松永久秀登場

 三好みよし長慶ながよしの軍勢は、摂津において戦を優位に進めていた。

 対する細川ほそかわ晴元はるもと・三好政長まさなが主従の旗色は、かなり悪い。何しろ晴元の作戦が、


 ――六角ろっかく家の大軍勢が救援に駆けつけるまで、とにかく待とう。


 というふうに友軍頼みだったので、部下たちの戦いぶりも消極的にならざるを得なかったのである。兵たちもイライラがつのり、味方同士の喧嘩騒ぎが頻発していた。


 晴元と政長は三宅みやけ城(現在の大阪府茨木市)、政長の息子の政生まさなり榎並えなみ城(現在の大阪府大阪市城東区)に立て籠もり、長慶方の軍勢との睨み合いがひたすら続いた。


(殿は近江勢の到着をただ待てと仰るが……。ぼうっとしていても、長慶には勝てぬ)


 政長は、晴元ほど呑気ではないし、無策でもない。彼は、三宅城の守備を主君に任せて南に走り、六月十七日に江口えぐち城(現在の大阪府大阪市東淀川区)へ入城した。


 六角家が寄越した伊賀崎いがのさき道順どうじゅんという甲賀忍びの報告によると、六角義賢よしかた率いる数万の軍勢は六月の二十四、五日には鳥羽に着陣するとのことである。この情報は長慶も遅からずつかむはずだ。知恵の働くあの男のことだから、先手を打って別働隊を送り、鳥羽―榎並間の街道を封鎖するに違いない。また、配下の水軍を使い、淀川の水路も塞ぐだろう。そのような事態に陥れば、六角軍の援軍到着は大幅に遅れ、晴元・政長主従が孤立してしまうのは必至である。


 そうはさせてなるものかと思い、政長は江口城に入ったのだった。

 江口城は、政生がいる榎並城の北東、主君晴元が陣取る三宅城の南西に位置する。また、淀川や神崎川などの水上交通を確保できる重要拠点だった。この城をおさえてさえいれば、六角軍との連携は断たれず、晴元や政生との連絡も密に取り合うことができる。


 政長はそう考えたわけだが――この勝負、長慶のほうが一枚上手だった。

 江口城に政長軍が入った、と聞いた長慶は、


「思惑通り、獲物がおりの中に自ら飛び込んでくれたようだ」


 と微笑を浮かべた。


 江口城は、三方を河川に囲まれた要害だ。しかし、川に囲まれているということは、城が危なくなっても容易に逃げ出せない、ということでもある。長慶は、父の仇が江口城に入る瞬間をずっと待っていた。


「こりより直ちに江口城を襲う。全軍一丸となって水陸双方から城を囲み、政長が逃げ出せぬようにせよ」


 長慶がそう下知するや、三好軍は電光石火の速さで出撃、江口城を瞬く間に包囲した。


 まず、淡路水軍の大将の安宅あたぎ冬康ふゆやすが、江口城周辺の川という川に軍船を浮かべ、水路を封鎖した。十河そごう一存かずまさも歴戦のつわものたちを率いて陸から進撃し、城を厳重に囲んだ。

 両将は長慶が頼みとする弟たちで、冬康は和歌や茶を好む仁愛の将、一存は「鬼十河」と渾名あだなされる猛将である。


 ちなみに余談だが、この戦場にはいないもう一人の弟に、三好実休じっきゅうという武将がいる。千利休の高弟・山上やまのうえ宗二そうじに、


 ――実休は武士にて数寄者すきしゃなり。


 と後々評される茶の名人で、文武を兼ね備えた勇将として知られている。彼ら三人の優秀な弟たちが、長慶を補佐していたのだった。


 そして、長慶を支える者といえば――後年に織田信長と愛憎入り乱れた因縁を持つことになるあの男を忘れてはならない。その武将の名は、


 松永まつなが弾正忠だんじょうのちゅう久秀ひさひで


 である。




            *   *   *




 六月二十三日の早朝。

 三好長慶の重臣、松永久秀の陣所。


「背中の右側がかゆい。ちといてくれ。……あっ、こらこら。あまり揺らすでない。頭の上のきゅうが落ちてしまう」


 起床したばかりの久秀は、もろ肌を脱ぎ、二人の小姓に寝汗を拭かせていた。


 頭頂では、最前から据えているきゅうが、ゆらゆらと煙を出している。ひたいからはじわりと汗が噴き出ているが、久秀は心地よさそうだった。


 齢は四十二、すでに中年と言っていい年だ。

 だが、三十路みそじ手前から体の養生と鍛錬を心掛けてきたため、彼の肉体は壮健そのものである。初陣間もない若武者のごとく引き締まり、黒々と日焼けしていた。


 ――松永様は苦み走ったいい男やわ。


 昔から女たちにそうもてはやされ、今でも堺の町などを歩いているとつやめかしい女人に袖を引かれる。

 色町に足繁く通っていた二十代の頃などは、一晩に数人の女を抱くことなど、彼にとっては日常茶飯事だった。


 だが、二十代後半の頃、久秀はその生活を突如改めた。きっかけは、気まぐれで松虫を飼ったことである。凝り性の彼は、松虫を大事に育て、えさなども人に聞いてあれこれ工夫した。その手厚い飼育の甲斐があったのか、松虫はなんと三年も生きた。


