大きな賭け

 松平まつだいら広忠ひろただの死からわずか十三日後、三月十九日。

 今川の大軍勢は、安祥あんじょう城を包囲していた。


 大手門を攻める一番組は三河岡崎衆(松平家臣団)。

 二番組は副大将の朝比奈あさひな泰能やすよし、三番組は総大将の太原たいげん雪斎せっさい率いる今川本隊。


 城の裏口にあたる搦手からめてには、鵜殿うどの長持ながもち岡部おかべ元信もとのぶの部隊が回り込んでいる。

 南口は三浦みうら義就よしなり葛山かずらやま長嘉ながよしがあたり、北口は飯尾いのお連龍つらたつがおさえていた。


 これら今川家の諸将のうち、雪斎・朝比奈・岡部については、すでに物語に何度も登場しているため説明を省く。


 鵜殿長持は、近年異説があるものの、今川義元の妹婿むことされている人物である。娘か孫娘が西郡局にしのこおりのつぼねといい、後年、徳川家康の側室となる。


 三浦義就と葛山長嘉は、両将とも名門の出だが、共に桶狭間合戦でたおれる運命にある。


 飯尾連龍に関しては、本人よりも妻のお田鶴たづの方(別名は椿姫、亀姫。鵜殿長持の娘)が有名かも知れない。義元戦死後、連龍は氏真うじざね(義元の嫡男)に裏切りの嫌疑をかけられ、最後には謀殺された。伝説によれば、お田鶴の方は亡き夫の城を引き継ぎ、徳川家康と壮絶な攻防戦を繰り広げたという。(これにも異説あり)


 彼らの多くが桶狭間合戦以後に没落してゆく定めにあるわけだが、その運命の岐路に立つにはまだ十一年の歳月がある。今川家の破滅の未来を予想だにしていない猛将・智将らは、「今こそ織田家を三河国から駆逐する好機なり」と各々気勢を上げていた。




「ええい……何とも歯がゆい。雪斎殿は『まずは岡崎衆に突撃させ、我ら今川勢は信広が逃げぬように遠巻きに城を包囲する』と仰せだが……。三河の猪武者どもに任せっきりでは、我らが功名を上げる機会を失するではないか」


 搦手門の織田兵と対峙中の鵜殿長持が、苛立った口調で不平不満を言い、馬上からつばを吐いた。今朝早くから強風が吹き始め、目や口に砂埃すなぼこりがしきりに入る。長持はざらざらとした舌の感触が不快で、さっきから何度も唾液だえきを吐き出していた。


 共に搦手門を担当する岡部元信は、砂混じりの風を顔に浴びても平気なのか、憎々しいほど泰然としている。「鵜殿殿。そろそろ開戦の刻限でござる。愚痴をもらすのは後にしてくだされ。油断は大敵じゃ」と、素っ気ない態度で長持をたしなめた。


 元信は根っからの軍人気質ゆえ、戦場では戦争のことしか考えない。同僚の愚痴など聞く耳持たなかった。今は、


(この強風、大手表から攻め込む岡崎衆にとっては向かい風じゃ。織田方の弓兵がこの風を上手く利用すれば、三河武士たちに多くの死者が出るな)


 と、天候気象がこの城攻めにどう影響するか分析することで忙しかった。


「チッ。相変わらず愛想の悪い奴め。このわしが油断などするものか。見ろ、我が槍隊の勇ましい顔つきを。金で雇ったならず者たちも、儂の指揮にかかれば屈強な精鋭兵じゃ」


「……それがしはどうにもあの流れ者たちが信用できませんな。小豆坂あずきざか合戦のおりも、味方が不利になった途端に武器を放り投げて逃散を開始しましたゆえ」


 そう言いつつ、元信は無言で采配をサッと振る。元信子飼いの弓兵たちが音を立てずに動き始め、一切の殺気を出さぬまま弓を構えた。その狙いの先には、自軍の傭兵たちがいる。


「お、おい。おぬし、何をしている」


「あの者たちは味方の武将に戦死者が出れば、たちまち逃げ出す疑いがありますからな。先陣の奴らが勝手に逃げ始めたら、即座に射殺します。軍の統率に悪影響が出る前に」


 元信は冷徹な眼光まなざしを長持に向けながら、恐ろしいことを告げた。油断をしないとはこういうことだ、と暗に言っているのである。


「な……なるほどな。好きにすればよい」


 長持はどもりながらそう言い、砂の混じった唾をゴクリと呑み込んだ。元信の常軌を逸した闘気に気圧され、若干尿が漏れている。


(個人的に気に食わん奴だが……義元様が頼りになさっているのもうなずける。この男は今川に欠かせぬ闘将じゃ)




