玉虫色した最果ての

 玉虫沼のほとりを歩く。川の起源を求めてやって来た。ここが水の生まれる場所か。

 子龍は沼に閉じ込められた虹を覗く。漆塗りの器の中を、螺鈿の装飾文様が生き生きと泳ぎ回っている。オーロラを見下ろす。飛び込めば別の星の空に出るだろうか。灰色の木々が密生し陽射しは控えめ、光が足りずに薄暗い。日に雲がかかると寂しいほどに色が無くなる。水源の沼は雲間の空だ。暗い淵に輝く玉虫色。光が少なくても輝いているのはどうしてだろう。

「飽きないか?」

 今日の子龍には同行者がいる。お隣さんだ。街から離れたこんな森の中で、ばったり出くわしたのだ。子龍は首を振って、また水中の虹の虜になった。

「ぺろりとでも舐めてはいけないからな、気をつけろ」

 沼の水を掬おうと構えた子龍に忠告。

「どうなるの?」

「体が玉虫色になる。そこ、すかさず飲もうとするな。確かに虹色になる以外の害は無いが、玉虫色って、なんだかだろ。目立つというか」

「虹色の龍はいるので、私が玉虫色になっても種族としてはバリエーションみたいなもので片付けられる」

「アア」

 飲んでしまった。量にもよるが、ぺろりと舐めたくらいなら、夜までには元に戻るだろうけれど。八十竹に説明するのは面倒なので、子龍と別れたら俺はしばらく街から離れる。

「お隣さんも飲む?」

「明日はそういう仕事ではないから、玉虫色になっちゃあまずい」

「そうなの」

 龍の感覚というものはよく分からないもので、ひどく残念そうに子龍は答えた。沼と同じ玉虫色を身に纏い始めた子龍は、また水辺に寝転んだ。地面は湿っぽく、所々は泥や水が溜まっている。乾いた草の上を選んでいるが、夢中になれば泥だらけになっているかもしれない。寝転ぶ子龍がすっかり沼の色に溶け込んでしまうと、神秘的な存在に見えてくるのも不思議である。本来龍は神秘の生き物なのだが、人を好いている子龍が威圧を放つことはない。それにしても見事な玉虫色だな。お隣さんが見惚れていると、子龍は再び顔を上げる。その瞳が七色に輝いたのは、水の影響だけではない。

「そういうお仕事のときはここの水を飲みに来たりするの?」

「玉虫色になる仕事かい。そうだね」

 わははとお隣さんは笑った。

「お隣さんは……」

「店主がそう呼んでいるのだな?」

「そう」

「まったく、先日名乗ったというのに」

「お名前は」

「揺」

「ゆらぎさんか。私はリウセイ。高湯原からやって来た」

「タカユノハラなら湯治で行ったことがある」

「温泉か。いいねえ」

「龍も温泉に浸かるのか」

「うん。温泉は好きだよ」

「今度熊野森の温泉に連れて行こうか」

「いいね。お隣さんは秘境巡りが好きなの?」

「どうかな。影がある場所ならどこにでも行けるからね」

「日陰が好きなんだね」

「それはそうだね。玉虫沼にもよく来るからね」

「お昼寝を邪魔してしまったかな」

「なんの」

 子龍と揺は沼の手前で出くわした。川は一度地下に潜り姿を消すため、川を遡って来た子龍は行く先を見失う。ひとまず高い場所へと向かい歩くと、木陰で休む揺を発見したのだった。途切れた川にはまだ先があるはずだと子龍が言うと、のそのそと立ち上がった揺に案内されて玉虫沼に辿り着く。大きな水溜りのような沼は、ひたひたと這い地に潜り、森のあちこちから滲み出す。再び地上に湧いた水には、墨の一滴も混ざらない無色透明、ごく普通の水である。流れの一本は子龍の辿った川となる。

