でしょ? 私が外から鍵を開ける方法なんて知るわけないじゃない。」

 「はぁ?」


 ケロっと言いのける綾芽の反応に、逆に俺は戸惑ってしまった。入れないと理解しながら来たというのなら、ますます来た理由が分からない。てっきり、何か策を用意しているとばかり思っていた。そして、それが簡単には通用しないだろうということも。


 「じゃあ、どうするつもりだったんだよ。」

 「だから悠太君が出てくるのを待ってたのよ。」

 「俺が?」


 いつの間にか、俺が綾芽を待たせる側になっていたらしい。そんな約束したつもりはない。かく言う綾芽は腕を組んで怒りと不満を身体で表現していた。


 「いや、俺が出てくるかどうかなんて分からないだろう?」

 「だけど、出てきてくれた。」


 確かにそうだ。今こうやって、勝手に待っていた綾芽の前に、俺は出てきてしまっている。綾芽が来ているかどうかも分からなかったのに。


 「えっとね、悠太君、こう考えたんじゃないの? とにかく、私が来ていないか一回だけでも確認しておこうってね。」


 それもその通りだ。完全に俺の考えていることが見透かされている。


 「ど、どうしてそう考えるんだ?」

 「ええー、悠太君って、ちょー心配性でしょう? 私が絶対やるって言ったから、ほんとに来るかもしれないし、バレるかもしれないって考えたんじゃない? それで寝付けなかったでしょー。」

 「……。」


 俺は綾芽の手のひらで踊らされていたようだ。まんまと綾芽の言葉の通り、考えて行動してしまったらしい。心配して、心配して、気になって、確かめたくなって、つい出てきてしまった。ベッドで丸まって夜を明かした方が、今よりよっぽどよかったかもしれない。

 街灯の光も差し込まないこの隙間では、足に触れる空気が余計に寒く感じてきた。吹き抜ける風が辺りの草木を揺らすが、ささやかなそれは静まり返った町の小さな音でしかない。それでも、じめっとした空気を少しでも押し流してくれている。


 「もういい、分かったから帰って。」

 「ええー、中から開けてよー。」

 「そんなこと、絶対にしない。」


 建物と塀の狭い隙間で俺たちは言い争う。俺が拒否すると、綾芽はブツブツと小さな声で、文句を言い始めた。ケチ臭い、これだからビビりは、ちょっとくらいいいじゃない、と次々と言葉が飛んでくるが、俺は無視を決める。取り合うとまたうまく使われてしまう気がした。


 「分かった。」


 そう言いながら綾芽は立ち上がり、おしりの部分を手で払う。そして、マスクも外して俺の方に向き直った。


 「じゃあ私、騒いでやるから。大声出して、叫んで、近所の人みんな起こしてやる。」

 「は? そんなことしたって、どうにもならないだろ。」

 「見に来た人に言ってやるわ。『この人に襲われました!』ってね。」


 何が何でも、また無茶苦茶だ。


 「それじゃあ、うちを調べることもできないじゃないか。」


 人の注目を集めてしまっては、今日やろうとしていたことは、たぶんできなくなるだろう。まさか注目を集めている間に何かしようとでも言うのだろうか。それとも、それで俺の母に取り入って家に上がろうとしているのか。まったく何がしたいのか分からない。


 「いやー、同級生を襲ったなんてこと、広まったら悠太君どうなるかなー?」

 「俺は無実に決まってるだろ。」

 「でも、『噂』くらい簡単に立つかもしれないよー、それを全部説明してまわれるかなー?」


 まさかの脅し。だが、脅しにしては弱い。噂はどこまでいっても噂でしかないし、確実に生まれるわけでもない。


 「それだけ言うなら、やってみろよ。できっこないくせに。」


 俺の返答を聞くと、綾芽は俺をにらみつけてきた。ジッと俺と目を合わせ、手に持ったマスクをパーカーのポケットに突っ込んで、こちらに一歩踏み寄ってきた。


 「どいて。」


 低く短い凄みのある声で、俺は思わずどいてしまう。綾芽は俺と塀の隙間をすり抜けて、建物の正面へ向かった。怒らせてしまったようだが、帰ってくれるのだろうか。俺も綾芽に少し遅れて玄関前まで戻る。