            *   *   *




 太陽が中天にさしかかる少し前――戦端が、とうとう開かれた。


 軍始いくさはじめの矢を放ったのは、安祥城主の織田信広である。


 今川方は、兵数に劣る信広軍は甲羅に引き籠る亀のごとく城から打って出て来ぬであろうと予測していたが、意外なことに彼は大手門を開け放って出撃して来たのだった。


「ややっ。小勢のくせして敵がのこのこと出て来おったぞ」


「織田三郎五郎さぶろうごろう信広、見参ッ‼ 三河の裏切り者どもめ、我が矢を喰らうがいい‼」


 怒号一声、驚く岡崎衆めがけ、信広はぶうんと一矢放った。


 追い風に乗った飛矢の勢いは凄まじく、『白地胴黒に本文字』の軍旗を掲げていた三河兵の左目をたちまち射貫いた。軍旗が倒れ、兵もどうっとたおれる。


 おのが軍旗を倒された本多ほんだ平八郎へいはちろう忠高ただたかが、


「やあ、おぬしが信秀の庶子かッ」


 と、大音声だいおんじょうとともに前へ躍り出た。


 松平家宿将の大久保おおくぼ忠俊ただとしが「あっ、待て。矢に警戒しろ」と呼びかけたが、遅かった。信広麾下きかの兵たちは、待ってました、とばかりに矢を一斉に放った。


「ちょこざいな! こんなひょろひょろ矢が何だというのだ!」


 忠高はたった一人で雪斎の本陣に殴り込むような無鉄砲者である。眼前で湧き起こった矢の雨程度にひるむはずがない。馬の速度を全く緩めずに突進、大身槍をびゅうびゅうと大旋回させて矢を弾き、あっという間に信広隊に肉薄した。


「御大将を守れッ!」


 信広隊の足軽たちが、遮二無二しゃにむに槍を突き出す。


 忠高はニヤリと笑い、槍を一閃、二閃。己に向かって繰り出された刃を力任せにはね返し、次の瞬間には三、四人を早業で突き殺した。その猛々しい戦いぶりを目の当たりにした信広は、「こいつ……恐ろしく強い!」と思わず叫んでいた。


「我こそは本多平八郎忠高ッ。こたびの戦で一番手柄を上げれば、この城にて散華さんげした父・忠豊ただとよの無念も晴れるであろう。織田信広よ、いざ尋常に勝負せよ!」


「お、おお。望むところじゃ」


 一騎打ちに応じた信広は、愛刀をさんと抜き放つ。馬を疾駆させ、渾身の一揮ひとふりを忠高にお見舞いした。


 忠高はそれを悠々と受け止め、逆襲の突きを放つ。「うひゃぁ⁉」と悲鳴を上げながらも信広はぎりぎり回避し、体を傾けた態勢から槍の柄を叩き斬ろうとした。しかし、忠高はそうくることを見越していたのか、槍をサッと素早く引っ込めた。


 両雄、馬を並走させ、刀と槍を舞わせること数合。信広が明らかにおされている。これは早々に勝負がつくであろう、と戦いを見守る三河兵たちは思った。だが――。


「た、退却じゃぁ!」


 信広がそう叫んだ直後、織田兵が再び矢を放った。狙撃を得意とする兵たちを揃えていたため狙いは正確で、密着して戦っていた信広には一本も当たらず、忠高の兜や鎧の袖、籠手こてかすめた。


 突然の威嚇射撃にさすがの忠高も驚き、攻撃の手が一瞬緩む。その隙を逃さず、信広は馬首を返して忠高から離脱、手勢を引き連れて脱兎のごとく城内へ逃げ込んだ。


「あっ、まだ戦いは始まったばかりだというのに逃げる気か。卑怯なり! 信広よ、返せ返せッ!」


 信広隊の兵が全て城内に入ると、大手門がぎぎぎぃぃ……と重い音を響かせながら閉じ始めた。せっかく開いた門を閉じさせてなるものか、と忠高はわめきつつ馬腹を蹴る。


 猛然と敵城へ乗り込んで行く大将の勇姿を見て、本多隊の兵たちも「主に遅れてはならじ」と気勢を上げた。扇の馬印と軍旗を高々と掲げ、大手門へと殺到していく。


「忠高殿が城に一番乗りしたぞ。敵は弱い。我らも門が閉まる前に突撃し、力を合わせて信広を捕えよう」


 血気盛んな三河武士たちが、異口同音にそう吠え、本多隊の後に続く。目を血走らせ、怒号を上げながら安祥城に討ち入る彼ら三河侍の姿は、たけり狂う狼の群れそのものであった。


「敵の逃げ方が不自然だ……。これは罠やも知れぬぞ」


 若武者たちは功名を成さんとはやっているが、五十一歳の大久保忠俊はさすが場数を踏んでいるだけあって冷静である。わざわざ打って出て来たくせにろくに戦わぬ内に退却するのは怪しい、これは誘っているな、と直感でそう気づいていた。


 だが、敵側に罠があると分かっていても、彼ら三河武士には引くに引けぬ理由がある。信広を捕獲せねば、人質交換で幼君・竹千代たけちよを取り戻すという計画が実行できないからだ。目の前に獲物がいるというのに、むざむざと取り逃がすことなど有り得ぬ話だ。


「御家のため、あえて虎の尾を踏むしか道は無いようじゃ。儂も行くとするか。……大久保忠俊、参るッ!」


 こうして、開戦早々に城内で大乱戦が始まった。


 信広は逃げに逃げている。忠高ら三河武士たちは城の四方八方から飛んで来る矢の嵐をくぐり抜け、猛追している。


 城内の兵の指揮を兄・信広から一任されている織田安房守あわのかみ秀俊ひでとしは、本丸からそんな両者の凄まじい追いかけっこを凝視みつめていた。


「兄上の背後に食らいつくあの猛将は――扇の馬印と軍旗から見て、松平広忠の寵臣であったという本多忠高か。格好の標的だな。……者共ものども、狙うのはあの将だ。奴を城の奥深くまで誘い込み、討ち取るのじゃ。早急に城内の各隊にそう伝えよ」


 信広が先に捕えられるか、安房守の罠が先に三河武士たちの息の根を止めるか……。敵味方がお互いの思惑を知らぬまま、両軍は大きな賭けに出ていたのであった。

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