宗易救出指令

「遅いぞ、久秀ひさひで。軍議に遅刻するとは何事かッ」


 松永まつなが久秀が主君長慶ながよしの本陣に顔を出すと、十河そごう一存かずまさの罵声が飛んで来た。

「鬼十河」と渾名あだなされる彼の怒号は、雷鼓らいこ響くかのごとく凄まじい。空気を鳴動させる蛮声に、久秀の耳の鼓膜は危うく破れそうになった。


「こ、これは一存様。申し訳ありませぬ」


「次に遅れたら殺すゆえ、覚悟しておけ」


「ころ……。さすがにそれはちょっと……」


「気にするな。そなたは遅刻などしておらん。ちょうど定刻通りじゃ」


 安宅あたぎ冬康ふゆやすが、十存の短気っぷりに苦笑しながら、物柔らかな口調でそう言った。両人とも長慶の弟だが、一存は烈火のごとき気性、冬康は無益な殺生を好まぬ善人で、性格は真逆と言っていいほど違う。


「一存。久秀は私が信任する三好家の重臣じゃ。もう五百住よすみ村の土豪ではない。いい加減、認めてやれ」


 兄の長慶にそうたしなめられても、一存は不愉快そうに久秀をめつけ、「フン……。俺はへらへらした奴が嫌いなのです」とブツブツ言う始末だった。


 久秀本人はへらへらしているつもりはないのだが、出世しても下の者に居丈高いたけだかな態度を取るのが苦手で、一兵卒にもざっくばらんな口調で話しかけているところが鬼十河の眼には軽々しい男に見えてしまうらしい。


「あーこほん。味方同士で喧嘩をしておる場合ではないぞ。全員揃ったのだから、さっさと軍議を始めようではないか」


 咳払いしてそう言ったのは、三好一族の長老格の三好長逸ながやすだった。


 この恰幅かっぷくのいい男は、長慶の従叔父いとこおじ(親のいとこ)にあたる。松永久秀とともに三好政権の双璧として天下を差配さはいすることになる武将である。後年、キリスト教に好意的な態度を取ったため、ルイス・フロイスに、


 ――善良の人、教会の友。


 と評された。


 しかし、この人物こそが、将軍足利義輝の弑逆しいぎゃくを実行し、織田信長と死闘を演じる宿命を持った三好三人衆の筆頭格である。


「これ、久秀。そんなところに突っ立っていないで、さっさとこっちに来て座れ」


 長逸が軍扇でちょいちょいと手招くと、久秀は「ハハッ。ありがたき幸せ」と言い、一存を避けるように三好家の長老のなるべく近くに座った。


 長逸と久秀。この二人は長慶の死後に政敵となる。だが、現時点では、お互いに三好家の繁栄のためには欠かせぬ存在であると認め合っており、わりと仲が良かった。短気な一存が久秀に因縁をつけてくるたび、長逸は成り上がり者の彼をかばっていた。


「軍議に遅刻しかけたのにはわけがありまして、敵城に猫を一匹潜ませる手はずを整えておりました」


「ほほーう。さすがは働き者の松永久秀じゃ。でかしたぞ」


 肥満体で暑いのか、長逸が軍扇でしきりに自分の顔を扇ぎながらそう言う。


 長慶は涼やかな眼差しを久秀に向け、「その猫は、江口城をうまく乱してくれるか」と問うた。


「それはもう、とびっきり凶暴な猫を放り込んでやりましたので。今夜か明日の早朝にも、城中に立て籠もるねずみどもは大騒ぎになることでしょう」


 得意気にそう答えると、久秀を嫌う一存が胡散臭そうな眼で睨んできた。元は田舎の地侍だった男ごときに城を落とすお膳立てなどできるものか、と思っているのだろう。


(ちぇっ。いちいちおっかない顔でこっちを見やがる。何故なにゆえ、そうやってわしを憎むのじゃ。この久秀のことがそんなにも信用できんのか)


 いくら主君の弟でも、さすがに不快である。だが、喧嘩をするわけにもいかないのが困ったところだ。久秀は、鬼十河の殺気に満ちた眼光まなざしに気づかぬふりをして、「江口城は明日には落とせます」と長慶にさらに言上した。


