第5話

 「よし。土曜の夜、悠太君の家を調べよう。」


 確かにそう言う綾芽は、真剣さを出そうとしているようだが、少し笑みが出てしまっている。探究心でもくすぐられているのだろうか、楽しみという感情が隠しきれていない。


 「いや、なんでさっきの話から、俺の家を調べるになるんだよ。」


 とりあえず聞くしかない。父と地元暴力団が関わっているかもしれないという、衝撃的な話を聞いた俺は、その後のことなど考えられなかった。今は、聞いたことを咀嚼するだけで精一杯だ。


 綾芽は手元にあるクリームが挟まった最後のドーナツを一齧りする。齧ったところから、クリームが押し出されてきて、綾芽はアワワと指で押さえながら、それを口に包み込む。またご満悦のようだ。一か所を切り崩されてしまったドーナツが、丁寧に皿に置かれる。綾芽はテーブルの隅に立つ紙を取って指についたクリームを拭き取ると、話の続きに戻る。


 「秘密がありそうなら、その人のことを調べるのがセオリーでしょ? だから悠太君の家を調べるの。」

 「セオリーって……、探偵じゃないんだから。」

 「秘密を暴こうってのよ! れっきとした探偵、ディテクティブね。」


 ただそれがしたかったのだろうか、と俺は呆れるしかない。それに、カタカナ発音された単語は何だ。探偵を英語で言うと何か変わるのか。ディテクティブと言った綾芽は、なぜだかキリリと鋭い眼を作って顎に手をやる。さしずめ、謎を解き明かす時の探偵といったところだろう。ポーズを作る綾芽はなりきっているつもりらしい。


 そう言えば最近、探偵ものの海外ドラマが流行っていると聞いたことがある。俺も一話だけ見たがハマりはしなかった。もしかすると、綾芽もそのドラマを家で見て、影響されたのだろうか。


 「で、どうするの?」


 綾芽の日常に想像を膨らませていると、結論を急ぐ問いが俺に投げられた。


 「どうするのって言われても、それって警察の仕事じゃないか? 俺たちの出る幕じゃない。」


 俺は簡単に見つかった答えをそのまま口にした。


 「警察? いきなり高校生がこんな話を持ちかけても、動くわけないでしょ。だから、私たちが証拠を探し出そうって言ってんの。」

 「それがおかしいんだよなあ……。」


 綾芽は信じられないくらいに、自分がしようとしていることのリスクに考えが至っていないらしい。


 「でも、バレたらどうするんだよ。考えてるのか?」


 俺は失敗の可能性をぶつける作戦に出た。そもそも、確実にバレない方法が存在するのなら、とっくに泥棒が実践しているだろう。要するに、必ずバレて失敗する可能性があるということだ。探偵気分の綾芽にとって、それは避けなければならないことに違いない。だから、綾芽がそのことについてどう考えているか聞き出したかった。

 ただ、俺の問いに綾芽は、ニヤリと口角を上げる。


 「そうね、考えてる。だから悠太君の出番なわけ。」

 「俺の?」


 一体、俺に何ができるのか。探偵スキルでも備わっていると綾芽は言うのだろうか。俺が活躍できたことなど、これまでの人生を振り返ってもない。何も起こらないように起こらないように生きてきたつもりだ。今だって綾芽が何事も起こさないように差し向けたい。

 綾芽は自分の赤いカップを取ると、もう少なくなっていたのか、呷るようにして飲む。俺の目の前で、綾芽の喉仏が上下する。細くて白い。俺がそれを見つめていると、中身を飲み干して、上に向かっていた顔を勢いよく前に戻した綾芽と目が合う。


