安祥城攻防戦
自軍の猛将を立て続けに二人失ったことで、岡崎衆(松平家の家臣たち)の勢いは止まった。
さしもの三河武士も、一度瓦解した軍の統制を回復させるのは難しい。織田兵たちに押し返され、どんどんと後退していった。
「ぬおっ⁉ 松平の侍どもめ、打ち負かされおったのか」
二の丸のあたりまで軍勢を進めていた
勇猛果敢な三河武士が撤退を始めたということは、よほどの有力武将が討ち死にしてしまったに相違ない――泰能はすぐにそう察し、これはまずいぞ、と思った。
「前嶋伝次郎殿が敵将・本多忠高を討ち取ったぞ!」
「敵兵は皆殺しじゃぁ!」
「殺せ殺せぇーッ!」
織田兵が口々にそう叫びながら襲いかかって来る。
泰能は抗戦を試みたが、兵たちの動きが鈍い。
敵城に一番乗りした猛将が殺されたと聞き、金で雇われている傭兵たちが動揺を始めたのだ。
――やべえ。今川方についたのは間違えだった。殺される前に逃げねば。
と、あっさり逃げ腰になってしまっていた。
だが、ここは敵城のど真ん中である。隊列を乱して逃げ惑っても、各要所の櫓から狙い撃ちにされるだけだ。戦意を無くして敵に背を見せた者たちから先に次々と
「ばっかもんがぁ! 戦場で
泰能は白刃を振るいつつ、傭兵たちを叱りつける。
しかし、彼らならず者たちは逃げるのに夢中で、味方の
「泰能様。とてもではありませんが、持ちこたえられません。それがしが
朝比奈隊の侍大将が泰能にそう進言し、襲いかかって来た織田兵を一人斬り殺した。
傭兵どもは戦線離脱してしまったが、泰能直属の将兵たちは主人を守ろうと必死である。泰能は「やむを得ぬ。一時撤退するしかないか……」と悔しそうに呟き、退却の号令を出した。
「
朝比奈隊と大久保忠俊ら岡崎衆は大損害を出しながらも、何とか城の外へと逃げのびた。
勢いに乗った織田軍はさらに追って来ようとしたが、城外で待機していた総大将・
「雪斎殿、すまぬ。助かったぞ」
「いや、謝るべきは拙僧のほうです。この雪斎の不手際で危うく泰能殿を死なせてしまうところでした」
「……織田信広め。どうやら、本多忠高を城の奥深くまで誘い込んで討ち取ったようじゃ。
「信広にそのような知恵は無いでしょう。恐らく、安祥城には侮りがたい知恵者がいるのです」
「そんなことはどちらでもいい話だ。おかげで城攻めがやりにくくなったことに変わりはない。先手衆である三河武士の多くが戦死し、我が朝比奈隊も打ち負かされてしまった。このことが全軍に知れ渡れば、金で雇った兵どもは……」
「
馬上の雪斎は険しい顔で安祥城を睨みつつ、そう言った。その表情にはわずかに焦りの色が見えている。
領内における金山開発の技術が発達して、今川家が大量の傭兵を雇えるようになったのはここ最近のことである。雪斎を含めた今川の諸将はまだ大軍勢を手足のごとく動かせるほど慣れてはいない。その弱点を織田方にまんまと突かれてしまった。
(戦場に信秀がいなければ織田軍など何とでもなると思っていたが、少々詰めが甘かったようだな。信秀の援軍が駆けつけるまでに安祥城を落とすことができなかったら、潔く退くしかあるまい。千載一遇の好機を逃すとは、不覚なり雪斎……)
* * *
雪斎と泰能が危惧した通り、朝比奈隊と岡崎衆の敗走は今川軍全体に大きな動揺を与えた。
城の南口を攻めていた
ほぼ同時に搦手口でも織田方の反撃が始まり、鵜殿
「それ見たことか。これだから他国の流れ者どもは信用ならぬのだ。――射殺せ」
こうなることを見越していた元信は毛ほども慌てず、
直後、元信子飼いの精鋭兵たちが一斉に矢を放ち、逃亡兵十数人を殺害した。この光景を目の当たりにした傭兵たちは、「げっ」と恐怖で顔を引きつらせる。
「いいか下郎たち。
