第3話

 綾芽に呼び出されてラーメン屋に行った翌日、月曜日。


 一体昨日のことは何だったのか、話の内容は何なのか、いつまた呼び出されるのか、気になることが多すぎて、考えている間に午前の授業が終わってしまっていた。

 チャイムが鳴って、自席で弁当を広げたり、外へ食べに行ったりと教室の中は慌ただしい。机をくっつけたり、椅子を動かしたりガタガタとうるさい。隣の集団からは、弁当の匂いやパンの袋を開ける音がしてくる。そんな中、席から動かずに俺が考え込んでいると、後ろから肩を小突かれる。


 「お前、今日弁当なのか?」

 「いや、学食だけど。」

 「じゃあ早く行こうぜ。席なくなるぞ。」


 今里は片手に自分の財布をお手玉のようにポンポン投げながら、いつものように学食へ俺を誘う。廊下を歩くときも、彼の財布は宙を舞ったり、手に収まっていたりと、乱暴な主人に好きなようにされていた。俺たちの横を時折、学食へ向かう生徒が走って過ぎていく。もう、混んでいるだろうか。


 「そういえばさ、昨日どうだったんだよ? 行ったんだろ、あの呼び出されたラーメン屋に。」


 今里は学食のドアをくぐると、チラと振り返り俺に聞いてきた。広がる学食ブースからは、いつものようにガヤガヤガチャガチャと賑やかな様子が伝わってきていた。そして、いたずらとして話題にすらしていなかったことを、今里が覚えていて少し驚いた。それに、俺が本当に呼び出しに応じたことも薄々気づかれていたらしい。意外と勘のいいやつだ。


 「よく覚えてたな。まあ、行ったよ。」

 「で? どうだったんだ?」


 俺からあまり話さないからか、今里はグイグイと内容に迫ってくる。その間にも、迷うことなく食券を買って、白いトレーを持って列に並ぶ。カウンターに食券を出すと、いつものおばさんたちが溌溂な声で応じそれを手に取って、素早く注文を完成させていく。少し来るのが遅かったせいで、列が長くなっていたが、それでも流れは速い。


 「どうって言われてもなあ……。何かあったような、何もなかったような?」


 午前中に再三思い返していたことを、もう一度思い返してみるが、特別、話に進展があったわけではない。ただ、少しの質問をして、ラーメンセットを食べて帰っただけだ。昨日のことなのに漠然としたことしか浮かばない。


 「なんだよ、その煮え切らない言い方は。今里さんに教えなさい。」

 「分かってるって、そのつもりだったし。」


 そうしていると、先に並んでいた今里に定食が出てきた。今里はそれをトレーに並べると、席取っとくぞと人混みの中、学食ブースを進んでいった。

 昨日のことをどうやって話せばいいのだろうか。たぶん、今里が喜びそうな秘密の話や噂話のようなことは一つもなかった。俺もそんな話を期待していたわけではないから構わないが、上手く話せる自信はない。


 大人しく順番通りに話そうと心に決めると俺の分の定食も出てきた。ハンバーグ定食。月曜日は決まってそれだった。俺がトレーを持ったまま席を探していると、窓際の二人席に今里が座って待っているのが見えた。もう食べ始めていたが。


 「待たせたな。」

 「お待たせすぎ。待ちすぎて食べ始めちまった。」

 「一分やそこらだろ。まあいいけどさ。」


 俺も席に座るが、混んでいてスペースも狭く周りとの距離も少し近い。俺が食べ始めると、今里は箸を休めることなく話し出す。学食ブースはピークを迎えて騒がしくなってきていたころだった。


 「で、行ったら誰か待ってたのか? いなかったのか?」

 「ああ、いたよ。乙訓綾芽おとくにあやめっていう同学年のやつが。」

 「マジか……、ヤベェな……。」

 「おい。語彙力。」


 お決まりのボケとツッコミをテンション低めに交わしてしまったが、それよりも、今里も綾芽のことを知っているようだ。というかたぶん、知らなかったのは俺くらいなものかもしれない。綾芽に知らないと言ったとき、本人でさえ驚いていた。