 「そう! 悠太君は身内でしょ、身内が家を何かしたってバレても、それこそ警察沙汰には絶対ならないでしょう? ちょこっと怒られるだけ。」

 「俺を身代わりにしようってことか。」

 「違う違う。言うなれば盾ね。いや、緩衝材かも。」

 「どっちにしても、やっぱり身代わりじゃないか……。」


 出番は出番でも、活躍の出番ではなかったようだ。しかも、俺にとっては割に合わない。身内だからといっても、もちろん怒られたくもない。綾芽は簡単にちょこっとと言ってみせるが、たぶん、ちょこっとでは済まないだろう。身内を警察に突き出すことはなくとも、殴られるくらいあってもおかしくないんじゃないか。


 「それに、悠太君の家って、当然、中で事務所と繋がってるでしょう? 家族なら簡単には入れるんじゃないの?」


 ご明察だ。俺の家は駅前にしては贅沢に、自宅用の建物と事務所の建物が二つ建っているように見える設計になっている。ように見える、というのは通りから見ると、玄関も正面に二つあって、別々の建物のようになっているということだ。それでも、やはり自宅兼事務所ということで、一階部分はドア一枚で繋がっている。母も日常的に、自宅のキッチンからそこを通って、お茶菓子を運んで行っている。そこの鍵がかかっていたことなど、おそらくないだろう。


 俺は一瞬、そこのドアを通って、真夜中の事務所に忍び込んでいる自分の姿を想像してしまった。そのとき立てるであろう足音、ドアを開く音、ドアを閉めて怪しそうな引き出しを開けて漁る音。俺が想像する物音程度ならば、隣の二階で寝ている母には気づかれないだろうと、つい考えてしまった。いや、そうではない。そもそもバレないからと言ってやっていいことではないはずだ。

 俺は脳内に広がって落ち着こうとする雑念を振り払う。


 「いや、だからって俺は協力しないからな。」

 「ええー、けちんぼー、いいじゃんかー。」


 綾芽は小さな子どもに戻ったように、大きく手足をバタバタさせて駄々をこねる。リアクションの大きさに俺も慣れてきた。ブーブー言う綾芽は可愛くも見えてくる。だが、ここは店だ。もう少し大人しくもしてほしい。俺は少ない客から向けられる目線を気にして、まあまあと綾芽をなだめる。


 「だって、俺には何のメリットもないだろう?」

 「メリット? メリットならあるじゃない。」


 なんで気づいていないんだ、とでも言いたげに驚く綾芽は目を丸くしている。俺には、こっぴどく怒られるかもしれないというリスクを犯してまでも、得るべきメリットなど考えつかない。ここまでで、俺にとってうれしい情報など一つも出てきてくれてはいない。


 「例えばね、調べて何もなければ、それでおしまい。何かあっても悠太君が直接証拠を突き付けて改心させられれば、父親が悪事から手を引くかもしれない。それとも、いつか世間にバレて、このご時世に夜逃げでもしてみる?」


 また、無茶苦茶だ。

綾芽は自分の言っていることにどれだけ自信があるのだろうか。もし、何か見つかったとしても俺がどうこうできる気がしない。説得が成功するかどうかは別問題だろう。そもそも、俺としては何もないことほどありがたいことはない。それに、綾芽は可能性の話をしているのだろうが、まだ出ていないこともある。


 「でもさ、このままずっとバレない可能性だってあるんじゃないか。実際、今まで何も言われてなかったんだから。」

 「そんなの可能性の話じゃない。言い出したらキリないって。それにもしかしたら、最近になって関わり始めたのかもしれないし。」

 「そっちこそ、可能性を言ってるだけじゃないか。」

 「そっちだって同じでしょ! なんでそうも嫌がるの。ビビってるの?」

 「ビビってるとかじゃない。現実的に考えたらそうなるだろ。」

 「私の言ってることが現実かもしれないじゃない!」

 「だから、かもしれないはキリがないって言っているだろ。」

 「だから私は確かめようって言ってるの!」

 「それが無茶苦茶なんだよ。俺たちには何もできないに決まってるって。」

 「何もしないで決めつけてるの? それがビビりなのよ。」

 「普通に考えてるだけだ。もっと冷静になった方がいい。」

 「私が冷静じゃないって言ってんの?」

 「ああ、冷静じゃない。そんな計画、俺は手伝わないからな。」

 「ああもう……‼」


 お互いに黙り込んでしまう。沈黙。それはせめぎ合い、摩擦を起こし温度を増していく。綾芽が何を言っても、俺が何を言っても、お互いに考えを改めることはできないようだ。いや、俺が説得させられてはいけない。そんなことになったら、綾芽の探偵ごっこに付き合わされるだけだ。


