壮絶、三河士魂・後編

 織田安房守あわのかみ秀俊ひでとし(信広の同母弟)が罠を仕掛けた場所は、安祥城の本丸櫓門やぐらもんである。この門上の櫓に、彼は前嶋まえじま伝次郎でんじろう率いる精鋭弓部隊を配置していた。


 櫓の上から戦況を遠望していた前嶋伝次郎は、がむしゃらに逃げて来る信広の姿を視界にとらえると、「御大将! 早う早う!」と叫んだ。


「急いで門の中へ! 敵勢がすぐ後ろまで迫っていますぞ!」


「わ、わわわ分かっておるわい!」


 信広は馬の尻に鞭打ち全力疾駆、櫓門の内側へと駆け込もうとする。


 そうはさせじとばかりに、榊原さかきばら藤兵衛とうべえが槍を投げつけた。


 投擲された槍は馬の尻に当たり、驚いた愛馬によって信広は振り落とされてしまった。


「あっ、まずい! 殿様が馬から落ちた!」


「引きずって中にお入れするんじゃ!」


 付き従っていた足軽たちが口々に叫び、信広の首根っこや左右の腕をつかんで力任せに運ぼうとする。


 敵勢の接近は目前。信広が門内に逃げ込んでいないため、まだ門は閉じられない。櫓門を守備していた城兵たちは、槍衾やりぶすまを築いて本多・榊原隊の行く手を阻まんとした。


 本多忠高は「退け退けッ」とわめき、大身槍の一揮ひとふりで烈風を巻き起こす。織田兵が突き出して来た十数の槍をまとめて払いのけた。

 榊原藤兵衛も刀を抜き、片手に手盾を持って奮戦した。

 標的ターゲットの信広と城の最終防衛線は眼前にあるのだ。当然ながら、両将の闘志は炎々と燃え上がっている。


「おう、あれぞ扇の馬印。さすれば、彼こそが本多平八郎忠高か。よし……時来たりじゃな。者共ものども、あの猛将に狙いを定めて矢を撃て! 仇矢あだや(無駄な矢)は一本も出すな!」


 前嶋伝次郎は眼下の敵将を指差し、そう下知した。安全のため信広が門内に逃げ込むのを待ちたかったが、もたもたしていると忠高に討たれかねない。ここが勝負時だ、と判断したのだ。


 伝次郎麾下きかの弓兵たちは手練れ揃いである。雨霰あめあられとばかりに一斉に矢を放ち、その全てが忠高に殺到した。


小癪こしゃくなッ!」


 頭上からの凄まじい殺気――忠高はキッと櫓を見上げ、咆哮とともに槍を大旋回させた。


 巧妙なる槍さばきで、降り注ぐ矢の大半を弾く。

 しかし、おびただしい数の矢のため、完全に防ぎきることははさすがにできなかった。一矢が左目に突き刺さり、次の瞬間には右足の甲も射貫かれた。


「ぐ……ぬぅぅ……。織田の弓兵め、なかなかの腕前じゃ」


「本多殿! 大丈夫でござるか!」


 忠高がたまらず膝をつくと、伝次郎は二度目の一斉射撃の準備を命じた。


 榊原藤兵衛が慌てて駆けつけ、手盾を掲げて矢の猛攻から忠高を守らんとする。本多隊の将兵たちも主人のそばに集まり、手盾がある者はその盾を、持たぬ者は自らの体を防御の壁とした。


「無駄じゃ! 兵たちよ、あんな盾など破壊してしまえッ!」


 前嶋伝次郎が嘲笑いながらそう叫ぶ。

「おおッ‼」と応じた織田兵たちは、やじり木鋒きほうを用いた矢で斉射した。木鋒とは――妖刀あざ丸のくだりで登場したことがあるが――盾や船板を破壊できる棒状で丸い鏃の一種のことである。


 ほとばしる流星群のごとき勢いで放たれた秘密兵器の矢は、三河兵たちにどっと降り注ぎ、彼らの頼みの綱である木盾を容赦なく粉々にしていった。木鋒の鏃に吹っ飛ばされた兵たちも数多あまたおり、忠高をかばった藤兵衛も盾ごと左手の骨を砕かれた。