 そこには、綾芽が通りに向かって立っていた。なんだか腕を大きくあげてはさげて、スーハ―スーハ―と深呼吸をしている。

 まさかっ……。


 「おい、待っ———」

 「アッッ———」


 一瞬だけ、町に声が響いた。だがすぐに、町に流れる風の音、街路樹のカサつく音だけになる。ちょうど目の前に立つ街灯の光が、周りの暗さを際立たせている。その光は、家の玄関前まで差し込んでいて、周りの様子を明かしてくれている。

俺は考える間もなく、後ろから綾芽を止めにかかっていた。

 勢いのあまり、俺の体重が前にかかって倒れかかるが、綾芽は右足を出して踏ん張っていた。敷き詰められた砂利と二人分の足がジリジリと擦れる音を鳴らす。俺の手の中では、綾芽が何かを言おうとあがいていた。


 町は静かさを保っていた。母が起きた様子もなく、通りには人もいない。間一髪のところで綾芽の暴走を止めることができたようだ。


 しかしそれが分かると、今度は自分の態勢に気づく。綾芽を後ろから密着しておさえ、左手は体に回っていて、右手は強く口を押えている。これでは、本当に襲っているみたいだ。綾芽はまだもがいていた。

 俺は慌てて離れる。俺の鼻には加工のない香りが残り、手にはおさえていた柔らかい感触も残っていた。身体が熱くなってきた。じんわりと汗ばんでもいる。汗で張り付く服の感触が不快だ。

綾芽は、ハァッと短い息を吐くと、少し崩れた服を整えて、くるりとこちらを向いた。


 「これで分かったでしょ?」


 綾芽は声を潜めて言う。


 「なにが。」

 「私が本気だってこと。」


 どれだけ綾芽が騒いで嘘を言っても、嘘は嘘でしかない。だが、頭ではそう分かっているが、実際にそうなる瞬間を見てしまうと焦ってしまった。俺たちが持っている手札など大したものではないはずなのに、綾芽の方が一枚上手な気がする。それも、ほとんど勢い任せで。

 俺はどうにかして穏便に事を済ます方法を考える。綾芽がここから何もせず、帰れば済む話だ。ただそれだけなのに、いい方法が思いつかない。


 「じゃあ、中から開けて。」


 もう勝ったという余裕の表情で、俺に注文を付けてくる。少し顔をあげて上から目線を作っているところが余計に腹立たしい。それに、さっきまで寒がっていたはずだが、今はそうではないようだった。綾芽は腕を組み、片足に体重を預けて立っている。


 「いや、開けない。絶対に手伝わないからな。」


 どれだけ言われようと、俺は協力する気になれない。もう俺には綾芽の言うことを、突っぱねることしかできなかった。


 「なら、やっぱり叫ぼうかなー。今日はおじゃんになるけど、仕方ないかなー。それとも、叫ぼうとする私と止めようとする悠太君で、騒ぎを作ってみる?」

 「それは……。」


 俺がどうしたって、不利な状況だ。なんでこうも無茶苦茶なのに、俺の嫌なところを突いてくるのだろうか。綾芽に叫ばれても襲った扱いをされる。綾芽を止めても襲った扱いになる。すべてが『かもしれない』にもかかわらず、その状況にはなってほしくないと思ってしまう。悪い方へ悪い方へ俺の予想が進んでしまうから。


 「はあ……、分かった分かった。開けるよ開ける。それで満足するんだろ。」

 「やったー、満足満足、大満足!」

 「ただし、絶対に静かにして、音を立てないこと、すぐに出ること、これが条件だ。」

 「うんうん。五分だけにするって。」


 あまり信用もできないが、もう仕方がない。綾芽を事務所の玄関前に待たせ、俺は自宅の玄関に戻る。ゆっくりとドアを開けて入るが、母が気づいている様子はない。静まり返ったままだった。


 俺はまた、床の軋む音に時々足を止めながらも、一階リビングの奥にあるドアにたどり着いた。この一枚で自宅と事務所がつながっている。


 俺はドアレバーをそっと掴んで下げる。すると、それは何の抵抗もなく下がり切ってしまった。やはり鍵はかかっていなかったようだ。

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