壮絶、三河士魂・前編

 織田兵が放つ矢の雨は、吹きすさぶ烈風に乗り、暴風雨と化していた。三河武士たちは、この城方の激しい抵抗を突破し、獲物信広を捕えねばならない。


 本多ほんだ忠高ただたかは、逃げる信広のぶひろの背中を視界にとらえつつ猛進している。すでに四本の矢が腕やももに刺さり、血まみれである。それでもこの若き猛将の勢いは止まらず、三の丸の近くで信広隊の兵と激戦を繰り広げていた。


「忠高、おぬしだけ前に出過ぎじゃ。少し後ろへ下がれ。……チッ。矢の勢いが凄まじいな。急いで矢盾を運んで来い、矢盾を。弓衆は何をしておる。もっとがむしゃらに射返さぬか」


 大久保おおくぼ忠俊ただとし(松平家の宿将)が、防御など二の次で突き進まんとする若武者たちを叱りつけ、矢盾を押し立ててじりじり進むように指示した。


 しかし、信広を大声で罵倒している忠高の耳には、後方の忠俊の叱声が届いていないようだ。いくら呼びかけても退かない。あのままでは織田方に狙い撃ちされてしまうだろう。


「信広ッ! この卑怯者め! 戻って来て俺と戦え!」


「本多殿、本多殿。単騎で戦ってはなりませぬ。大久保殿の言葉が聞こえなかったのですか。貴殿も麾下きかの兵に矢盾を押し出させ、連携して戦うのです」


 一人の猛将がそうわめきながら駆け寄り、槍を一閃、横から飛来した矢から忠高を守った。忠高は「おう、榊原さかきばら藤兵衛とうべえ。助かったぞ」とその猛将の名を呼ぶ。


「大久保殿は『これは敵方の罠だ』と申されている。我らもいささか血気にはやりすぎましたな。後ろを振り向いても、友軍の今川勢は我々に続いて城内に突入して来る気配が無い。三河兵を使い捨てにするつもりですぞ、奴らは」


「フン。雪斎せっさい坊主の魂胆は最初から分かっていたことだ。今川のことなど構うな、構うな。この先に死が待っていようとも、俺たちは仲間のしかばねを踏み越えてでも織田信広を捕えるだけじゃ。織田と今川の弱兵たちに三河士魂の壮絶さを見せてやるわい!」


「あっ、本多殿。一人で前に出過ぎだと申しているではありませんか。……やむを得ぬな。同道つかまつろう」


 城方の矢の勢いが緩まった一瞬の隙を突き、忠高は三の丸めがけて突進した。主人を死なせてなるものか、と本多隊の兵たちが慌てて後に続く。榊原藤兵衛の部隊も進軍し、本多隊を援助した。


 半刻(約一時間)後、三の丸は忠高の烈火のごとき猛攻によって陥落した。




            *   *   *




 三の丸落つの報は、本丸で指揮を執っている安房守あわのかみ秀俊ひでとしの元にただちにもたらされた。


「さすがは三河の荒武者たちじゃ。だが、この程度は想定の範囲内。慌てる必要は無い。二の丸も落とさせてやれ。勢いに乗じた猪どもが本丸に攻め込んで来たところを見計らい、こちらも勝負に出る。おとりの信広兄上が敵方に討たれぬようにだけ気をつけろ。我が兄を絶対に死なせてはならん」


 利口の人と渾名あだなされているだけのことはあって、安房守は城の重要拠点が陥落しても落ち着き払っている。城内の各隊に的確に指示を与えていた。


「あ、安房守様! 城を遠巻きにしていた駿河・遠江の軍勢が動き出しました! 大手門、搦手からめて、北口、南口の各所から攻め込んで来ます!」


「……ふむ。様子見をしていた今川軍も、岡崎衆(松平家の武士たち)が三の丸を落としたのを見て、ついに攻勢に出たか。とはいえ今川と松平は手を結んだばかりで一枚岩ではあるまい。朝比奈あさひな岡部おかべなど今川の将に我が計略の邪魔はさせぬ」


 安房守はそう呟くと、「前嶋まえじま伝次郎でんじろう」と城中随一の弓の名手を呼んだ。そばに控えていた前嶋伝次郎はハハッとかしこまる。


「三河兵の勢い、凄まじいものがある。二の丸もすぐに落とすであろう。そなたの出番が迫っておるゆえ、急いで配置につけ。岡崎衆が本丸近くに押し寄せて来たら、本多忠高なる勇将を射殺すのじゃ」