 綾芽がいたということを知ると、今里は急に楽しそうな口調に変わって、話し始めた。


 「いやでも、あの乙訓綾芽だぞ? 十組進学コースが誇る才色兼備、眉目秀麗、文武両道とはかくやと言われてるあの乙訓嬢だぞ。」

 「なんなんだよ乙訓嬢って、全然そんな風に見えなかったぞ。」


 今里の説明はしっくりこなかった。というか、同学年にもかかわらず、十組ということを今初めて知った。


 「まあ確かに、今言ったようなことは噂に尾ひれがついて無駄にゴージャスになった末ものらしいけどな。」


 サラダにザクザクとフォークを突き刺しながら、今里は綾芽について知っていること次々と話す。その言い方が少しがっかりしていることに俺は少し気にかかるが。


 「乙訓嬢の友達に聞いたんだけど、スポーツができるわけでもないし、目立った特技があるわけでもない。賢くて可愛い系? 美しい系? なのは言われてる通りらしいけど、完璧超人みたいな人ではないってよ。普通の高校生。そりゃそうだよな。」


 俺のいぶかし気な表情に気づいたのか、今里の方から綾芽についての説明をつけ加えてくれる。実際に昨日、会って話した俺よりも詳しい。

 でも、完璧超人というよりは、今里の言うように普通の高校生という方が綾芽を言い当てているように感じられる。地味なラーメン屋の常連で、行儀も良くなく、制服の着こなしもラフ、話し方も普通で、ラーメンセットを軽く平らげる。そんな印象しか俺にはまだない。


 「お前も知ってるだろ、天満宮の中にある料亭のこと。あそこの一人娘らしいじゃんか。そういう出自に余計な肩書が付け加えられたってとこだろうよ。」

 「そういうことか……。」


 昨日の無味乾燥な自己紹介は、その余計な肩書とやらを使ったものだったのか。そんなことを自ら気乗りして話したがる人などいないだろう。ましてや、自分がまったく違った見られ方をされているのなら。


 「なんにしてもよ、あの乙訓嬢に目をつけられたっていうのは羨ましい限りだなあ。」

 「羨ましいも何も、話の内容は何もなかったぞ。」

 「そうなのか?」


 俺は昨日綾芽と話したことを一通り今里に説明した。手紙が下駄箱に入っていた理由、一週間も期間があった理由、俺に関する『秘密』などなかったこと、そして、肝心の呼び出してまで話す内容はまだ聞いていないということ。俺が一通り話し終えるまで、今里は口を挟むことなく、いや、口を挟む暇もなく黙々と定食を食べていた。ちゃんと俺の話を聞いているのか心配になる。


 「いやあ、聞けば聞くほど目をつけられて羨ましいと思うぞ。」


 あまり聞いていなかったらしい。羨ましいという結論が、変わらずに出されただけだった。後ろの席からは、俺の真面目な話に対して、カップルの楽し気な会話が聞こえてくる。俺も、何気ない日常の面白エピソード程度に扱った方が楽なのかもしれない。


 「どこがだよ。こっちは日をまたいで話が小出しにされてるから、気になって仕方ないんだぞ。」

 「その小出しにしてるってとこが味噌だろう? それってお前と話したいってことじゃないか。いいじゃないかそれで。」

 「いいじゃないかって、そんなテキトーな……。」


 でも、綾芽も昨日そんなことを言っていた気がする。俺と話すことがメインだったとか。それにどれだけの意味があるのか俺は測りかねていたし、それだったら、手紙で呼び出したりしなくとも、友達伝いに俺を呼び出せばいい。場所も学校でよかったはずだ。


 やはり考え事をしていると手が止まる。今里は定食を片付けていくが、俺の方はあまり減っていない。学食クオリティの甘いソースのかかったハンバーグを箸で切って口に運ぶ。それはいつもと同じ味のいつもと同じ普通のおいしさだ。

 でも、今里に話してよかった。綾芽がどういう人物なのかは少しだけ分かった。どう周りから評価されていて、実際はどんな人物で、それを本人がどう思っているであろうかということまで。

 それはどれだけ居心地の悪い生活なのだろう。周りから期待されて、好奇の眼差しが向けられる。挙句には「乙訓嬢」とまで呼ばれている。唯一の救いは、一部の近しい人たちは、本当の綾芽を知っているであろうことだ。期待に応え続けていては、とっくに疲れ切っていただろう。


 そんなことを考えていると、一方的な、身勝手な同情が湧いてきた。それが綾芽にとって向けられたくない感情であろうことは容易に想像できるが、絶対に綾芽の前では考えないようにしよう。そもそも俺は普通の綾芽しか、しかも大して知らないのだから。


