きみのしあわせ

 木馬の群れはゆっくりと下降し、やがて公園のような場所に着地した。ジャングルジムに滑り台、ブランコを囲む広い砂場。群青と橙のマーブル模様を映す空を、細長い時計塔が分割する。木馬と馬車は煙のように消えていき、ふわふわと浮かぶモモと地面にへたり込んだわたしだけが残される。

「ここにいよう。ずっと、ふたりで」

 モモは微笑んでいたが、真剣な眼差しをしていた。永遠に。ならば“ここ”とはどこだろうか? わたしは雨の中、泥にまみれて這いずっていたはずで。だから、こんな優しさと砂糖で形作られた世界に辿り着けるはずがないのだ。文字通り夢見心地だった頭が急速に冷えていく。

「ここは、君が望んだ世界なのかい?」

 できる限り優しい声を出す。目の前の彼女は、間違いなく本物だ。だからきっと、この世界もわたしが見ている走馬灯や幻の類ではないのだと思う。すべてにおいて現実離れした場所であるが、彼女の魔法によるものだというのなら納得がいく。おそらく、もはや彼女の魔法にできぬことはないのだろう。

 彼女を取り巻くを変えること以外は。

「そうだよ」

 彼女はやや顔をこわばらせながら頷いた。わたしが怒っていると思ったのだろう。

「でも、だって、楽しいでしょ?」

「ああ、そうだね」

「ここは門限も勉強もないよ。閉じこもっていなくていいし、何をしたって怒られないの。ここにいれば、ずっと幸せでいられるよ」

「ずっとここにいるのかい? もう、向こうには戻らないのかな」

「どうして?」

 モモはいらいらしたように声を荒げる。

「戻らないよ。戻りたくないもん。だってあんなところ、もううんざり! 辛くて苦しくて、嫌なことしかないんだもん!」

「――――……」

 空が急速に曇りだし、集まってきた雨雲からごろごろと恐ろしげな雷鳴が響きだす。

「頑張って良い子にしてても何も良いことなんてなかった。ママは怒ってばっかりで意地悪だし、パパは知らない女の人とウワキして、あたしのことを無視してあの子ばっかりヒイキする。あの子も嫌、あの子のせいでママがずっと怒ってるし、あたしのパパを独り占めするんだもん。嫌い、ママもパパも、あの子も、みんなみんな大っ嫌い!」

 彼女の言葉とともに、空からしとしとと滴が落ち始める。ああ、あのこうもり傘はどこに行ってしまったのだろう。あれがあれば、せめて彼女に傘を差してやるくらいはできたろうに。

「それに、みんなもあたしのこと嫌いなんだ。戻ったってまた閉じ込められるだけだもん。絶対戻らない。ずっと、ずっと、永遠にここにいる」

「ずっと、ずっとかい? 大人になっても?」

「大人になんかなりたくない」

 不思議なことに、雨がどれだけ降っても彼女の身体が塗れる様子はなかった。しかし彼女の顔はびしょびしょに濡れている。

「おじさん、あたしね、このあいだになったの」

 わたしは思わずむせ込んだ。

「せ……!?」

「授業で習ったよ。セイリが来たら、身体が大人になるんだって。あたし、このままだと大人になるんだね。ママや、パパみたいな大人に」

 考えるまでもなく、当たり前のことだった。子どもとはつまり、大人になるまでの過程なのだから。どんな生き物であれ、人であれ、生きてさえいれば身体は成熟し、成体になる。本人が望もうと望むまいと。

 彼女も――いずれは大人になる。

 わたしは知らず知らずのうち、生唾を呑みこんでいた。彼女の身体が、不思議と扇情的に見えた。

「大人は嫌。誰かを怒って縛りつけたり、誰かを裏切って悲しませたり……あたし、そんな風になりたくない」

「――――……」

「おじさんもそうでしょう?」

 と――モモは潤んだ目でわたしを見た。

「おじさんも、みんなからひどい目に遭わされてたんでしょ? ここなら誰もおじさんのことを変な目で見たり、悪く言ったりしないよ。もう人の目を怖がって閉じこもらなくていいんだよ」