 綾芽は眉間にしわを寄せ、指先を机に当ててカツカツと音を鳴らしている。小さいはずのその音は、人の少ない店内に反響しているかのように増幅して、俺が聞き取る音を侵食してくる。ただの軽いリズムがチクチクと刺さる。だが、綾芽がどれだけ感情的になろうと、俺も引き下がるつもりはなかった

 だからと言って、説得する言葉も思い浮かばず、俺は手元に残っているドーナツを齧る。出来立てだったそれは、いつもも冷めきっていてもおいしいはずなのに、なんだかやけにパサついている。進む時間までも遅く感じてきた。一秒が長い。十秒はもっと長い。当たり前のことなのに、その時間を味わっているのがもどかしい。


 そんな空気に耐えられず俺が声をかけようとしたとき、スマートフォンの着信音に先を越された。デフォルト設定のどこでもよく聞く着信音だが、俺のではない。

 綾芽は、隣の席に置かれたスクールバッグの口を開け、東京にあるテーマパークのキーホルダーがぶら下がっているスマートフォンを取り出すと、耳に当てて話し出した。


 「もしもし?」


 俺には、うん、うん、あ、そうなの、と相づちを返す綾芽の声しか聞こえない。ただ、声のトーンは親し気なものに聞こえる。さっきまでの様子は思えない変わりようだ。


 「ううん、いいよ。今から帰るから待っててもらって。うん、じゃあ。」


 そう言うと綾芽は電話を切って、ドーナツの最後のかけらを口に放り込む。そして、咀嚼しながらも、素早く紙で指を拭き取って、スマートフォンをポケットに入れ、スクールバッグを閉めた。


 「誰から?」


 何の気なしに、とりあえず聞いてみる。たぶん、親か友達あたりだろう。


 「うちから。なんか、友達が遊びに来ちゃったみたいって言うから、私帰るね。」

 「え⁉ 話は終わってないだろ?」


 ここでまた解散されても困る。綾芽を説得することもできていないし、それに、本当に実行するのかも聞いていない。すべてが途中だ。


 「ううん、終わった。土曜の夜、悠太君の家を調べる。そのときならお父さんも出張でいないん————」


 『コーヒー、カフェオレのおかわりはいかがですか?』


 突然、俺たちの間に店員が割り込んだ。いきなり声をかけられて焦った俺は、慌てて空のカップを差し出してしまう。こういうときうまく断れない。一方の綾芽が手のひらを見せてノーと意志を伝えると、店員は小さくお辞儀をして去っていった。


 「だから、俺は手伝わないって言ってるだろ。」


 止まってしまった会話の続きを再開する。


 「なら、私一人でやるから。絶対に邪魔しないでね。」


 もう、俺の話に耳を傾けるつもりはなかったようだ。再開した会話も、一回で終ってしまった。

 綾芽は椅子を下げると勢いよく立ち上がり、スクールバッグを肩にかける。そして、一言、じゃあねと言うとトレーを持って一階へ降りる階段に向かっていった。そして綾芽は、階段の陰に吸い込まれていく最後まで、一度もこちらを振り返ることはなかった。


 この前のように一人残されてしまった俺は、再びたっぷり注がれた熱いカップを両手で包み込む。ドーナツもまだほとんど残っていた。俺たちが話をしている間にも、店内の人は増えていたようだが、それでも席は半分くらいしか埋まっていない。