(松虫でさえこんなにも長生きしたのだ。人間も日々の養生に気を配れば、さぞかし長生きできることであろう。年をとっても壮健であれば、死ぬまで武士としての務めを十全に果たせる)


 はたとそう気づいた久秀は、これからは女を抱くのもほどほどにしようと考えた。もちろん、暴飲暴食も控えた。


 ただ、久秀の性欲は四十を超えても衰えを見せない。ますます元気盛んだった。幾日も女を絶つのは苦痛極まりない。そこで、昨年知り合った曲直瀬まなせ道三どうさんという医者に、


 ――男女の交合こうごうは何日ほどあけるべきか。性技の指南書のようなものがあったら、譲って欲しい。


 と、頼んでいた。求めに応じた曲直瀬道三は、『黄素妙論こうそみょうろん』という性行為のハウツー本を自ら著し、これを物語の現時点(一五四九年)から三年後に久秀に贈ることになる。


「よいか、若人わこうどたち。わしがこうやって日頃の養生を怠らず、酒も女もほどほどにしているのは、年を食って欲が無くなったからではない。儂はこの世の誰よりも欲深よくぶかなのだ」


 頭頂の灸を取り払い、上着を着ると、久秀はよく通る高い声で小姓たちにそう言った。


 二人の小姓は畏まり、久秀を尊敬の眼差しで見つめながら主人の言葉を一言一句聞き逃すまいとしている。この中年の武将は、日頃から年少の者を可愛がっているため、側に仕える若者の多くは久秀にとても懐いていた。


「欲が深いというのは、別に悪いことではない。むしろ人間は欲深であるべきだ。出世がしたい、名誉が欲しい、己の趣味を極めたい。そう思えばこそ、人はがむしゃらに生きられる。

 されど――嗚呼ああ、人生朝露の如し。人の一生のなんと短いことか。やりたいことはたくさんあるのに、時間が全く足りぬ。百歳生きたとしても、志の半分も遂げられるかどうか。儂は欲深ゆえに、やりたいことは全部やって死なねば気が済まぬ。そのためには少なくとも人の倍以上は長生きする必要がある。だからこその養生なのじゃ」


「なるほど……。仰せごもっともです。しかし、殿はそんなにもたくさんこの世でやりたいことがあるのですね。私は、戦場で武功をあげたい、綺麗な嫁が欲しい、という欲ぐらいしかありませんが……」


 小姓の一人がそう言うと、久秀は「ハハハ。若いくせにたったそれだけの欲か。情けない」と笑った。


「儂の欲をひとつひとつ列挙すれば、日が暮れてしまう。じゃが、これだけは何が何でも果たしたいという三大欲がある」


「三大欲、でございますか?」


「うむ。まずひとつは、三好家の比類なき功臣となることじゃ。長慶様にとって一番の家来でありたい。

 たとえばだ、想像してみろ。長慶様が長生きなさって五十の賀(五十歳になった祝い)を催されたとするであろう。その時、儂は筆頭家老として出席し、長慶様から一番に盃を賜るのじゃ。そして、『私が天下の権を握る大名になれたのは、松永久秀の忠勤のおかげである』とお褒めの言葉を頂戴したい。

 摂津五百住よすみ村の田舎武士に過ぎなかった儂を三好家の重臣に取り立ててくださった主恩に報い、長慶様が最も頼みとする臣下になることこそが、武士である儂の野望……。山より高く海より深き恩を受けたというのに、たいした恩返しもできなかったら、男としてかっこ悪いからな」


 長慶はいま二十八。五十歳の祝いの宴など当分先のことだ。ずいぶんと気の早いことを言う男である。だが、長慶が五十歳になった時、久秀は六十四歳だ。その頃まで現役の武将として活躍し、主君の片腕として働いていたい、と長慶好きの久秀は真剣に考えているのだ。


「二つ目の欲は、名物集めじゃな。天下に名を馳せる武士もののふは、その名声にふさわしき茶器を所有すべきじゃ。儂はいつか必ず、松永久秀という武将の価値に見合った大名物を見つけてみせる。そして、三つ目の欲は――」