冷徹な光を宿した
「お、おお……。恐るべき強引さで部隊の秩序を回復させおったぞ。これは
鵜殿長持は感心してそう呟くと、「鵜殿隊も
雪斎の伝令が馳せ駆けて来たのは、ちょうどそんな時のことである。
「岡部殿ッ! 雪斎様からのお言葉です! 搦手門を――」
「分かっておる。搦手門を大急ぎで落とせ、というのであろう。できるだけのことはやってみせるさ。最初から岡崎衆などに頼らず、我ら今川軍だけで攻めればよかったのだ。よそ者の手を借りて勝利を盗もうとするから、こんなことになるのだ」
開戦前は鵜殿長持の愚痴を無視していたが、本音を言えば、元信も三河者たちが先手衆であることを快く思っていなかったのだろう。そう吐き捨てるように言うと、猛然疾駆して織田勢に突貫。戦場に鮮血の花びらを赤々と咲かせ、わずか四半刻(約三十分)で劣勢を覆した。
織田兵たちは、軍神・
* * *
搦手口における岡部隊の大奮戦を伝令の報告で聞いた安房守は、
「岡部元信ただ一人の武勇のせいで、せっかく昂揚させた自軍の士気に水を差されるのは困るな……」
と呟いた。
一騎当千の勇将をまともに相手にしたら、戦場全体の優劣をガラッと覆されかねない。以降、城から不用意に打って出るのは控えるべきだろう……。そう考えると、安房守は城内の全将兵にこう下知した。
――敵軍には十分に痛手を負わせた。あとは防戦に徹せよ。数日持ちこたえたら、援軍が必ず来る。
事実、信秀が派遣した織田本軍の軍勢が尾張・三河間の街道を
雪斎もその情報は恐らくつかんでいるはずなので、織田の本軍がこの地に姿を現す前日には撤退の決断をするはずである。
万全な体勢ならば城外で織田本軍との決戦も考えただろうが、野戦が得意な岡崎衆が甚大な損害を出してしまっている今、一大会戦に挑むような冒険をあえてするとは思えない。
(このまま防戦に徹すれば、十中八九は勝てる。本多忠高を討ち取った時点で、我らの勝利は決まったのだ。信広兄上と私の勝利だ。これで、兄上も父上に対して少しは面目をほどこすことができるであろう)
その後の二日間、岡部元信と鵜殿長持の部隊は搦手口を烈火のごとく攻めた。他の攻め口も大なり小なりの攻防戦が繰り広げられたが、織田方は搦手門の防御を重点的に善戦し、安祥城はついに落ちなかった。
戦闘三日目の夜。「織田の援軍、目前に迫る」の報を得た雪斎は、全軍密かに撤退せよと命令を出した。
今川軍は、物音を一切立てず、戦場から消えた。近辺の村で略奪騒ぎを起こそうとした傭兵たちは雪斎の命令で殺され、死体は陣地跡に放置された。翌朝に織田の援軍が安祥城に入城した頃には、今川全軍は岡崎城に引き返した後だった。
「引き際の潔さは、さすがは雪斎といったところですな」
「やれやれ……。秀俊(安房守)のおかげで何とか一命をつないだぞ」
安房守と信広は、一夜で消えた今川軍の陣地跡を本丸の最上階から見下ろしながら、そう語り合うのだった。
※連載小休止のお知らせ
申し訳ありません。6月上旬~中旬の連載をお休みさせてください(^_^;)
現在、「青龍明良改名記念(?)の短編小説」の執筆を準備中で、その作品を6月中に締切の公募に送ろうとしているところです。題材はなんと三国志です。
『天の道を翔る』連載再開は6月下旬ごろを予定していますが、変更があった場合はまた近況ノートでお知らせしたいと思います。
いよいよ物語は信長の結婚話に移行し、病んじゃってる帰蝶ちゃんが尾張国にやって来ます。果たしてどうなることやら……(>_<)
これからも『天の道を翔る』と青龍明良をよろしくお願いいたします!!!m(__)m
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