 俺はふと、外の景色に目をやるが、まだ夕暮れにもなっていなかった。窓から見える駅のホームには帰りの生徒がいる。スクールバッグを地面において小さな円を作っていたり、ホームに横になって並んで立っていたりするが、彼らは皆、楽しそうに話をしている。当然、何も聞こえないし、表情すらも判別できないが、彼らが醸し出す雰囲気だけでそれが十分に伝わってくる。

 どれもこれも、いつもと変わらない日常の風景だ。ドーナツを齧って、コーヒーをチビチビ飲む。それら日常が落ち着いた店内と相まって俺をリラックスさせ、さっきまで軽く言い合いをしていたことが、遠い過去のことのように感じられてきた。


 綾芽は土曜日の夜、本当にうちに来るのだろうか。来たとしてどうやって調べるつもりなのだろうか。それに、計画を知ってしまっている俺がそこにはいるのだ。無視したり気づかないふりでもした方がいいのだろうか。少なくとも、このことを家族に言う気にはなれない。なんと伝えたものかも分からない。そうなると、知らなかったことにするのがお決まりだろうか。


 俺は土曜日のことを考えたり、宿題をしたり、読みかけだった話題の小説を読んだり、チビチビとコーヒーを飲んで窓際四人席一人を満喫した。


 後半に差し掛かっていた小説は、うじうじしていた普通の主人公が、勇気を出して運命に抗おうと一歩を踏み出したところだった。ヒロインと自分に降りかかる試練に真正面から立ち向かい、自分たちの世界を自分たちで塗り替えていく。劇的で超展開な王道の成長物語だが、理不尽な世界に抗う主人公たちの展開が期待と不安に彩られていて、ページをめくる手が止まらない。そのままハッピーエンドを迎えると思いきや、新たな困難が現われ、解決したと思いきや、新たな問題が主人公たちに立ちふさがる。

 何気ない場面が大切であったこと、隠されていた真実、仲間だと思っていた人物の裏切り、敵役との協力、ヒロインの抱えていた辛い過去、すれ違う人々の想い。物語は色々な要素が交じり合い、重なり合って、ドラマティックに進んでいき、張られに張られた伏線を洗いざらい回収し、大団円を迎える。ハッピーエンドで面白かった。

 読み終わり、窓の外を見てみると、いつの間にか暗くなった空と街灯の光で町が包まれていた。スマートフォンを見てみると、そこには午後七時十二分が表示された。平日だったこともあってか、店から追い出されることなく、すっかり長居してしまった。

 俺は広げたノートや筆記用具、文庫本をスクールバッグにしまって、トレーにあるごみを片付け、店を出た。

今や駅前には、サラリーマンや部活終わりの生徒で混んでいた。



 俺が重なって停められている自転車の中から、自分の自転車をガシャガシャ引っ張り出していると、しゃがれた声が飛んできた。


 「君が、長岡悠太君かね。」

 「はあ、そうですが……。」


 見たところ、もう六十歳は超えているだろうか。もしかしたら七十歳かもしれない。年相応に顔は皴を刻み、だいぶ痩身で背が高い。俺と同じくらい、一七〇センチはあるだろう。それでも、髪は薄く染められたグレーヘアで、軽くオールバックで整えられ、上下ブラウンのカジュアルスーツはダンディなスタイルを作っている。


 「あの、何か用ですか?」


 だが、俺はこの人を知らない。どこかで会ったことがあるのだろうか。記憶のページをとめどなくめくっていくが、思い当たる人物は登場してこない。


 「いいえ、ただ…………、頑張ってください。それでは。」


 そう言うとその人は、ゆっくりと向きを変え、これまたゆっくりと歩いて行く。その足取りは一歩一歩、その時間を味わっているように余裕を醸し出していた。

 人違い、ではないだろう。間違いなく俺の名前を口にしていた。だが、少しずつ遠ざかっていく後姿に、声をかけることができなかった。


 俺は見ず知らずの小さくなっていく背中を目で追いかけていたが、帰宅ラッシュで賑わう駅前の雑踏に紛れ込んだ途端、見失ってしまった。

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