第4話

 俺はドーナツとコーヒーをのせたトレーを、二階窓際にある四人席の一つに置いて座る。ここからは電車のホームがよく見える。放課後だけあって、店内もホームもうちの制服を着た中高生がほとんどだ。駅前にも放課後をもてあそんでいる生徒が、日陰に潜んでおしゃべりに興じていたりする。


 結局、学校を出たところで行先の知らない俺は、綾芽に先を譲って後をついて行った。綾芽は徒歩通学らしく、俺も自転車を押して駅前のドーナツ店まで連れられてきた。だが道中、綾芽は真剣な表情で一言も話しかけてこなかった。顎に手をやって下を向きながらも、まっすぐとした姿勢で歩き続けた。俺も聞きたいことはあったが、その雰囲気に話しかけることがついにできなかった。


 俺たちはたっぷり十五分ほども、自転車の車輪が回るチリチリする音を聞き続けたのだった。


 店内を見渡すと、放課後でも時間が早いからか、込んでいる様子はない。テーブルには、季節限定商品のポップが大きく貼られている。隅には観葉植物が置かれ、空調の風で揺れている。他の席には参考書を広げる生徒に、世間話を繰り広げる主婦が楽しげに話していた。

 まだ、綾芽は一階から上がって来ないで、先に注文を済ませて受け取った俺は待ちぼうけをくらっていた。

 窓の外を見ながらコーヒーを飲んでいると、対面した席に三つのドーナツが積まれたトレーが置かれ、やはーと歓喜の声を挙げながら綾芽が座った。綾芽は荷物をテキパキと空いた横の席に置くと、さっそくドーナツに手をつけてご満悦の様子だ。俺が目の前に座っていることなど知らないように。


 「なあ、なんでドーナツなんだ? またラーメン屋じゃないのか。」

 「失礼ね! 毎日毎日ラーメンばっかり食べてるとでも思ったの。今はドーナツが食べたかったの。」


 そう言いながら、綾芽の手にあるドーナツは次々と食べられていき、あっという間に一つがなくなった。綾芽は赤いカップに入ったカフェオレを一口飲むと、ふーと落ち着いた様子を見せ、こちらに向き直る。その表情は真剣さと高揚感が入り交じっていた。


 「じゃあ、本題に入りましょうか!」

 「待て待て、その前に。なんだったんだ、さっきの俺の呼び方は。」

 「さっきって、なんのこと?」

 「学校で、ホームルームが終わった後、俺を呼びに来ただろ!」

 「ああー、嬉しかったでしょう、あんな風に呼ばれたらー。」

 「これっぽっちも嬉しくないし、恥ずかしくて死にそうだった……。」


 教室での寸劇は面白がってのことだったらしい。まあ、俺にもそれ以外にあれを説明できないが。


 「でも、あれはただのおふざけってわけでもないよ。」


 俺の考えを見透かしたかのように、綾芽は説明を加える。


 「あんな呼び方されたら、普通呼ばれた方は逃げようがないでしょう? なんか反応しないと不自然だもん。それに、あれのおかげで今度からは、クラスの違う私たちが話しててもおかしくなくなるでしょ?」

 「とか言ってるけど、おふざけ半分だったろ?」

 「ううーん、そかもね。」


 やっぱりおふざけも含まれているじゃないか。それでも、綾芽の言ったことは分かる。あの状況で俺が無視を決め込んでいたら、明日、別の意味で注目されただろう。それに、俺と綾芽が知り合いだということも周知することも確かにできていた。完全に綾芽の策にはまっている気がするが、起こってしまったことは変えようがない。大人しく受け入れるとしよう。


 少し気を取り直して、俺もドーナツを食べる。大手チェーン店だけあって、どこで食べても普通においしい。綾芽も二つ目のドーナツに手をつけ始めている。


 「いやー、やっぱり普通のドーナツがおいしいわね! 普通が一番!」


 そう言う綾芽のトレーには、変わり種はなかった。どれもシンプルな定番ドーナツばかりだ。プレーンにチョコ味、クリームが挟まったドーナツの三つ。プレーンはもうさっき食べられてしまったが。


 「まあ、さっきのことは分かった。じゃあ、本題とやらに入ってくれ。」


 こっちから話題を戻したのだが、綾芽はうむむと悩んでいる。さっきまでノリノリで話そうとしていたくせに。呼び出すくらいなら、話す内容はまとめておいてほしい。


 「いいけど、何から話そうかなあ……。」


 話される内容を知らない俺に、何も言うことはできない。ただ、綾芽の考えがまとまるのを待つだけだった。そんなに複雑な話なのだろうか。それにどれだけ俺の関与があるのかが一番の気がかりだ。ただ待つだけの俺はドーナツを齧る。


