どろのなか

 いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。開かずの小窓から見える景色は暗く、激しい雨が降っている。

 それにしても嫌な夢だった。びっしょりと寝汗をかいているのを感じる。うたた寝で見るには妙に現実味を帯びすぎている――いや、本当に夢だったのか? 夢の中での境遇、それに、夢で見た“父親”の顔。まるで彼女に変身したかのような体験で、では、ならば。

 ……嫌な予感がする。

 そのとき、玄関で呼び鈴が鳴るとともに、扉がどんどん叩かれた。なんだ!? 驚いて足をもつれさせながら向かうと、そこには既に合鍵で中に入ってきた兄がいた。雨に濡れ、全身がびしょびしょになっている。

「ど、どうしたんですか――」

「ここに、子どもが来なかったか?」

 兄はひどく焦っているようだった。わたしはわけがわからず首を振る。子ども? なんのことだ……まさか、いや、そんな。

「何があったんですか?」

「おまえには関係ない!」

 訊ねると怒鳴りつけられ、思わず身を竦める。わたしの反応に気まずくなったのか、「とにかく、」と努めて穏やかな声を出す兄。

「もしも子どもが……小学生くらいの女の子が来たら、すぐにおれに知らせるんだ。いいな?」

「はあ……」

 所在なく視線をさまよわせていると、兄のズボンのポケットから、何やら革の切れ端のようなものが飛び出ているのに気が付いた。特徴的な色と縫い目は野球ボールのそれによく似ている。――よく似たものを、先程夢で見たばかりだ。

「あ、あ、あの! 何かほかに、ぼくにできることはありませんか!?」

 いてもたってもいられなくなり、とっさにそう口走ったわたしに、兄はいぶかしむような眼差しを向ける。

「いや、おまえは何もしないでいい。……ところで、おまえ、ずいぶん痩せたな」

 モモはいったいどうなってしまったんだろう。兄が去った後、落ち着けず部屋の中でうろうろ歩き回る。あの夢がすべて本当に起きたことなら、モモはきっと深く傷ついている。やけになって家を飛び出して、わたしの部屋にも来ていないなら、どこへ行ってしまったというのだろう。この雨の中、行くあてなんてないだろうに。

 探さなければ。

 こうもり傘を引っ張り出して外に出る。雨脚が強い。まだ日が暮れて間もないはずが、辺り一面が雨と暗闇に塗りつぶされ、足元すらまともに見ることができない。たった数歩歩いただけで、自分が今庭のどこを歩いているのかもわからなくなってしまった。

「――――!」

 彼女の名前を叫ぶ。声はすべて、雨音にかき消されてしまった。こんな天気の中にいたら、きっと身体を壊してしまう。早く見つけて、屋根の下に入れてあげなくては。気持ちは逸るが、身体は上手く動かない。ぬかるみに足を取られ、もんどり打って倒れてしまう。顔が泥まみれになり、ますます前が見えなくなった。

「うぅ……」

 倒れた拍子に傘がどこかへ行ってしまった。立ち上がろうとするが、あちこちに痛みが走って言うことを聞いてくれない。雨がざあざあとわたしに降り注いでくる。こんなことをしている場合ではないのに。きっと今頃、あの子は泣いているというのに。足を踏ん張ろうとすればするほど、身体から力が抜け、目の前がくらくら回る。

「――――」

 もう一度彼女の名を呼ぼうとするが、泥が口の中に入って上手く言うことができない。ああ、本当に、わたしは何もできない生き物だ。どうしてこうも何一つ、なすべきことがなせないのだろう。意識が泥の中に溶けていく。

 彼女の声がどこかで聞こえた気がした。

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