廃れていくものを

 龍も人も土になり、風に散り。どこへでも飛んでいけばいいのに、留まるのだ。眠りを忘れて、淀んでいる。ここは古戦場。かつて龍と人が争った。今は夢の中、時間の波間に漂っている。

 老龍の髭を貰いに、子龍は古戦場へと跳んで来た。八十竹のいる街を離れて幾日か。旅物屋から借りたマントを羽織って跳ねる。鹿の跳躍に負けないほど軽やかに、月の兎に自慢したくなるほど高く。蓮を爪先で蹴り、蛙が水に飛び込む。気流に掴まり、渡り鳥の羽ばたきを聞く。跳ねる、跳ねる。

 古戦場の淀みは地を青く染める。なんと青いのか。地が空に蝕まれている。裂けた空間は別の時代に続いている。夢を見ている、散っていけない魂が、断片的に、現界させる。時を渡ったとして、元の地に戻れるだろうか。漂白する小舟が示すアンカーポイント。現在の座標を観測するのは歴史庫の司書だとか、夢読みの航海士だ。離界からも、時の流れがよく見える。星の光を目指して進むのだ。赤く光る星はいつも見えているのに、進まず、戻れない。惑って漂えば、眠らぬ魂の影となり、空に闇を、地に青を落とす。


 古戦場の戦いは次元を巻き込み、夢を揺るがし、眠る者が目覚めかけ、世界は霞んで崩れ落ちる寸前だった。それほどの大喧嘩だった。足跡が刻まれた過去の尖塔が時流に呑まれ、降って落ちた墜落区画では、飛べぬ幻影が過去に戻るために活動している。古戦場は時間が安定しない。今でも過去の遺物が降り落ちる。禁域とされてからは語る者が潰え、あるいは口を閉ざしてからは、人には忘れ去られた。鳥も古戦場の上空を避けて通る。過去より漏れ出る息吹は根付かず空を目指す。草の背丈は短く整っており、青い光は昼間に輝く蛍。亡者も怨嗟を忘れた。

 老龍は、この長閑な草原に住まう。戦争に参加した古代からの龍だと言われている。歴史の証人が楔となるから、古戦場が過去に引き摺り込まれることも無いのだと。楔と言われながら、老龍は旅行もするし、龍が住む地への里帰りもする。永く生きているため故郷をたくさん持っていて、回りきる間に季節が幾つ飛び去ることか。過去を覗き見に出掛けたりもする。幾つかの山を越えてやって来た訪問者をもてなしもする。

「また来たか」

「うん、来たよ」

「お茶飲むか」

「うん、お菓子は持って来たよ」

「俺の好きなキンツバじゃないか」

 老龍を尋ねて古戦場に来る同胞は多い。知恵を借りに来る者、墓参りに来る者、理由は無くても遊びに来る者。老龍が退屈することはない。たとえ忘れ去られ、誰一人会いに来る者がいなくなってしまったとしても、老龍は存在を手放さないだろう。

「まだ眠らないの」

 数少ない同胞にリウセイは聞いてみた。老龍の一族もすっかり姿を消してしまったという。それでもなお存在し続ける理由を確かめてみたかった。きっと子龍と同じ答えを持っているはずだから、今まで聞いたことはなかったけれど。今日はどうしてか答えが欲しかったのだ。

 帰り際、眠らぬ龍たちに宛てた手紙を老龍に託した。


 老龍の髭を背負って子龍は帰路を行く。同じ道を戻ったはずだが、見覚えのない花、あるはずのない高い木、りんごのように陽が落ちて、咆哮、怒声、黒い人の波を見て、過去へ迷い込んだのだと悟る。夜気の中に火の手が上がる。爆ぜる火が行く手を遮る。リウセイは構わず進む。火柱が上がるのは、青い魂が集っていた場所だ。熱風に巻かれた人を龍が飲み込む。腕を引き千切り、頭蓋を噛み砕く。歩みを止めない人の群れが子龍を追い越す。人が子龍を目に留める気配はない。大龍に踏み潰されもしない。半歩先で肉片が飛ぶ。過去の幻影だ。冷たい炎が生物を焼く中を、子龍は通り抜ける。大戦時、人は常に劣勢だったという。それでも龍種に対抗し得る武器を作り、踏み散らかされると知りながら臆しもせず前に進んだ。 古代の人が作った武器は再現不可能だ。堅牢な龍の鱗が乱暴に剥ぎ取られる。

