私に、よろしくね。
響大(ひびき ゆたか)
プロローグ
まだ陽も登らない午前四時。
やはり、眠る時間などつくることもできずに、この時を迎えた。
市役所三階の広い会議室には、ここ数日間、準備に追われていた市議の面々や、警察、消防の関係者が最終確認の話し合いをしている。特に必要ないのだが、彼らの話声は自然と秘密めいて小さいものになっていた。他にも、地元自治会や市役所のお偉い方も、会議室を出たり入ったりと忙しいようだ。会議室では、ひそひそ声といくつもある足音と紙や物の擦れたりぶつかる音が入り交じって、雑音が奏でられている。
机の上には、ファイルや資料が山のように積み上がり、ところどころで雪崩を起こしている。ホワイトボードには、町の地図が張られ、赤や青や黄色のマグネットが点々と配置されている。忙しさを絵に描いたような状態だ。
地図の横には、四月三日——今日の日付と、細かな時間ごとの行程が隙間なく書かれている。一日の中でこれだけのことを為すとは信じられないくらいだ。
周囲の慌ただしさの中で、すべての確認を終えている俺は一人、隅に置かれた革張りのソファーに腰かけて時間が経つのを待つだけだった。手持ち無沙汰で、胸元についた議員バッチをいじっている。年季の入ったソファーは、ところどころ破れすり減り、弾力もないが座り心地もいい。
視線の先にあるドアが開き、有名スポーツメーカーの黒いジャージを上下に揃えた松尾が、両手にカップを持って近づいてくる。
「コーヒー、飲みますか。」
「おう、お前の課はもういいのか。」
「うちですか? ばっちりなはずです。」
俺は何も言わず、差し出された片方を受け取って、隣に座るように目だけで促す。どうやら緊張しているのは俺だけではないらしい。いつもはお喋りな松尾も、今日ばかりは口数も少なく、声音も堅い。
「長岡さんは、これが二回目でしたっけ。どおりで落ち着いてるわけですね。」
言いながら、松尾は隣に座ってコーヒーを一口すする。俺も飲みかけたところで、つい口をついて出てしまった。
「どうだろう。言いかたによったら三回目とも言える……。」
「そう、ですね……。長岡さんはこのために市議になったんですもんね。」
松尾は俺の考えたことに察しがついたのか、渋い顔をして、同じように前を向いて黙る。まあ、俺が使うこの言葉で察することができない人物はここにはいないだろう。
しかし、これ以上緊張させても仕方がない。おそらく、ネタとして準備してきたであろうところを言って和ませてやろう。
「にしてもお前、そのジャージはないだろう。俺でもダサいと思うぞ。」
「ええー、目立たない普通の格好しろって言ったのは、長岡さんじゃないですか。しかも、これなら朝のランニングするサラリーマンっぽいでしょう。」
「確かに言ったのは俺だが、ダサくしろとは言ってないぞ。」
「長岡さんは文句ばっかりですね、もう。」
不満を言いつつも、少しは表情が和らいだ松尾は、チラと壁にかかる時計に目をやる。つられて俺も時計を見ると、時刻は午前四時十二分。時間が経つのが遅く感じる。しかし、刻々と、確実に、その時は迫ってきていた。
待ちに待った瞬間であるはずなのに、その時が来ないでほしいとも思う。せっかくいつも通りの他愛もない会話を始めることができたにもかかわらず、俺の頭はこれまでと、これからのことで一杯になり、気の利いたことを言うことができない。
再び二人の間に沈黙が入り込んだ。
だが、いつの間にか話し合っていた集団も、黙って時間の経過を味わっていた。今や、会議室には、一秒ごとに刻まれる音しか聞こえない。
少しして、小太りの先輩議員が、やはりダサいジャージに袖を通しながら立ち上がる。同時に、周りに腰かけていたジャージや私服、スーツといった色とりどりの集団も立ち上がり、後に続く。先頭に立つ先輩が丸いドアノブに手をかけた瞬間、こちらに顔を向けた。
「それじゃあ、長岡君、私たちは先に行って状況を確認しておくよ。念には念をね。」
本来であれば、何か言うべきなのだろうが、ただ軽く会釈だけしておく。それですべてが伝わるだろうから。
俺の声なき返事を受け取ると、小集団は静かに部屋を出て行った。会議室に残されたのは、俺と松尾とあと数人。今日何度目かの緊張感が中を満たしていく。広さはあるはずなのだが、今日だけは年季の入った木目調の壁が、四方から迫ってきているように感じる。
「長岡さんは、怖くないんですか……。言葉では分かっていても、俺は初めてなんで……、やっぱり、理解できないんです。」
もう湯気が出ていないカップを見つめながら、松尾は言葉を続ける。
「それに、もう終わっていて、今回はないかもしれないんですよ。」
「ああ。」
