ふたりきり

「おじさん、こんなところにいたの!?」

 ずいぶん長い間、泥の中に埋もれていた気がする。手足が上手く動かないので、芋虫のようにもぞもぞ這いずり回る。どこへ行けばいいかわからない。ただ、『何かしなければ』という焦燥にかられて身体を動かしているだけだ。

「おじさん、こっち、こっち!」

 きみの声が聴こえる。ああ、行かなければ。けれど、顔を上げてもそこには暗闇が広がるばかりで、きみの姿が見えないのだ。待ってくれ、どこにいるんだい? 行きたいけれど、身体が言うことを聞いてくれないんだ。

「ここだよ、おじさん。今行くね――」

 光が、まばゆい輝きを放つものが、こちらにゆっくりやってくるのが感じられた。そこにいるのか? わたしは力を振り絞って手を伸ばす――

 オルゴールの音がする。聞き覚えはあるが、題名がわからない。




「おじさん、どうしたの? 目を開けたら?」

 モモの声にわたしは首を振った。開けたいけれど、怖くて開けられないんだ。こんなに眩しい光の中だと、きっと目が潰れてしまうよ。

「だいじょうぶだよ! ほら……」

 促され、わたしはおそるおそるまぶたを上げた。目の前にはモモがいて、笑っている。そして、わたしを誘うように手を振りながら、前へ向かって走り出した。

「こっちだよ! 早く、早く!」

「ま、待ってくれ……!」

 やっと見つけた。早く追いかけなければ。妙にぼんやりした頭で後を追う。自分が今どこにいるのかも判然としないまま。

 良い匂いがする。地面は柔らかく、空気は暖かい。

「もーっ! おじさんったら足が遅いのね! 手伝ってあげる!」

 しびれを切らしたようにモモが叫ぶと、わたしの身体が羽毛のように宙に浮き上がった。ぎょっとして手足をばたつかせるが、わたしの意思とは無関係に身体は前へと運ばれていく。

「う、うわああ……!」

 まさかこの歳になってピーターパンよろしく空を飛ぶことになろうとは! わたしの横を様々な物が通り過ぎていく。蝶、小鳥、虹色の雲、リボン、角砂糖……。そして目前にはいつのまにか、クリーム色の液体で満たされた巨大なティーカップが現れている! 避ける暇もなく、わたしはプールのようなティーカップに頭から突っ込んだ。口の中にミルクティーのような甘い味が広がる。

「わぶっ! お、溺れる……!」

「あはははっ! おじさんたら変なの!」

 無我夢中で喘ぐわたしを、隣でぷかぷか浮かんでいるモモが笑っている。周りを見ると、わたしたちが乗っているのと同じような巨大ティーカップが何個も、ワルツを踊るようにくるくる回っている。

「えい!」

 モモが掛け声を出すと、わたしたちのティーカップもくるくる回り出す。カップに満たされたミルクティーも渦を巻き、やがて竜巻のようにわたしたちを巻き込みながらカップから勢いよく飛び出した。

「わあっ!」

 宙に投げ出されたわたしたちは、今度はパステルカラーの雲の中に突入した。雲はポップコーンと綿菓子でできているようで、弾力のある雲の内壁にぶつかったわたしの身体はぽんぽん跳ねる。モモはふわふわと浮かびながら雲を美味しそうに食べている。

「美味しい!」

「こらこら、そんなに食べたらお腹を壊してしまうよ」

「いいの! おじさんも食べよう?」

 食欲がないんだ、と言おうとして、あの胸苦しさがすっかり消えていることに気が付いた。モモに渡されるまま綿菓子の欠片を口に含む。……初めて食べた。空想を食べているようなのに、口の中には不思議と甘みが広がっていく。

「あ! おじさん、次はあれに乗ろう!」

 モモが歓声を上げた先を見ると、空に浮かんだ木馬と馬車がゆっくり上下しながら列をなして行軍している。モモが飛び出していくのにつられ、わたしも勇気を出して雲から飛び上がる。モモは角の生えた水色のポニーに、わたしはかぼちゃの馬車に飛び乗った。

 わたしたちが乗った途端、木馬たちはぐんぐんスピードを上げ、凄い速さで上昇していく。気づけば眼下には青と緑色で構成された果てしない世界が広がっている。

「あははは! すごい、すごーい!」

 天にはまばゆい光を放つ宝石が見渡す限りに散りばめられている。木馬の群れは虹のアーチを潜り抜けながら星の上空を駆け抜ける。いつしかモモはポニーから降り、群れの先頭で飛びながら木馬たちを指揮する。

「いったいどこへ行く気だい?」

「どこでもいい! おじさんはどうしたい?」

「わたしは……」

 夢のようだ、と思った。楽しくて、愉快で、何もかもが素敵で――できることなら、ずっとここにいられたらいいのにと思った。喜びと楽しみしかない世界で、彼女とふたり。

 ずっと、永遠にここで。

「それがいいね」

「えっ?」

 妖精のように軽やかに舞いながら、モモがわたしの隣に来た。彼女はなんだか、今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。

「ふたりだけで、ずっと、ここにいよう?」

 彼女はいつだって、永遠を望んでいた。

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