 ぎょっとする。彼女にはわたしの境遇のことは一切話した覚えはない。むろん、わたしの生活の有様を見ればいくらでも推測できようが……モモの瞳は本を読んでいるかのように真っ直ぐと、わたしの目を見つめている。

 見えているのか? わたしの心が。

 だとしたら――だめだ、これ以上知られるわけにはいかない。

 この胸にあるものだけは絶対に、彼女に見られてはいけない。彼女に触れ、抱きしめ、をして――愛と呼ぶにはあまりにおぞましい欲望をぶつけてしまいたいだなんて願いだけは。

 もとより。冷静になったわたしの頭に嫌な考えが浮かぶ。彼女とふたりきりでいて、わたしはずっと、自分を抑えていられるだろうか? 誰にも邪魔をされない、咎を受けることのない閉ざされた楽園で――わたしは彼女の身体に触れず、彼女の幸せだけを願えるだろうか。

 今だってぎりぎりで、溢れ出さんばかりに膨らんでいるというのに。

「……だめだ」

 わたしは首を振る。

「ぼくは、きみとはいられないよ。いずれきっと、きみを不幸にしてしまうだろうから」

「どうして?」

 わたしの震えた声に、彼女の戸惑いと焦りの混じった声が重なった。

「おじさん、あたしを幸せにしてくれたよ? おじさんに出会うまでのあたし、何もなかった。おじさんといっしょにいて、お話を聴かせてくれる時間が、あたしにとって一番幸せなときなの」

「でも……」

「おじさんだけだもん! あたしのこと、すてきだって言ってくれたのは! あたしの魔法をすごいって、良いものだって言ってくれたのは! ひとりっきりは嫌なの、おじさんといっしょがいい!」

 ……わたしは、今までなんてことをしていたのだろうか?

 あまりに軽率だった。彼女にとって、家庭や社会での暮らしは厳しいものであったかもしれない。けれど、それは決して彼女の不幸を確定するものではなかったはずだ。大人になって自由を手にすれば、いくらでも幸せに出会うことができただろう。

 だが、わたしの考えなしの行動が、『彼女を喜ばせたい』だなんて浅はかな思いが、彼女を縛り付けてしまっていたのだ。何もできない、ひとりの人すら幸せにできない醜い男といることが幸せだなんて――そんなこと、あっていいはずがないのに。

 だめだ、もはや余地はない。

「いけないんだ、――――。世界にはもっと、良いことがあるんだよ。でも、ぼくといっしょにいたら、そういうものは全部取りこぼしてしまう。ぼくは……」

 ぼくはきみを、幸せにすることはできない。

「やだ! おじさんの意地悪! あたし良い子じゃないもん、言うことなんか聞かないんだから!」

 モモがわたしに向かって手を伸ばす。とっさに避けようとするが、逃げられない。モモの白魚のような指先が、わたしの不細工な手に触れた。わたしの頭が真っ白になる。

 モモの手が――わたしの肌に。


 雨が、ふいに止んだ。……いいや、きっと、時が止まったのだ。


「…………え」

 少しの沈黙と硬直の後、モモが顔を上げ、わたしを見る。その顔に浮かんだ表情は、今まで幾度もなく目の当たりにしてきたものだった。気持ち悪い、なんて醜いんだろう、見るんじゃなかった、最悪――どうして彼女がそんな顔をしているのか、考えずともわかった。見えてしまったのだろう。わたしの胸の内が。

 ああ――やってしまった。

「……な、に?」

 じり、とモモが後ずさりする。まるで、恐ろしいものでも見てしまったかのように。当然だ、まったく見たことも考えたこともなかったものを知ったのだから。いくら見た目に目をつぶろうと、中身を無視することはできまい。

 身も心も醜い、愚かで浅ましい怪物。それがわたしだ。

「………………」

 モモは呆然と言葉を失いながら、少しずつわたしから離れていく。ならば、もはやわたしにできることは一つしかない。わたしはきびすを返し、反対の方向に走りだす。

 早く、自分のいるべきところへ帰ろう。彼女のために。

「おじさん――」

 彼女の声が遠くに聞こえる。足元は雨ですっかり湿り、泥になってわたしの足を取る。つんのめり、転び、這いずりながら、わたしは一心不乱に逃げる。

 再び降り始めた雨が光を塗りつぶし、わたしは暗闇の中に舞い戻った。

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