第1章
第1話
俺は、生まれてからあまりこの町を出たことがない。
もちろん、家族で旅行に行ったり、友達と遊びに都会の方へ出かけたりすることはある。だが、普段の生活を送ることにおいては、町を出る必要性を感じない。スーパーや図書館、病院、飲食店、広い公園に山、海はないがすべてが揃っていると、勝手ながら自負している。
しかも、はるか昔には、十年間だけこの町が首都だったらしい。首都というか都だ。
ここで生まれ育った者なら、この手の地元歴史は散々教え込まれてきていて、全員が暗唱できると言っても過言ではない。小学校の頃は、事あるごとに歴史新聞や観光ガイドブックなるものを作らされ、それらは学校や市役所、駅の構内に貼られたりした。まあ、この町の誇るべき歴史ということだ。
とは言っても、この町は都南西の外れに位置していたらしく、昔も今も、住宅街というわけだ。それでも、大きな天満宮があり、地元では「天神さん」と呼ばれ親しまれている。そして、春になると桜、秋になると紅葉が大きなため池と相まって美しく、それを見に来た人で町が賑わう。
ただし、夏は混雑しない。ひたすらに暑いだけだ。
俺は玄関に座って、一か月ぶりに履く革靴を引っ張り出した。もうすっかり柔らかくなって、内側に貼られたシールにある『長岡
型の崩れたスクールバッグを手に取り立ち上がると、リビングの方から母の声が届いてきた。
「ねえ、高校に入ってから良ちゃん家行ってないでしょ。どっかの週末にでも行ってあげて、近いんだから。」
「分かってるって。」
俺は奥まで届くような声で、とりあえず返事をしておく。
「あと、良子叔母さんに言っといて。もう子どもじゃないって。」
「はいはい。」
あきれたような返事をして、母は出した顔を引っ込めた。
玄関を出ると、目のくらむような暑さがべったりとした湿度とともに迫ってきた。今日も朝から吸う息が生温い。前の歩道を往来する人びとは皆、日傘をさしたり、ハンカチで額をぬぐいながら、歪んだ空気の層を従える地面に足を進めている。並木にはセミの声がうるさく、音で暑さを演出していた。
脇に停めてあった自転車を出すと、黒いハンドルやサドルが焼け付くように熱かった。その仕打ちだけでウンザリしたが、大して中身の入っていないスクールバッグをかごに放り投げて、サドルにまたがりペダルに足を置く。
身体に染みついた一連の動作は、一か月の休みを空けても抜けていなかった。
繰り返される習慣が、また繰り返されるだけだった。
*
所定の置き場に自転車を置くと、賑わう昇降口までの道に合流する。
皆が皆、スマートフォンでいつも連絡し合っているというのに、さも久しぶりに再会するかのような話をしている。
「オッス悠太。夏休みどうだった。」
不意に、後ろから肩を組むように絡まれる。
「重いし暑いし離れろ今里。それにお前日焼けしすぎ。」
夏休みを過ごすと、一気に成長して大人びて見えたりするようだが、今里は夏服の半袖から伸びる腕をこんがり焼いていた。少しばかり筋肉もついたのかもしれない。
俺はすでに汗ばんでいる今里の腕をやんわり払いのける。
「どうって、わざわざ訊かなくても分かるだろ。お前は部活にも入ってないくせに違うみたいだけどな。」
「だろ、いいだろ。海で山で焼いたんだぜ。高一の夏、受験もなければ勉強も難しくない。今遊ばないとダメだろって思ってな。」
夏休みの思い出を身体で語るように、今里は腕を見せびらかしてくる。半袖をさらにまくったところを見るに、たぶん全身がこんがりなのだろう。ニヒヒと笑う表情は、まだまだ大人ではない。
「で、悠太は本読んだり映画見たり家でゴロゴロしてたのか。アウトドアな遊びは断りやがってさ。勿体ないぞー、それじゃあいつもと変わらないだろ。」
「いいだろ別に。文化的と言ってくれ。それに運動が苦手なわけじゃないし、やれと言われればやるって。」