「承って候」


「目印は扇の馬印ぞ。しそこねるな」


御意ぎょい。では、行って参りまする」


 伝次郎は一礼し、手勢を率いて本丸櫓門やぐらもんへと向かった。




            *   *   *




 一方、その頃、囮役の信広はというと――相変わらず死に物狂いで遁走とんそうを続けていた。


 息切れしてちょっと立ち止まろうとすれば、本多忠高の大身槍が襲って来るのである。たまったものではない。猛獣に噛み殺されてなるものか、と必死の思いで逃げるしかなかった。これが虚崩そらくずれ(負けたふりをして逃げること)の計略であることなど、すっかり忘れている。


 城内の各要所に設けられた櫓では、織田の弓兵たちが手持ちの矢が尽きるのを恐れぬ勢いで敵兵に射かけ続けていた。

 三河の猪武者たちは、これは大将の信広の逃走を助けるための執拗な矢嵐だと思っているが、実はそうではない。城方は、先頭を行く本多忠高の部隊と他の三河武士たちを分断するために、矢の雨を降らせていたのである。これもまた安房守の指示だった。狙い通り、忠高はどんどん前へと進み、大久保忠俊らの隊は飛矢の濁流にはばまれて進軍が鈍りつつある。


 忠俊が再度、「忠高! 歩みを止めよ! 命を捨てることだけが勇気ではないのだぞ!」と呼びかけたが、忠高は振り返らない。彼はこの戦場で幼君・竹千代たけちよのために戦い、死ぬと決意したのだ。頑固者の三河武士は一度決めたことを覆さぬ。信広さえ捕縛できれば後はどうなってもいいと思い定め、あともう少しで手が届きそうな敵大将の背中をひたすら追った。


「織田信広! おぬしはそれでも男か! 尾張の虎の息子なのか! 弱虫め、戻って来て俺と――」


「だ、黙れ! 三河の田舎侍めが!」


 さんざん罵倒されて、さすがの信広も頭に来たのだろう。半ばヤケクソになり、少しぐらい反撃してやろうと思った。


 馬を疾駆させたまま素早く矢をつがえると、腰を大きくひねって振り向く。そして、「こにゃにゃろう!」と間抜けな叫び声とともにビュッと一矢放った。


「ま、まさか押しもじりだと⁉」


 忠高は驚愕で目を大きく見開く。その直後、信広の矢は忠高の愛馬に命中し、どうっとたおれた。忠高も真っ逆さまに地面に落ち、赤々とした血を吐く。


 押し捩り――騎乗したまま後方射撃をする高等技である。古代パルティア王国の騎兵も似たような技を得意としていて、安息式射法パルティアンショットといった。こんな源平合戦や太平記の武者のごとき高度な技を信広がやってのけることができたのは、もちろんまぐれだった。

 たしかにまぐれではあるのだが、彼はそういうまぐれを引き出して実力以上の技量を発揮してしまうことがまれにある。まぐれの天才と言っていい。これもまた一つの将才なのだろう。


「や、やったか⁉」


 信広は満面の笑みで歓喜の声を上げた。しかし、その顔は次の瞬間には真っ青になっていた。


「ふ、フフフ……。少しはやるではないか。それでこそ織田信秀の長子だ」


「げげぇっ! こいつ、化け物か⁉」


 忠高は口から血を流しつつもすぐに立ち上がり、しっかりとした足取りで信広を再び追いかけ始めたのである。信広は「あ、あばばばば!」と狼狽うろたえながら馬腹を蹴り、逃走を再開した。


「二の丸に逃げ込んでも無駄だ! そこも落としてやる! 織田の弱兵どもめ、俺を殺せる者がいれば前に出ろッ!」


 鬼気迫る忠高の槍は猛威を振るい、遅れて駆けつけた榊原藤兵衛も奮迅、瞬く間に二の丸を突破した。


 本丸まで追いつめれば、信広に逃げ道はもうない。あともう一歩である。忠高は忠俊の三度目の制止の声を振り切り、暴虎ぼうこ馮河ひょうが、敵地最奥へと突撃していった。


「これはいかん。本多殿は死へと突き進んでいる。彼はここで死んでいい武将ではない。それがしが助けねば」


 忠高の猪突猛進にただ一人ついて行ける榊原藤兵衛が、その後を追う。


 本多・榊原両将の部隊は、かくして安房守の仕掛けた罠の中に入ったのだった。








<榊原藤兵衛について>


この安祥城をめぐる戦いで岡崎衆側に榊原藤兵衛という侍が参戦していたようですが、彼の詳細は不明です。

三河武士の榊原氏は、このころ松平家重臣・酒井忠尚の配下で、松平家にとっては陪臣(家来の家来)だったようです。榊原藤兵衛も酒井忠尚組下の武士だったのかも知れません。

後年、この榊原一族から有名な榊原康政が登場し、徳川四天王へとのぼりつめていくことになります。








※次回の更新は、5月30日(日)午後8時台の予定です。

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