ことばのいみ

 雨もすっかり上がった翌日、昼下がりにはいつものようにモモは本棚の前に座っていた。

 たった一日会えなかっただけだというのに、彼女の姿を見るまでわたしはまるで生きた心地がしなかった。モモもわたしの姿の醜さに気づいたのだろうか。いつまで経っても完成しない物語にしびれを切らし、わたしと縁を切るつもりなのだろうか。そんな考えが机でも寝床でも浮かんできて、結局昨晩はちっとも作業を進めることができなかった。そして今日、妖精のように音もなく姿を現したモモを見たときの気持ちと言ったら! おかしな話で、モモという光を浴びた途端、それまでどんな風に生きてきたのかまったくわからなくなり、それなしでは生きていかれず萎れて枯れてしまう植物のような身体になってしまったようだった。

「こんにちは、おじさん」

「やあ、こんにちは」

 わたしはなるたけ平静を装って答えた。モモに会えなかった間、どれだけ苦しく、狂おしかったかなんて、無性に恥ずかしくて絶対に知られたくなかった。

「昨日はどうしたんだい? なにか忙しい用事があったのかな」

「……おじさん、怒ってる?」

 できる限り自然に話を切り出したつもりだったが、モモは浮かない表情でわたしを見た。と、とんでもない! こうなると見栄も恥もなく、わたしは必死で首を振った。

「そんなことはないさ! ただ……なんというか、心配だったのさ。今まで一日だって欠かさずに来てくれていたのに、昨日に限って来ないから。きみの身に、なにかあったんじゃないかって」

 精一杯取り繕って説明する。もちろん、見る限りモモの身に異常はない。だから尚更、昨日の不在が不可解で不安になるのだった。

「……あのね、病院に行ってたの」

「病院? お医者さんがいる、あの病院かい? まさか、やっぱりどこか悪いところが?」

 ぎょっとしてモモの身体に目を凝らす。

「ううん、元気! 元気だけど……『ていきじゅしん』だから」

「決まった日にはいつも行かなきゃいけないってことかな?」

「うん。ノーハを検査したり、シーティーとか、エムアールアイの撮影をして、お医者さんに見てもらうの。あたしの頭、変なところないかって」

 あの元気なモモが、今日に限ってはひどく落ち込んでいる様子だった。ノーハ……脳波? CTに、MRI? 子どもの口から出るには物々しい響きに、わたしはなんだか嫌な予感を覚えた。

「どうしてそんなこと……だって、きみはどこもおかしなところなんてないじゃないか」

「……ううん。おかしいんだって、ママが言うの」

 思えばモモは、自分からはほとんど両親の話をしたことがなかった。いや、家族の話だけではない。学校での出来事とか、友達との遊びだとか、子どもがしそうな話は一切だ。

「空を飛んだり、物を触らずに動かしたり、歩かずにあちこちに行ったりするのはおかしいことなんだって。だから病院で見てもらうの。

 背中から汗が噴き出る。

「パパが全然帰ってこないのも、あたしにおかしいところがあるからだってママが言うの。おかしいところがちゃんと治れば、パパも帰ってきてくれるし、他の子と遊んだり本を読んだり、好きなことしていいって。治らないのに外で遊ぶのは悪い子になるからだめだって」

 重ね重ね言うが、わたしはそれまで兄や兄の細君とは一切関わりを持っていなかった。だから、まるで知らないのだ。兄の細君がどんな顔をしているのか、どんな人となりで、どんな暮らしをしているのか。

 自分達の娘をどんな風に育てているのかも。どんな風に思い、扱っているのかも。

「ねえ、きみは」

「治せばいいのはわかるの。でも、どうやって治したらいいかわからないの。普通の子は飛んだりできないんだよね? あたし、『飛びたい』って思ったら飛べるけど、『もう絶対に飛ばないようになりたい』って思っても、そうはならないの。お医者さんは『悪いところはないです』って言うけど、ママはやっぱりおかしいって。夜寝ぼけてベッドに寝たまま飛んじゃうと、ママすごく怒るの。そんなだから、そんなだから、あなたのせいでって」

「――――!」

 言葉と涙を溢れさせる彼女の名前をとっさに叫んだ。どうしたらいいか、どうするべきであるのか、わたしにはわからない。ただ、あんまりで、見ていることができなかった。それだけなのだ。

「わたしは――きみのことが好きだ。きみは素敵だ。きみも、きみの魔法も、全部がそうだ」

 無様に、ただ思いつくままの言葉を並べていく。それだけしかできない、そうするしかないと思った。

「きみはおかしくなんかない。空を飛べるきみが、きみなんじゃないか」

「………………」

 モモはぐすぐすと洟をすすりながら、びしょびしょの頬を袖で拭った。涙で湿った赤い頬に、わたしはふいに目を奪われた。

「……おじさん、ありがとう」

 喘ぎ喘ぎ、嗚咽混じりにモモが言う。わたしは途端に言葉を失って彼女の顔を見つめた。

「あたしも、おじさんのこと好き。おじさんも、おじさんが作るお話も、全部大好き」

 ぐちゃぐちゃになった顔を歪めて笑顔を作るモモ。多分それは、わたしの下手くそな慰めに対する義理のようなお礼だったのだ。それ以上の意味を考えたり、あまつさえ期待などするべきでもない。だというのに、わたしは、彼女の弱々しい笑顔から目を離すことができなかった。

 わたしはそのときようやく、彼女に抱いている感情の正体を自覚した。

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