 時を置かず、通常の鏃で三度目の射撃へ。指揮官である伝次郎も自ら弓矢を取り、忠高の脳天めがけてぶうんと一矢放った。


 忠高は、満身創痍でも闘気は微塵も衰えていない。片目だけで己に向かって来る一条の光をとらえ、隆々たる筋肉の左腕を前に突き出して頭をかばった。


「チッ。腕に当たったか。次こそは――」


「で、伝次郎様! 大変です! 御大将が敵勢に挑みかかっていきます!」


「なぬっ⁉」


 兵の狼狽うろたえた声を聞き伝次郎が見下ろすと、なるほど、門の内側に担ぎ込まれつつあった信広が、部下たちの制止を振り切って本多・榊原隊に斬り込まんとしていた。


 ――今なら、この俺の手で敵将二人をまとめてやれる!


 と、思ったらしい。すぐ調子に乗って戦場ではしゃいでしまうのが信広の悪い癖である。伝次郎の射撃部隊に任せておけばあともう少しで敵勢を殲滅せんめつできるというのに、余計ながんばりだった。


「敵将、覚悟ッ!」


「こ、この……!」


 信広踊りかかり、長刀一閃。片手だけで応戦しようとした榊原藤兵衛の首を豪快にねた。


 首を失った勇士の肉体から血しぶきが噴き出し、紅い驟雨しゅううが信広と忠高を濡らす。


「藤兵衛ッ‼ お……おのれぇ~……」


 忠高は、血みどろの顔を驚愕の表情で歪ませ、眼前の憎き敵を睨んだ。


 オオオオッと狂ったように吠え、奮然と立ち上がる。そして、左目に突き刺さっていた矢を目玉ごと勢いよく引き抜き、信広の顔面めがけて己の眼球を叩きつけた。


「ひえっ。め、目玉が頬に当たって潰れた! 何しやがるんだこの――」


「許さん。許さぬぞ。おぬしは捕虜にせねばならぬゆえ殺さんが、腕の一本や二本は斬り落としてやる。たとえ死んででも藤兵衛の仇は討つ」


 自分をかばって死んだ藤兵衛のために、忠高は右目から涙を、目玉を失った左目からは赤い涙を流していた。痛みも疲労も憤怒の暴風によって吹っ飛んでいる。決死の勇者はいよいよ、この場所を我が散華さんげの地にせんと決め、最期の闘いに挑もうとしていたのである。


「……幼き主君のため……今川に捕らわれている仲間のため……そして、この三河国の未来のため……俺は勝つ‼ 信広よ、大人しくばくにつけいッ‼」


 蒸し暑くて邪魔臭い兜を脱ぎ捨て、大股で走り出す。天を衝かんばかりの勢いで大身槍を振り上げ、忠高は怒号とともに信広に迫った。


 怒り狂った猛虎ほど恐るべきものはない。忠高の凄まじい気迫に圧倒され、信広はさっきまでの勇気を雲散霧消してしまったようだ。肝っ玉を冷やして「ひえっ! ひえっ! ひえええっ!」とわめきつつ後ずさりした。


 生き残っていた本多隊の兵たちも、忠高の蛮勇に励まされ、前進を再開した。扇の馬印を高々と掲げ、まだ開け放たれている本丸櫓門めざして突き進む。この最終防衛線さえ突破すれば、今川・松平連合軍の勝利は確実である。


「い、いかん! 矢を放て! 間違って御大将に当てるなよ!」


 慌てた伝次郎が櫓の上から矢の雨を降らせる。続々と命中し、本多隊の兵たちが数多あまたたおれていく。


 無数の矢を浴びた忠高は、衣川で立ち往生した武蔵坊弁慶のごとき無残な姿になったが、彼の猛進は止まらない。信広を守るべく立ちはだかった城兵たちを嵐のごとき槍さばきで吹き飛ばし、突き殺し、叩き殺していく。あたりに雑兵たちの血しぶきと脳漿のうしょうが飛び散り、信広は血だまりに足を滑らせてズテッと転んだ。