「明日か。我が意を得たりじゃ。ただちに総掛かりの準備をしよう」


 長慶は、己の懐刀ふところがたな全幅ぜんぷくの信頼を寄せている。即座に決断し、総攻撃の号令を出した。


「ここが正念場じゃ。明日か明後日には、六角ろっかく義賢よしかたの軍勢が鳥羽に着く。六角の大軍が駆けつける前に、宿敵政長まさながほふる必要がある」


しかり、然り。久秀を信じて、おのおの決戦に備えようぞ。……一存も分かったな?」


 兄の長慶が久秀を信任し、長老格の長逸まで肩を持つとなると、一存もいなとは言えない。不服そうな顔をしながらも、「承知……」と呟くのだった。




            *   *   *




 軍議が終わり、各将はそれぞれの陣地に戻った。出撃に備えつつ、敵城で異変が起きるのを待つのである。


「冬康と久秀は、ここに残ってくれ」


 長慶がそう言ったため、二人だけは本陣にとどまった。


 久秀が何事かと思って首を傾げていると、長慶は眉宇びうに憂いの色を浮かべながら「宗易そうえきがな」と意外なことを言い出した。


「江口城内に今いるようなのだ。どうやら、政長が密かに堺へ使者を送り、宗易を呼び寄せたらしい。政長は、宗易の師の武野たけの紹鷗じょうおうと親交があり、いくつかの茶器を借りていた。強欲なあの男も己の死を予感し、さすがに借りていた物ぐらいは友に返さねばと戦を前に考えたのであろうな。宗易はその茶器の受取人じゃ」


「なんと……。あり一匹入り込めぬよう厳重に包囲しているというのに、宗易殿はよく江口城に忍び込むことができましたな。冬康様や一存様の兵が見咎みとがめるはずでは?」


 驚いた久秀が疑問を口にしたところ、冬康が「もちろん、我が隊の者が、城に駆け込む直前の宗易殿を見つけた。私が止めねば、宗易殿は我が兵によって射殺されていただろう」と困った表情で言った。


 包囲中の城に侵入せんとする曲者くせものをなぜ射殺してはならないのか、と疑問を口にする者が多くいたし、中には「あの男、長慶様に顔が似ていたような……」と騒ぎ出す者も数人おり、冬康は部下たちを誤魔化すのにかなり難儀したのである。まさか、あれが長慶の生き別れの双子の弟だとは、口が裂けても言えない。


「発見してくれたのが冬康でよかった。気性の荒い一存が見つけていたら、宗易だと気づかず、即座に殺していたことだろう」


 長慶はうなるようにそう呟き、天を仰ぐ。今夜か明朝にも総攻撃が始まるというのに、敵城に自分の半身と言うべき弟がいるのだ。何とかして助けねば、と内心焦っていた。


「……殿。政長は宗易殿の正体を知っているのですか?」


「奴は茶会で宗易と何度か顔を合わせているはずだ。あるいは気づいているやも知れぬ。されど、政長は、紹鷗に対しては同じ茶人としての強い友情を感じている。宗易の正体を知っていたとしても、紹鷗の愛弟子には手をかけぬはずじゃ。我が軍が総攻めを開始すれば、宗易を城外に逃がしてはくれるであろう。

 ……だが、乱戦に巻き込まれて命を落とす可能性は大いにあり得る。宗易が小舟を使って水路から逃走を図った際には、水軍を率いる冬康が保護してやって欲しい。陸から逃げた場合には――」


「その時は、この松永久秀が宗易殿をお救いすればよろしいのですな。お任せくだされ。真っ先に江口城へ突撃し、宗易殿を保護いたします」


 久秀は拳で胸をドンと叩き、宗易救出を請け合った。

 呑み込みの早い寵臣に満足し、長慶は「頼りにしておるぞ」と言って微笑む。


 長慶と宗易の兄弟関係は、三好家において秘事中の秘事である。一門ではない家臣の中でこの秘密を長慶から明かされているのは、久秀ぐらいだった。しかも、長慶は、弟救出の任務まで久秀に託してくれたのだ。


(ふっふっふっ。儂は長慶様に心から信頼されているぞ。主君に頼りにしてもらえることこそ、武士にとって至上の贅沢ぜいたく。大いなる喜びじゃ。欲深な儂は、もっともっと長慶様に頼られたい。何としてでも、この任務だけは果たさねば)


 と、大いなる使命感に燃えていた。


 この男の美徳は、人間の欲望の力を後ろ暗い方向にではなく、非常に前向きな目的のために発奮させようとする爽やかさであろう。

 久秀の欲は、斎藤道三に劣らぬほど巨大だ。しかし、彼は自分が武士であることに誇りを持っている。どれだけ欲深に生きても、梟雄きょうゆうと呼ばれるような汚い生き方はしたくない。


 主君に忠義を尽くし、己の美学をひたすら追求する。そのためならば、何でもする。それが武士の正しい欲のかき方だ――そういった道三とは異なる人生の価値観が、久秀に陰湿な道へと走らせることをとどめているのだった。








※次回の更新は、11月28日(日)午後8時の予定です。

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