急報来たる

「……信長よ、そなたは聞いておるか。三河の妙な噂を」


 尾張那古野なごや城(信長の居城)の南、萬松寺ばんしょうじ


 この寺院の一室で、信秀と信長は茶を飲んでいた。久しぶりの親子水入らず……といった和やかな雰囲気ではなく、室内に漂う空気は冷え冷えするほど張り詰めている。


「噂、ですか……」


 父の問いかけに対して信長はそう呟いたきり、しばし黙り込んだ。その表情はとても険しい。


 庭を挟んだ向かいの部屋では、寺の住職の大雲だいうん永瑞えいずい(信秀の伯父。信長の大伯父)が竹千代たけちよに『論語』を読誦どくしょうさせている。


 竹千代は、尾張に人質として来た当初、熱田あつたの加藤家に預けられていたが、今川の隠密による誘拐未遂騒動が起きたこともあり、織田家の菩提寺ぼだいじである萬松寺に身柄を移されていた。竹千代の保護者的立場になった大雲は、



 ――いくら人質とはいえ、竹千代は将来、松平家の当主となる身じゃ。子供を預かっているからには、立派な武将となるように織田家が責任を持って教育してやらねばならぬ。



 そう言い出し、竹千代に手ずから学問を教えていたのである。


 ただし、竹千代は偏屈な子供だ。幼いと思ってめてかかると、大人も顔が真っ青になるような屁理屈をこねまくる。大雲に対しても、最初は生意気な口を利いてずいぶんと反発していた。


 普通の寺小屋の先生だったら、この問題児にすぐに音を上げていたことだろう。しかし、老住職は、信秀・信長父子を含めた癖の強い織田家の子供たちに学問を教えてきた豪腕教師である。ひねくれた子供をしつけることぐらいわけがない。――現代日本ならテレビのニュースで大問題になりかねないが――小さな体が庭まで吹っ飛ぶほど蹴り飛ばすこと数回、竹千代は大人しく講義を受けるようになっていた。


 この八歳児は、生来、弱肉強食の力関係を鋭敏に察知する能力が高い。(こいつに逆らったらまずい)とか(こいつなら、こっちが強気に出たら従わせられる)と注意深く観察し、日々行動している。だから、自分が「絶対に勝てない」と感じた信長や大雲和尚には従順に接し、彼らに取り入って何とか人質生活を無事に過ごそうとしていたのだった。実に嫌な子供である。


 だが、信長は――。


(こいつは可哀想な子供だ。まだ幼いのに父とも母とも会えぬのだ。両親や兄弟と離されて育った俺には、竹千代の孤独が分かる)


 と、思っているようである。


 この少年城主は、ひとたび己のふところに入った者には強い愛憐あいれんの情を抱く。人質として織田家の保護下にある竹千代は、彼にとって哀れを誘う存在であり、守ってやらねばならぬ存在だった。この二年ほど、信長は竹千代を我が弟のように可愛がっている。


 そして、だからこそ、「三河の妙な噂を知っているか」と信秀に問われ、表情を強張らせたのである。その妙な噂とは、竹千代に深く関係するものだった。



 ――竹千代の父である松平まつだいら広忠ひろただが、昨年、家来に襲われて深手を負ったらしい。



 そんな風説が尾張国に流れて来ていた。信長はつい今朝知った。信秀は昨夜知ったらしい。


「広忠が刺されたのが昨年のこととなると……。それが命に関わる傷であった場合、すでに死んでいる可能性があるのではないでしょうか」


「ああ。これはまずい。知るのがいささか遅すぎた。三河国は今頃どうなっているのやら……」


 信秀は、今川義元がこの情報を二か月も前に入手していることも、広忠がすでにこの世の人ではないことも、まだ知らない。だが、昨年の秋か冬に起きたらしい事件を年が明けた三月になってようやく耳にしたのは、あまりにも情報収集を怠りすぎていたと言っていい。いくら清須きよす衆との和平交渉に気を取られていたとはいえ、これは信秀の失態だ。


 失態といえば、三河安祥あんじょう城を守っている信広のぶひろ(信秀の庶子)こそ、松平家の異変をいち早く察知して信秀に報告するべきだったのだが……あの薄ぼんやりとした長男には、残念ながら多くを期待はできないだろう。


「松平家は我が織田の傘下にある。当主が死んだのならば、松平家の家臣が速やかに一報するのが筋だ。何の連絡もないということは、広忠はまだ生きているか。それとも――」


「今川家に取り込まれてしまっているか、ですな」


「だとしたら一大事じゃ。せっかく従えた三河の諸城を失いかねない。秀敏ひでとし叔父上が忍びを使って事実の確認を急いでくれているが……できることなら広忠には生きていて欲しい。国外に目を向けているゆとりのない今、松平家で変事があっては大いに困る」


 信秀は何度も、困る、困るのだ……と呟き、茶を飲み干す。苦悩が染み込んだその横顔は、信長が心配になるほど血色が悪かった。


 近頃の信秀には、憂慮すべき問題が多すぎる。

 清須衆の裏切りもそうだが、これまで手を携えて尾張国を守ってきた主君達勝みちかつの病状も気がかりである。信長が清須城に送り込んだ忍び(滝川一益)の報告によると、達勝は発病した当初意識が無かったそうだが、その後どうなったのか分からない。守護代家の家宰・坂井さかい大膳だいぜんが清須城の警備を厳重にして、城内の情報が絶対に漏れぬようにしているからである。