 「よし。まずはうちの説明からしましょうか。料亭のことあんまり知らないんでしょ?」

 「そうだな、行ったことはないし、詳しく聞いたこともない。」


 綾芽は、背もたれに崩していた姿勢を正して、テーブルに肘をついて話し出した。それでも目線は、窓の外に広がる風景のどこかに向かっている。


 「うちの料亭は、江戸だったか明治だったかが創業なの。とにかく老舗ってこと。それより昔も、天満宮の参拝客にお茶菓子を出したりしていたそうだけど、ちゃんとしたお店になったのは、ここ百五十年くらいね。」


 老舗だとは知っていたが、江戸時代より前から歴史があるとは初めて知った。


 「で、天満宮の中にあって歴史もあって、設えられた庭園も風情があって。そんないい立地のおかげで、うちは有名店になったらしいの。そしたら、時の天皇とか総理大臣、ある時にはどこかの国のプリンスまで来るようになったそうよ。」

 「それは、ほんとにすごいな。」

 「ええ、まあね。」


 綾芽の返事は俺の言葉に喜んでいるそれではなかった。たぶんこれまでにも、家の料亭がすごいなんて感想を嫌ほどもらってきたのだろう。まさに、機械的な返事だった。


 「もちろん、今でも界隈の重鎮たちが足繁く通ってるんだから。別にうちはお客の選り好みはしてないから、いわゆる一見さんでもファミリーでも来るけどね。でも、そういう重鎮たちが集まって来てする話なんて、他の人にあまり聞かれたくない話じゃない?」


 たぶん、その通りだろう。俺も父が市議会議員をしているが、親子の会話に政治の話はあまり出てこない。


 「だから、そういう秘密の話をする大きな個室が一つだけ用意されてるの。密会用ってとこ。」


 綾芽の口から出た『密会』という言葉に馴染みがなかった。言葉を知っていても使う機会なんてそうないだろう。それに、身近にそんなことが行われているということに正直驚く。でもやっぱり、現実味のない話だからか、話の内容がまだ見えてこない。


 「ここまでで何か質問ある?」

 「うーん、特にないかな。」

 「よし。じゃあ、ここからが本当の本題。」


 そう言うと、外を見ていた綾芽は、こちらを向いて俺との距離を少しだけ詰める。声のトーンも低くなっていた。そのちょっとした動きが、二人の間の緊張感を高めてくれる。二人だけの秘密の話のような気がしてきて、俺も興味が湧いてきてしまった。


 「でね、その密会用の個室は、料亭の正面玄関からは入れなくて、特別に裏口が作られてるのよ。それで、その裏口っていうのは、うちの生活用玄関の前を通り過ぎないと行けない場所に作られてるの。」


 密会の次は裏口で、少しずつ話が壮大になってきている。薄々だが、話の内容が気分のいいものではない予感までしてきた。俺はやはり、差出人不明の手紙に応じない方がよかったんじゃないかと思い始めてしまう。

 綾芽の声はだんだんと小さくなっていて、俺もいつの間にか綾芽との距離をさらに詰めていた。たぶんもう、この話は俺たちにしか聞こえていないだろう。


 「そしたら先月、私が出掛けようとして玄関を出たところに、スーツの人たちが揃って通り過ぎたのよ。」

 「待って、それって、ずっと暮らしてる綾芽にとったら不思議でも何でもないんじゃないか?」


 綾芽自身、裏口のことも、密会が代々行われていることも知っているような話しぶりだった。裏口が玄関前の先にあるのなら、家族も綾芽には一応、そういうことがあると話しているのだろう。そうすると、密会前に偶然すれ違ってしまうくらい大したことではないはずだ。


 「ええ、そうよ。今までだってそんな場面には出くわしてるわ。でも、その時は違ったの。」


 綾芽の顔は、これまでで一番真剣なものになっていた。俺は綾芽の次の言葉を待って唾を飲む。


 「実は、その人たちが通り過ぎた後、話声が聞こえたの。『長岡さん、市議にいる歴が長いんだから、俺たちの仕事ぶりもちゃんと長岡さんから報告してくださいね。』って。」

 「それって……。」

 「私も後になって調べてみたけど、そんな名前の市議会議員、一人しかいなかったわ。」


 俺と同じ名前の人が会話に含まれていて、ふいに固まってしまう。しかも、『市議』という言葉と一緒に。俺の頭の中で、『長岡』と『市議』が一瞬にして繋がり、食卓にいる父の顔、広報用ポスターにある父の顔、街頭演説に立つ父の顔、自分の知っている父の顔が次々とが思い浮かぶ。いつもクリーニングされたスーツを着て、時間にもルールにも厳しく、何事もきっちりしていないと気が済まない性格の父。毎日俺より早く起きて、俺より遅く寝る父。地元の人々のことを考え、悩み、有言実行する父。俺にはあまり厳しく言わず、自分で決めてお前の自由にしろと言う父。今朝も新聞と睨めっこをしながらトーストを齧っていた父。まさか、自分の父親に限って、そういうことがあるとは予想もしていなかった。