「思いもよらない場所まで、この川の水が届いているかもしれないぜ」

 冗談だろうか。裂けた大地のような彼の口元はいつも笑っている。八十竹とは対照的だ。外歩きを好んで神出鬼没、居たと思えばもう居ない。今日とて半日かけて沼を見に来ただけというわけでもなかろうに、子龍と二人、器の銀河を覗きこむ。湧き出す水が絶え間なく模様をかき混ぜる。水底は見えない。魚はいるのだろうか。動物たちの声も遠い。

「魚はいるけれど、見えないだろうね。河童はいるぜ。ほら」

 水の揺らぎの狭間を指差す。子龍も気付いた。のっぺりとした頭が浮かんでいるのだ。はじめからそこにあった浮き島かとも思ったが。音を立てずに見守ってみる。徐々に顔が、そして大きな眼が見える。河童もこちらに気付いているようで、音を立てずに浮いては沈む。一定のリズムで繰り返していたが、飽きたのか沈みっぱなしになってしまって、泡の一つも吐かなくなった。水辺には地表とは異なる生活があるから、彼らの日常を見ているだけで面白い。ここに来て初めて魚が跳ねた。鳥が鳴いて飛び立った。水面で跳ねた魚は慌てた様子で、何かに追われたのだろうか、向こうの岸に跳ね上がる。沼は広く、どのような魚なのか分からないのだが、草の間でもがき、上手に立ち上がり、ごそごそと草の間を歩いていった。水陸両用だ。

 子龍は魚が消えた草むらを目指す。身を低くして、沼の保護色を生かし、岸に沿ってぐるりと移動する。水溜りが動いているようで、魚と同じくらい奇妙である。あちらの岸辺に子龍の姿が見えた頃には魚はとうに離れた後だろうけれど、対岸の揺に向かって楽しげに手を振っている。手を握ったままぶんぶんと振り回しているので、何かを拾ったのだろう。再び身を低くして痕跡を探し始めると、子龍の姿は見えなくなった。

 そのまま姿を現さず、水面が跳ねもしないので、子龍も魚も溶けてしまったのかもしれない。溶けたら下流に現れて、街まで勝手に帰るだろう。飛び込んだらどうなるかって? 別の星に辿り着きはしないとも。魚が跳ねた。草の中で。先ほどよりも近い位置におり、ようやく形が見えた。やはり例の脚の生えた魚だ。鳥の歩みのように不器用に、草に引っ掛かり走る。足が縺れているわりにはすばしっこい。子龍も飛び出す。跳んで水に戻る魚を逃がすまいともう一跳ね。ざぶんと水音を立てる。泥だらけになった上に水に浸かった。

「アア」

 飛び込んだらどうなるかって。星の地下空洞に出る。この空間は穴を掘っても出て来ないが、沼だとか、流星の穿った穴だとか、呪文で呼び出したり、箪笥を開くとあったりする。それぞれの穴は一つの空洞に繋がっていて、別の穴からストンと出て来る。星の抜け穴だ。街にも似たような抜け道がたくさんある。街の抜け道は小規模で、あちらの路地とこちらの路地を繋いだり、壁の向こう側に行くようなものだ。どこも影のある場所だから、揺は安心して抜け道を使う。迷うと出て来られなくなる。同じ路地を延々と歩いたり、どのドアを開いても同じ部屋に辿り着く。迷ってはいけない。地に足をつけておくことだ。星の抜け道は水脈に似ている。流れに身を任せる。思いもよらない場所までこの川の水が届いているかもしれない。

「驚いたあ」

 底の見えない銀河に飛び込んだ子龍が、這いあがった気配もなく背後から現れた。やっぱりずぶ濡れで、玉虫色をしていて、神秘の龍族は星ともきちんと繋がっていた。子龍は厳かに腕を上げ、揺の長い尾を指した。伸びた影と繋がる尾端に玉虫色が揺らめいている。

「沼の水を飲んではいけないったら」

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