「そういう所がまたムカつくよなー、なんでもちょちょいとやってのけちゃってさー。本ばっかり読んで賢くなって、将来は官僚か国会議員にでもなるつもりか。」
「本だけ読んでなれるならなりたいよ。ほら、とっとと行こうぜ。始業式始まる。遅刻で後ろに立たされるのはごめんだ。」
昇降口に入って、一か月ぶりにちょうど目の高さより高い下駄箱を開ける。久しぶりの上履きに履き替えると、そのまま中廊下を進んで講堂へ向かった。
そして、長い長いお話の末、夏休みの終了と二学期の開始が宣言された。
*
クラスでのホームルームも終わり、配られたプリントやらをスクールバッグに片付けていく。
「おーい、早くしろー。」
すでに今里が教室後方のドアにもたれて急かしてきていた。どうせ俺たちは急ぐ用などないのだが、今里はまだ遊び足りないらしい。
廊下では、これから部活であろう生徒が走っていき、特に何もない生徒は好き勝手なところで駄弁っている。始業式だけの今日は、二学期の始まりというよりは夏休みの最終日のような感じだ。
二人して無駄話に花を咲かせて、昇降口にたどり着く。クーラーの効いた昇降口は、常に開放されているから、外の生暖かい空気も混じり込んできていて外に出る気分を損なわせてくれる。
二人並んで自分の下駄箱を開ける。俺の下駄箱は一番上になっているから、下から指を引っ掛けるようにして入っている革靴を掴んだ。すると、指先に何かが当たった。
柔らかくなった革靴を取り出して見ると、四つ折りにされた紙が一枚、中に入っていた。
「何だこれ?」
それを摘み出して、革靴を足元に放る。紙を開けずにひらひらと裏返しては表返して差出人などを確認してみるが、外には何も書かれていない。
「まさか、それ、ラブレターってやつじゃないか!」
俺が履き替えないのに気づいた今里が、横からのぞき込んで茶化してきた。演技がかった言い方が妙に鼻につく。
「そんな古典的な……。今時ないだろう。」
「こういうのは、古典的なのが一周回っていいんだよ。ほれ、開けてみろよ。」
「まあ、好意を向けられるのは嫌いじゃないけど、この緊張感は好きじゃないなあ。」
一応、少しはドキドキしている。まさか自分にも『下駄箱に手紙』という出来事が起こるとは夢にも思っていなかった。大体こういうとき、書かれている内容といったら俺には一つしか思い浮かばない。だから、つい期待してしまう。
そうなると、一人で読むべきではないと頭を過ったが、ここまで見られているのならば、どうせいつかはバレるのだ。それに、今里になら見られても困らないだろう。
「じゃあ、開けるぞ。」
「おう。」
紙の折れ目に指を入れて、大きく一度深呼吸をする。そして、ゆっくりと今里にも見えるように開けた。
真っ白な紙の中央には、端正な文字が、罫線でも当てたかのように縦にまっすぐと並んで書かれていた。
『長岡
端的に言って分からない。
『秘密』とは何なのか、隠していることなど思い当たる節がない。確かに、父は市議会議員だが、一体自分と何の関係があるのかもさっぱりだ。市議会議員なのだから、市のホームページを見れば一人ひとりの名前も経歴も分かる。それに、俺がその一人の息子だということは、仲のいい者なら誰でも知っていることだ。
「そもそも、指定した場所って何だよ。他に何も書いてないじゃないか。」
「いや、たぶんこれじゃないか。」
今里は、俺の下駄箱の中から、小さく折りたたまれた紙をもう一枚取り出した。受け取って開けると、そこには学校から、おそらく指定した場所であろう標がついた地点への手書きの地図が描かれていた。しかも、学校は可愛らしく、天満宮は色鉛筆の緑や青で色鮮やかに描かれ、手が込んでいる。しかし、標のところには『ココ!』と大きく書かれているだけで、そこがどこなのかは書かれていない。