「し……しまった……」


「ここまでじゃな、織田三郎五郎信広。今川の陣まで同道してもらう」


「忠高ぁーッ! 忠高ぁーッ! 待つのじゃ! 一人で突き進むなぁ!」


 この瞬間、大久保おおくぼ忠俊ただとしと岡崎衆の仲間たちが、矢の猛攻をくぐり抜け、ようやく追いついて来た。後方から必死に呼びかけ、忠高と合流すべく懸命に走っている。


 しかし、戦鬼と化している忠高は振り向こうとしない。


 無様に倒れている信広を捕えるべく血だまりの海を歩き、ぐわっと手を伸ばす。


 その大きな手が、とうとう敵大将の鎧の袖をしっかりとつかんだ。


(目標は達せられた。これで竹千代様を救出でき――)


 忠高の思考は、そこで途絶えた。


 右手に大身槍を握り、左手で信広を捕えたまま、若き猛将の体は崩れ落ちた。

 そのひたいには、深々と矢が突き刺さっていた。


 射たのは、前嶋伝次郎である。「このままでは信広様が危ない」と焦った彼は、滑り落ちるようにして櫓から降り、門外に飛び出して至近距離から忠高を狙撃したのだ。


 猛将本多忠高の死を目撃した大久保忠俊ら三河武士たちは、


「あ、ああ……。間に合わなかった……」


 と一様に悲痛な声を漏らし、しばし呆然と立ち尽くした。


 伝次郎はその隙を逃さず、忠高の亡骸を蹴飛ばして信広を助け起こすと、門の内側に大慌てで逃げ込んだ。そして、「射殺せ射殺せッ。できるだけ多く松平の勇士たちを射殺すのじゃ」と吠えた。


 櫓の上の弓兵たちが、殺戮の射撃を再開する。

 矢は、ますます烈しくなってきた猛風に乗り、棒立ちとなっている三河兵たちの命を次々と奪っていく。


「こ、これでは近寄れぬ!」と三河武士の誰かが悲鳴に近い声で叫んだ。忠高の死という衝撃が、彼らから闘志を奪い取ってしまったのだ。


 閉じられた本丸櫓門のすぐそばには、忠高の死体と彼の扇の馬印が転がっている。本多隊や榊原隊の兵たちもその近辺でむくろと化していた。榊原藤兵衛の首は見当たらない。織田兵に持ち去られたのかも知れない。


(これはもうどうにもならぬ。信広にも逃げられてしまった。せめて、忠高の遺体と馬印だけは本多家の遺族の元に――)


 そう考えた大久保忠俊と数名の武将たちは、兵に矢盾を押し出させ、矢の暴風雨の中を命懸けで前進した。門前ぎりぎりまで接近すると、忠高の遺体と扇の馬印を回収し、


「撤退ッ! 撤退じゃぁ!」


 と、忠俊は叫んだ。彼のかいなの中では、片目を見開いたままの忠高が虚空を睨んでいる。微笑んでいた。俺は勝った、と思いながら死んでいったのだろう。


 岡崎衆は、一人の勇将の死によって敗走した。




 江戸幕府の記録『柳営秘鑑りゅうえいひかん』にいわく――忠高が遺した扇の馬印は、遺児である本多忠勝に受け継がれ、さらに後年、徳川家に献上されて家康の馬印になったという。


 忠高の壮絶な三河士魂は、この馬印を通じて、徳川軍の中で脈々と生き続けたと言っていい。








<徳川家康の扇の馬印について>


この小説では、『柳営秘鑑』に記されている「本多家由来説」を採用していますが、他にも「東三河の牧野家から譲り受けた説」や「三河一向一揆で家康に反逆した石川親綱の馬印が由来説」など諸説あります。

せっかく本多忠勝のパパが登場して活躍したので、お話的には「本多家由来説」が一番面白いかもと思い、この説を採用しました(*^^*)

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