 久秀が楽しげに己の欲について語っていると、不意に荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。陣幕の外で何者かが喚き散らしているらしい。


「放せ! 放せ! 放しやがれ、この野郎!」


 小姓たちが「何事か⁉」と身構える。その直後、怪しげな男が兵士たち数人に引っ立てられ、陣幕内に入って来た。


「殿! ご命令通り、連れて参りました!」


「おお。儂が昨夜捕えた賊か」


 兵たちは、縄でグルグル巻きに縛られている若い男を、久秀の足元へ乱暴に転がす。その賊の姿を見た小姓たちは「へ、変態だッ!」と悲鳴を上げていた。賊は、なぜかふんどし一丁だったのである。


「いってぇ~! 何しやがるんだ、こんちくしょう!」


 ほぼ全裸の賊は、つばをぺっぺっと飛ばしながら松永隊の兵に悪態をついた。兵士たちは「うわっ、汚ねぇ!」と叫び、後ずさる。その光景を見ていた久秀はハッハッハッと大笑した。


「威勢のいい盗人ぬすっとだな。大胆にもこの松永久秀の陣営から食糧を盗もうとしただけのことはある。儂が棒術でさんざんに懲らしめてやったというのに、まだそんな元気があるとは驚きじゃ。しかし、首をねられたくなければ、もうちょっとしおらしくしておったほうがよいぞ」


「うるせえ! 腹さえ空いてなければ、てめえなんか簡単にやっつけていたんだ! あともうちょっとでてめえの金玉を潰せるところだったのに……畜生! さっさと俺様を解放しやがれ! あと、俺様の宝物も返せ! あれは主従の誓いを交わした御方からもらった大事な刀なんだ!」


「唾を飛ばしながら喋るな、阿呆。顔にかかったではないか。本当に汚いない奴じゃのぉ。……お前は、厳重な守りの我が陣営に潜り込み、盗みを働こうとした。お前の言う通り、飢えてさえいなければ、儂に捕まらなかったやも知れぬ。その忍びの能力を見込み、やってもらいたいことがあるのだ。その仕事をこなしてくれたら、そなたが大事そうに持っていた脇差も返してやろう」


「仕事だぁ~? 俺様に何をやらせようっていうんだ」


 ふんどし一丁の賊は、思いきり面倒臭そうな表情で久秀を睨む。もともと人相が悪いのに顔を歪ませると、さらに凶悪な容貌になる。


「その前に姓名を名乗れ。名を知らねば、話しにくくて仕方がない」


 久秀にそう言われ、ふんどし一丁の賊はフンと鼻を鳴らした。


「聞いて驚くなよ? 俺様こそは…………泣く子も黙る甲賀の滝川一益様様様だッ‼ どうだ、恐れ入ったかッ‼」


「知らんなぁ~。滝川一益様様様などという珍名は聞いたことがない。いったいどこからが姓でどこからが名なのやら」


「ふざけているのかよ、おっさん! ぶっころ――ぐべぼばっ⁉」


 自分が一番ふざけているのにも関わらず、ふんどし一丁の賊、滝川一益は激怒した。飛びかかり、久秀に噛みつこうとしたが、兵士たちに足蹴にされて鼻血を出しながら再び倒れた。


「変な奴……」


「殿様。こんな男が本当に使えるのですか?」


 小姓たちが眉をしかめ、主人にそうたずねる。久秀はクスクス笑い、「物は使いようじゃ」と言った。


「それに、儂が見たところ、こやつの眼には異常に力強い光が宿っている。こういう眼をした男は、成長したら意外と化けるものだ。人を使う立場の者は、茶器の価値を見定めるように、人間の真価をひと目で見抜けねばならぬ。この男には千宗易せんのそうえき殿が愛用されている珠光じゅこう茶碗くらいの値段はつけてやっていいと見た。儂が此奴こやつを使ったら、必ずや江口城攻略の突破口を開くことができるであろう」








<三好ブラザースの名前表記について>


三好一族は改名を何度もする人が多く、そのたびに名前表記を変えるとワケワカメ……。「登場するたびに名前が違う!」という事態に陥りかねません。

というわけで、三好長慶とその弟たちは、一般的に知られている名前で表記していきたいと思います。


ちなみに、以下が長慶と弟たちの名前の変遷です。



三好長慶…千熊丸→孫次郎→利長→範長→長慶

三好実休…千満丸→彦次郎→之相→之虎→物外軒実休

安宅冬康…千々世→神太郎→鴨冬→冬康→一舟軒宗繁

十河一存…孫六郎→一存

(戎光祥出版刊、天野忠幸著『中世武士選書31 三好一族と織田信長』より)




ちなみに、物語の現時点で、長慶はすでに「三好長慶」になっています(*^^*)

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