 「いやでも、密会だからって悪いこととは限らないんじゃないか?」


 俺は咄嗟に頭に浮かんだ反論を口に出す。


 「そうね、その通り。でも今回は相手が悪かったの。」

 「相手?」

 「密会の相手よ。その相手が妙に貫禄があったから、気になってうちのガレージに行ったの。そしたら、ご丁寧に勝城組かつじょうぐみって書いてある真っ黒なセダンが来客用に停めてあったの。念のためにその人達が帰る時も見てみたけど、しっかりその車に乗って帰ったってわけ。」

 「勝城組……。」


 それなら俺でも知っていた。地元に長くある暴力団組織の名前だ。案外歴史ある組織らしいということと、組織名を隠さずに見せることから、地元で知らない人はない。そんなあまりいいイメージのない暴力団と父が関わっているとしたら、とても慈善事業のためとは思えない。


 足元をすくわれた感覚だった。自分の足元、いや俺の知る父の足元や背後に、暗い影が一挙に蔓延していく。手の届く距離にいたはずなのだが、俺からは近づけないような気がしてきた。父の仕事を尊敬しているとか、大それたことは言えないが、町のためになる仕事だとは思っていた。一体、父と彼らにはどんな関係があるのだろうか。


 「でも、勝城組だって今は建築業とか不動産がほとんどで、事件なんて起こしてないだろう? やっぱり、会っていたっていうことだけで怪しむことはできなんじゃないか?」


 俺は何とかして、父が悪事を働いていない可能性を挙げる。まだ、核心を突いた証拠など出ていないのだから。


 「確かにそうだけど、あそこがもっと大きな暴力団の一部だってことくらい知ってるでしょう。」

 「ああ……。」


 言う通りだ。そして、その大きな暴力団が時々事件を起こしてニュースになっていることも知っている。だから、勝城組も地元では危険視されている。小さな頃から、絶対に近づかないように何度も何度も言われてきた。もちろん、父からも。

 もう、俺には店内の音が聞こえなくなっていた。それは、時間が止まっているような感覚で、綾芽も黙ってくれていた。


 一旦、頭の中の混乱を整理した方がいい。というよりも、受け入れた方がいい。まだ、何か起こったわけじゃない。もしからしたら、聞かなかったことにすることで、何事もなく日々が進んでいくかもしれない。今までだって知らなかったし、何も起こっていないのだから。

 少し落ち着いてきたところで俺から話を続けた。


 「で、それを俺に話してどうしようって? 身内からジワジワ脅していくのか?」


 つい、攻撃的な言い方になってしまった。俺の中では、これから自分の立場が悪くなることしか想像できなかった。


 「何言ってんのっ、クククッ、ウケるっ——。」


 俺の質問の調子とは対照的に、綾芽は笑いをおさえるのに必死だった。肩が小刻みに震え、口元に手をやり、身をかがめて笑っている。初めて、こういう笑っているところを見たかもしれない。しまいには、小さくテーブルを叩いている。

 だが、俺にすればそんな場合ではない。綾芽がこの話を俺にした理由が知りたいだけだ。それに、ここまではまだ噂話程度のものだ。


 「そんなわけないじゃん、悠太君を脅したって何にも出ないでしょう。それとも、悠太君もあの人達と知り合いなの?」

 「ありえない! 断言できる。」

 「ほらね。」


 そう言うと笑いがおさまったのか、綾芽はカフェオレを一口飲む。俺もつられて自分の分を飲むが、綾芽のおかげで時間が動き出したような気がした。自分の中の緊張感も少しなくなっている。


 「で、ここからもっと本題なんだけど。」


 身を乗り出すようにして話す綾芽は、遠足前の子どものようにワクワクした表情を見せる。その勢いに、俺は少し身を引いてしまう。


 「悠太君の家って、自宅兼事務所よね? この近くでお父さんが家にいない日ってある?」

 「えっと……、今週の金曜から日曜までは出張するとか言ってた気がするけど……。」


 「よし。土曜の夜、悠太君の家を調べよう。」


 どうしてそうなるのだろう。


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