溜息にも似た、答えにならない返事しか今はできない。松尾が不安に思っているであろうことは理解できる。今回のことには相当の金と人が動いていて、実は必要ありませんでしたでは通用しない。それに、俺だって言葉では分かっているが、理解できているわけではない。
それでも、先に向かった先輩たちが確信している以上に、俺は確信している。そしてこれは、俺たちの特別なお勤めだと考えている。このことを言葉で説明しても、初めてこの日を迎える松尾にとっては、説明にならないだろう。つまり、これから身をもって理解していくしかないということだ。
「よし。そろそろ俺たちも出る準備をしようか、松尾。これまでが準備で、これからが本番だ。」
残ったコーヒーを一気に飲み切り、立ち上がると、隣の松尾も慌ててカップを空ける。松尾が最後まで飲み切るのを待って、俺はカップを放る。それはきれいな放物線を描いて、臨時に設置された特大のごみ箱に吸い込まれていく。積まれたごみの上に軽い音が重なり、カップは止まる。それを音だけ聞いて、俺はスーツの上着を羽織り、ピンクのブランケットを脇に抱えてドアを開ける。いかにも不格好な持ち物だが、これが必需品だ。
忘れるわけにはいかない。
時刻は午前四時三十分。日の出まで、あと一時間と少し。まだ薄暗い町を俺と松尾は、他人のふりをして距離を空けながら歩く。
*
四月になったとはいえ、この町の朝はまだ寒い。白い息こそ出ないが、冷たい空気が町を占領している。吸う息で鼻腔が冷やされる。
市役所を出て、俺は徒歩で西に向かう。通りに人は見えず、あらゆる店舗のシャッターは閉まったままだ。駅に近づくにつれて、飲食店が増えてくるが、高い建物もない。このこじんまりとした街並みは昔から変わらない。
開いたままの踏切を越えて、先に進む。後ろを振り返ると松尾の姿はもうなかった。予定通り、手前の道で曲がった別のルートで向かったのだろう。
それを確認し、静かな町に歩を進め、肌寒さと人気のなさに慣れたころ、ようやく大通りに出る。南北に走った町のメインストリートとも言えるこの通りは、きれいに整備され、歩道も広く街路樹も青く茂っている。薄暗い通りをヘッドライトをつけた車が往来していた。
信号を渡って、南に進路を変えると、右手には天満宮のため池があり、その周りに九分咲きの桜が一列に並んでいる。この一週間前後がこの辺りでの見頃らしい。電車が動き出すと、花見客であふれかえるのだろう。かく言う俺も、数日後には接待としてここで花見をすることになっている。
再び歩みを始めたとき、後ろからジャージ姿でランニングをする男に先を越された。大して速いペースでもなく、息も上がっていない。しかし、後姿を見やっただけで、誰であるのか分かる。確か、市民課にいた一人であるはずだ。お互いに顔見知りだが、今日、今だけは他人だ。挨拶を交わすこともしない。あくまでも、日常の一コマを皆、演じる。
少し進むと、右手の奥に、石段とその上に建っている石造りの大きな鳥居が見えてきた。聞くところによると、この近くに石造り鳥居はそうないらしい。がっちりとした立ち姿はいつ見ても頼もしい。
石段の下には、交番からやって来たのか、一人の警官が片足に体重を預けて、崩した姿勢で立っている。どうやら彼だけは非日常の一人として配置されているようだ。普段ならこんなところに警備など必要ない。そして、ふと周りを見渡すと、路肩に止められた車、遠くには救急車、路地からはスーツの男が顔をのぞかせ、鳥居の向こうからジャージ姿の女性が散歩のように出てくる。
わかる人にはわかる物々しさが辺りを包んでいる。しかし、誰も、何も知らないそぶりで、すれ違い、また通り過ぎる。予定通り、周りには知らない人物などいなかった。
時刻は午前五時。遠くの空が少しずつ白んできている。ゆっくり歩いてきたおかげで、早く着きすぎることもなかったようだ。
すると、ザザザッというノイズが入り、仕込んでおいたイヤホンから、無線で先輩議員の声が入る。
『長岡、正面に着いたな。こっちは裏手に張り付いてる。境内も配置が完了したらしい。どこからも怪しい人物は確認されていない。安心していいだろう。お前も中に入って備えろ。見つけ次第、お前に連絡がいくようにする。よろしくな。』
『分かりました。ありがとうございます。』
ピピッという電子音で無線の連絡が終わる。
言われた通り、俺は石段を上がって境内に向かう。
二十段ある石段を上がり切ると、正面には鳥居が控え、左右には、ため池を周回する遊歩道が始まっている。このため池は、大通りに沿うように、南北に細長く作られており、その真ん中を東西に渡る参道を兼ねた中堤が鳥居から続いている。