 「にしても、またいつか呼び出されるんだろ? お楽しみだな。」

 「好きに言ってろ。こっちから呼び出したいくらいだ。」

 「お前にそんな勇気あるのか?」

 「ははは……、ないですね。」


 俺が一組で綾芽が十組。距離も縁も一番遠いクラスに、俺がわざわざ出向いて綾芽を呼んでいる姿を想像することもできなかった。恥ずかしすぎてできない。それにそもそも、俺は学校で綾芽と話したことはないし、もしかしたらほとんど見かけてすらいないかもしれない。俺と綾芽との関係はそれくらいのものだったのだ。あの差出人不明の手紙がなければ、たぶん三年間ずっと話すことはなかっただろう。少し気なって、学食ブースを見回してみるが、綾芽らしい人の姿はなかった。


 「おいおい、乙訓嬢なら学食には来ないぞ。毎日弁当だ。なんせ料亭の娘なんだぜ。弁当の用意くらいおちゃのこさいさいだろうよ。」

 「いや、別に探してないし。」


 俺は咄嗟に嘘をつく。図星だったことが癪に障る。昨日会っただけで、その存在を気にしてしまうなんてどれだけ俺は単純なのだろう。それでも、やはり気になってしまう。今まで存在していなかった人が、突然湧いて現われたようだ。本当に、この学校に乙訓綾芽という生徒がいるのか確認したくなってきていた。

 だがおそらく、俺が確かめたいのは、いるかどうかではなくて、綾芽がどのような人なのかなのだろう。綾芽が有名料亭の一人娘であっても、昨日会ったように普通の高校生であることを確認したいだけだ。自分の掴んだ感覚が確かだったと証明したいのだ。


 「とにかく、乙訓さんが来るのを待つしかないか。」


 今里が水を飲んで俺が食べ終わるのを待っている。それに気づいてはいたが、午後の予鈴が鳴るまでのんきに食べて話し続け、急いでトレーを返却口に入れると、二人して走って教室まで戻る。

 最後には、いつもの変わらない風景が今日も再現されただけだった。



 午後の授業も終わり、ホームルームも終わったところで俺は帰り支度を始める。周りはすでに片付けを済ませて出て行っている生徒や、立ち話に花を咲かせている輪で賑やかになっている。


 「ゆーたくーん!」


 突然、教室後方のドアから、やけにこびた声で俺の名前が呼ばれた。その一瞬、教室全体がざわつき、そして一瞬の静寂と俺に向けられる大勢の視線が感じられた。気分のいいものではない。

 また一瞬にして、周りは何事もなかったかのようにそれぞれに話を続けるが、目ではこちらの様子を窺っているようだ。


 「ほらー、悠太君早くー。」


 こちらが反応しないと呼び続けるらしい。まるで毎日そうしているかのように、自然に名前を呼んでいる。


 「はいはい。」


 この状況に耐えきれない。あいつは乙訓嬢とどんな関係なんだ、と怪しむ視線が四方から突き刺さってくる。未開のジャングルに放り出されて、獲物として捉えられているような気分になる。


 それに、また呼び出すとは言っていたが、まさか昨日の今日で、しかもこんな注目を浴びる方法でとは思ってもいなかった。

 整いかけていた本やノートの一式を乱暴にスクールバッグに詰め込んで、席を立つ。思いがけず椅子が音を立てたが勢いそのままにドアに向かう。いつも一緒に帰る今里に一言声をかけると、何やらにやついて、おうよとだけ返ってきた。その反応は勘弁してほしかった。何を期待してるのだか。

 綾芽のもとまで行くと、なぜだか彼女は不満げな表情を浮かべていた。


 「今日約束してたでしょ? 忘れてたの?」

 「いや乙訓さん、約束もしてないし、してないものを忘れようもないから。」


 別に隠し事はないが、内緒話のようになってしまっていた。俺は目一杯親しげでない言い方に努める。一方の綾芽は来たときと変わらず、こびた声のままだった。あと声が大きいし、リアクションも大きい。


 「あ! ちゃんと綾芽って呼んでよ。昨日言ったでしょ!」

 「ああもう分かった分かった。さっさと行くんだろ。」


 今はとにかく、この場所から離れるしかない。これ以上、この寸劇を見られていると、意味もなく俺の立場が危ぶまれる気がした。

 俺はどこに行くかも知らないまま、綾芽よりも先に歩く。とりあえず、靴を履き替えてどこか外に行くのは間違いないだろう。


 俺たちが通り過ぎるたびに、教室や生徒の集団からひそひそ声が聞こえてくる。あらぬ噂が生まれないことを祈ることしかできない。一応、綾芽の方はあれこれと話しかけてきていたが、軽くあしらっておいた。今まともに対応できる自信がない。


 それでも、少しだけ綾芽の方を振り返ると、なんだか楽し気な彼女が後ろからついてきていた。

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