 敵わぬ相手に立ち向かったのは愚かさからではなく、龍が人を食らうからだ。龍が止まるとすれば生物を食い尽くした後しかあるまい。龍の強靭さ、理不尽さは自然譲りのものである。自然が枠を逸脱すると龍となる。形を得たばかりの頃は、生物よりも自然現象に近いものであった。人を狩る機構である。それが狩猟対象を観察し戦略を立てるうちに精神が生物に、そして人に近付く。意思持つ自然となった龍は、最後の戦争で人の世に干渉しない選択をした。永きに渡り龍は不可侵を守り続け、人が龍を忘れ、生物がまどろむ端の世で、興味深く人の街を見て回っている。

 過去の記憶の中で龍が人を食っている。人と混ざり合った龍は生物として生きた。生物は地に還り、星になっていく。我々は星になる。

 炎が黒く燃え立って、木々と人と龍を焼くとみな静まり崩れ落ち、絶望が打ち寄せた。これがお隣さんの言っていた時空のひずみなのだ。下手に動くと転がり落ちてしまうから、真っ直ぐ歩き続ける。青黒く光る空間を歩く。魂が捨てきれないままの記憶が泳ぐ。魚たちはどこに辿り着くのだろう。果てだろうか。それならば行き先は一緒だから安心なのだが、過去に飛び、現在に留まらない者たちは、時間から切り離されて堂々巡り。共に行けないのか。

 人は大地と決別した種だ。今は境を無くし、星に溶ける人も増えてきたが、彼らが龍と争ってまで求めたものが何か知りたいものだ。人を食えば分かるだろうか? 今の龍は人を絶やす意識は持たず、望みもしない。龍も人も解放された世だ。先祖は人を食らって答えを得ただろうか。何かを見出し、勝ち戦の後で人の世から姿を消したのだろうけれど。端の世では、何もかも忘れてしまっているよ。龍も、それから人も。

 子龍だって人を食う可能性のある生物だ。かつては恐れられた。しかし今は物語のそのまた奥に仕舞い込まれた。人は龍を見ても恐れない。捕食者を前にしても実感が無い。街の人は、子龍と暮らしている。

 人を食わない世代の龍は、人の街を散歩する。そして思う。人が何を望むのか、本人たちだって分かっていないのだ。だから模索し続ける。そして人であり続ける。街が終わるときは人が眠りの中で渇望を手放す日で、その日は近付いているけれど、まだ眠らないんだ。

 魂が吐いたあぶくが舞い落ちる。進むごとに色が失われる空間を染める花びら。雨漏りの水滴が音を奏でる。空虚の先で歌っている。身が引き裂かれる。龍が消え、人が消え、風が消えたとき、残るたった一つの鼓動。果てとは寂しいものだな。花を拾えない。星の傾斜はゆるやかに。果ては闇、丸い背中。花の香で眠りを妨げてはならない。パンのにおいで目覚めさせてはならない。翼が捥がれてしまったことを思い出してはいけない。夢のまま彷徨え。

 果ての岬まで行ったから子龍は戻る。雨に穿たれて花びらになる前に。ポンと一跳ね、マントを靡かせ。


「眠らなくてもいい、眠りたいのであれば眠るといい。だって、行く末を見守りたいだろ」

 なぜ眠らないのかと問うた子龍に、予想の通り老龍は答えたし、未だ眠らぬ者たちも同様である。各地に散らばる同胞に宛ててリウセイが書いた手紙は、老龍に宛てたものでもある。小さな背中を見送り開いた手紙には一言、「星の果てで会いましょう」と、希望の言葉が綴ってあった。

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