俺はスマートフォンを取り出して、地図アプリからその場所を調べた。すると、ただのラーメン店がそこには表示された。天満宮前の通りを北に数百メートル行った先の路地裏。地元の店だが行ったことはないし、その存在を初めて知ったくらいだ。ネットのレビューも一件しかない。しかも☆2だ。
「お前も、激アツなラブレターをもらえるようになったんだなあ。俺もうれしいよ。頑張れ。」
「ああ、熱すぎて火傷しそう。まったく、こんないたずらにどうしたらいいのか分からん。」
いたずらにしては手が込んでいるが、差出人も分からず、内容もほぼ皆無に等しい。俺に心当たりがないのだから、無視してしまえば特に何も起こらないのではないだろうか。他にも分からないことはあるが。
「それに、来週ってのはどうだ。普通この手の脅しなら今日とか明日とか、すぐに呼びつけるんじゃないか?」
「俺が知るわけないだろう。いたずらだろうし、内容にビクビクして過ごすお前を、その差出人とやらが遠巻きに見て楽しむんだろうよ。」
「そうか、それがいたずらの楽しみ方なのか。くだらないなあ。」
まだ完全に納得できたわけではないが、いたずらとして放置しておくことが最善だろう。言われたように、こちらが過剰に反応することが差出人の目的かもしれない。
とりあえず、ここでは捨てることもできず、二枚の紙を元通り折ってポケットに突っ込んでおく。今里はもう飽きてしまったのか、昇降口を出ようとしていた。
俺も革靴に履き替え、スリッパを下駄箱に入れると、昇降口を出た。陽は一番高いところにあって、強烈な熱を俺たちに浴びせかけてくる。秋の気配はまだ遠い。
今里は駅まで徒歩だから、俺も自転車を押して帰る。道中、色々話したが、俺の頭では、まだあの手紙をどうするか考えていた。
*
右手にはスマートフォン、左手には差出人不明の手書きの地図。
案の定、件の時間と場所に来てしまっていた。
昼間は家で、指定された場所で待ち受けるであろう可能性を考えていた。けれど、あれもこれもあり得て、どうなるのか結論を出すことはできなかった。もし、単なるいたずらであったのなら、それはそれで終わる話だ。行って確かめればいい。
陽が傾き、夕焼けが街を彩る中、俺の目の前にあるラーメン屋には、古くなって錆びついたピカピカ光る立て看板が出て、ほつれた暖簾がかかっている。残念ながら立て看板の縁にある豆電球は五つくらいしか光っていない。店名は「ラッキーラーメン」。摩訶不思議なネーミングセンスだ。
もう一度、手書きの地図とスマートフォンに表示された地図を見比べてみるが、指定された場所は間違いなくこのラーメン屋だ。
地図アプリが開かれたスマートフォンを見ると、画面の上には午後五時五十九分と示されている。もうためらっても仕方がない。画面を消して、地図をジーンズのポケットに入れる。俺は空になった右手を伸ばし、取っ手に指をかけ、ガラガラとのんきな音を鳴らして店の戸を開ける。
店内は狭く、目の前には横一列に五、六席のカウンターだけが並んでいた。
そして、ちょうど俺が開けたところのカウンターに、うちの高校の夏制服を着た女子生徒がこちらに背を向けて座っている。高いカウンター席でさらに脚を組んでいる。この人が俺を呼びつけたのか?
「お、時間ちょうど。はじめましてこんばんわ、長岡悠太君。」
肩と顔だけサラリと振り返ると、肩まで伸びてふんわりカールした髪が翻り、そう強気な言葉が飛んできた。スマートフォンを握っている左手首には黄色いシュシュが巻き付いている。
「何、変な顔して。そんなに驚いた?」
「いや、驚いたというか……、誰?」
俺の言葉を聞くと、今度は彼女が驚きの表情を見せる。さっきまでの強気な態度が一瞬失われ、呆然としているようだ。
「嘘でしょ……。」
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