鳥居をくぐり、中堤の左側に沿ってゆっくり歩く。そこには二メートルを超すキリシマツツジが連なって植えられていて、それらに囲まれている状況は別世界への入り口を彷彿とさせる。そして、中堤の中央部だけ、アーチ状の橋が作られていて、ため池をつないでいた。そこで一度立ち止まる。眼下にある水面には、まだ漆黒しか映し出されていない。
それにしても、その時に備えろと言われても、これだけ人員が割かれている中、俺一人で何かすることもない。小脇に抱えたブランケットをもう一度たたみ直して、今度は反対側で持つ。
やはり、あそこで待つしかないだろう。
中堤を渡り終えた俺は、すぐ右手から出ている水上橋へ進む。この橋はすべて木製だが、時折改修されていて、ため池の景観にあった美しさが保たれている。昔は名もなき水上橋だったが、今は「ふれあい回遊のみち」というらしい。
板の軋む音、手すりの感触、頬を撫でる風、すべてを思い出すように、一歩ずつ俺は前に進む。右、左、左、右、右、左、左、右。何度も曲がりながら水上橋は延びていく。今は、あの時の軋みでも、感触でも、風でもないが、確かめずにはいられなかった。
歩くうちに、水上に立つ六角舎にたどり着く。その中は三辺がベンチ状になっていて、丸くくり抜かれた窓が特徴的だ。俺は、ちょうど対岸の桜と鳥居がセットで見える位置に座り、長く息を吐く。絶景を独り占めだ。
誰もここには関心がないのか、それとも気を使っているのか、人の気配がない。しかし、正直に言って、ありがたかった。感傷に浸っている姿など、あまり見られたくないものだ。今はただ、瞼を閉じて静けさに身を委ねておきたい。
少し眠ってしまったのか、一瞬飛び上がるようにして目が覚める。慌てて腕時計を確認すると、時刻は午前五時四十分。もう、東の空は明るくなってきている。数十分前までは漆黒だった水面も、朝の光を反射しようときらめきつつある。晴れで本当に良かった。かすかに鳥のさえずりも聞こえてくる。
俺は、膝にかけていたブランケットを持ち直し、立ち上がる。
これから、長い日々が幕を開けようとしているのだ。誰も、彼女も後悔することない終え方に向かって最善を尽くそう。俺は気合を入れ、背伸びをする。
すると、ピピピピッと午前五時四十二分を腕時計が合図し、間髪を入れず、ノイズとともに焦った松尾の声がイヤホンに入る。
『——おかさん! 長岡さん! 庭園です。庭園に現れました! すぐに来てください!』
庭園は、参道を順路通り進む途中にある。
すべてを聞き終えないうちに、ブランケットを握りしめた俺はもと来た水上橋を走り出す。
一歩駆けるたびに、橋がギシギシと音を立てる。橋は時折、右に曲がったり左に曲がったりしていて、勢いが止められる。
橋を戻り切ると、今度は石畳が続く。俺の立てる足音は硬くなる。左右には参道順路の看板や、幟が立てられていて、その中を俺はただひたすらにまっすぐ走り続けた。突き当たりまでたどり着き、右に折れると石段が現われる。いつの間にか、俺の後ろには同じように走って来ているジャージ姿の男がいて、前にもスーツ姿の男が石段を駆け上がっていた。
俺も日頃の運動不足に息を切らしながら、石段を上り切り、そのすぐにある庭園の入り口をくぐった。
息を乱して辺りを見渡すと、左手の奥、木や草で生い茂ったところに人だかりができているのを見つけた。スーツにジャージ、私服姿など、集まっている人達に統一感はない。そしてそこは、電話で話している人や、人だかりを覗き込もうとしている人、写真を撮ったりメモをする人たちで騒然としていた。遠くからは救急車のサイレンも聞こえてくる。
その人だかりに向かって俺は声をかけて近づく。
すると、一瞬のうちに大勢の視線がこちらに向き、辺りが静寂に包まれる。そして、みるみるうちに人だかりが割れ、注目を集める中心へ道が開かれていく。俺は額に汗を感じながら、大股でその中に入り込んでいく。割れた集団の中に松尾を見つけたが、どうやら困惑している様子で、俺を見つめるも何も声をかけてこなかった。今は誰も、物音を立てまいとしているかのようにして、じっと俺が進んでいくのと、進んでいく先を見つめている。
俺の視線の先に、丸まったタオルの塊を大事そうに胸元に抱える小太りの先輩議員が、膝を折ってしゃがんでいる。彼は、俺が来たことに気がつくと、ゆっくりと立ち上がり、真剣な面持ちで待ち構える。そして、俺が目の前まで来ても、微動だにしなった。
「長岡君、覚悟はできてるね?」
「……はい、とっくの昔に。」
そう言うと、彼はタオルの塊を俺に渡そうと無言で近づく。俺も握りしめていたブランケットを広げて、絶対に落とすことなどないように距離を詰めて、慎重に、大切に受け取る。
「さあ、よろしく。」
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