 もしも達勝が病死すれば、信秀は、尾張の武士の統率権をゆだねてくれていた主君を失うことになる。清須衆は反信秀派の首魁しゅかいである坂井大膳の掌中におさまり、以降は信秀の敵となることは目に見えている。想像しただけでも恐ろしい事態だ。


(広忠の阿呆め……。こんなややこしい時に、家来に刺されるな)


 信秀は、体中の血が凍えるような恐怖と焦燥感から、生死すら定かでない三河武士団の棟梁を心中罵るのであった。


「父上。大丈夫ですか。茶碗を持つ手が震えていますが……」


 父を案じ、信長が遠慮ぎみにそうたずねる。

 信秀は「大事ない……」とかすれた声で言い、覇気を失った老虎のごとく低い唸り声を上げて立ち上がった。その暗鬱な眼差しは、『論語』を読む竹千代をとらえている。


「……俺は古渡ふるわたり城(信秀の居城)に戻る。信長よ、しばらく竹千代の身辺から目を離すな。広忠が死んでいたら、松平の家臣どもが竹千代を岡崎城に連れ戻すためにこの那古野へ忍び入って来るやも知れぬからな。可哀想だが、寺から外へ出さぬほうがよい」


「ハハッ」


 信長が頭を下げると、信秀はそのまま部屋から出て行こうとした。


 しかし、途中でツッと止まり、後ろ歩みで引き返して来た。


「おい、信長」


「何でしょう、父上」


「そういえば、『父上にお願いがあるのでお会いしたい』と数日前にそなたがふみを寄越したから、今日ここでこうして会ったのだった。忘れるところであったわ。……そなたの願いとは何じゃ。遠慮せずに何でも申せ」


「それは……いいえ。また別の機会に話します。今はそれどころではありませんから」


 父の問いかけに、信長は珍しく言葉を濁しながら答える。


 生駒いこま家のかえでを妻にめとりたい、と願い出るつもりだったが、今の信秀の憔悴しょうすいした顔を見ると、とてもではないがそんな色恋の話を言い出せる雰囲気ではなかった。


 信秀はしばし怪訝けげんそうな顔で息子を見つめていたものの、彼の頭の中はいま松平広忠のことでいっぱいである。「そうか。ならば、今度ゆっくりと話を聞こう」とだけ言い残して、今度こそ部屋から去って行った。


「…………次に父上とゆっくり話せるのはいつのことやら」


 室内に独り残った信長は、ごろりと寝転がると、フーッと物憂げにため息をついた。


 ここ最近は何もかもが憂鬱だ。

 楓は恋文を送っても返事をくれないし、楓に横恋慕している織田信賢のぶかた(尾張上半国守護代・織田伊勢守いせのかみ信安のぶやすの嫡男)は今も彼女につきまとっているらしい。そして、弟のように可愛がっている竹千代を当分は厳しく監視し、この寺に軟禁せねばならない。


(俺は楓のために何ができるのだろう。松平家に異変があれば、竹千代は父上に殺されるのだろうか……。ええい! 上手くいかぬことばかりで腹が立つ!)


 イライラを発散するために駿馬で遠駆けしたい気分だが、いつ何時、三河の変事の詳細がもたらされるか分からない。那古野城から遠く離れることは、今ははばかられる。


「くそ。身動きが取れないままなのは、むしゃくしゃするな。……恒興つねおきッ。恒興はいるかッ」


 ガバッと飛び起き、信長は近くにいるはずの池田恒興を呼んだ。


 濡れ縁に座って居眠りをしていた恒興は、主の大声に驚いて覚醒し、「ハハッ。ここに」と答える。よだれを拭いていないため、口元がべとべとである。


「気晴らしにもちでもつこう。この寺に見物人をたくさん集めて、童たちに配ってやるのじゃ。もちろん竹千代やお前たちにも食わせてやる。急いで準備しろ」


「は、はあ……。信長様自ら餅を?」


「無論、俺自らつく。見ているだけではつまらんからな。町に使いにやった藤吉郎とうきちろう(後の豊臣秀吉)が帰って来たら、あいつには餅をこねる役をやらせよう」


(信長様ったら、相変わらず面白いことを思いつくなぁ)


 信長は無類のイベント好きである。仮想ダンスパーティー、大規模軍事パレード、安土城の提灯ライトアップ……。ちょっと暇になると、家臣や領民を巻き込んだ催し事を盛大にやりたがる。人を喜ばせ、もてなすのが、本質的に好きな男なのである。みんなを楽しませることが、この少年城主にとってはストレス解消になるのだ。


 かくして、この日、萬松寺に集まった那古野の民衆は、若殿(信長)がつき草履取り(藤吉郎)がこねた餅を人質の少年(竹千代)が座りしままに食うという奇妙な光景を目の当たりにすることになるのであった……。




            *   *   *




 那古野で信長が餅つき大会を催していた同時刻。


 信秀と側近数人は古渡への帰路にあった。


「の、信秀ぇー! おおーい、信秀ぇー! 一大事じゃぁー!」


 大慌てで駆けて来たと思わしき一騎の老武者の姿を前方にとらえ、信秀は「あれは秀敏叔父上」と呟きながらこまを止めた。


 秀敏には三河松平家の内情を探るように頼んでいたが……昨夜放った忍びがもう帰って来たのであろうか。さすがにちょっと早すぎる。


「信秀! 急いで城に戻り軍議を開くのじゃ! 広忠はやはり死んでおったようじゃ!」


「叔父上配下の忍びが、そう報告したのですか」


わしの忍びはまだ戻って来ておらぬ! 安祥城の信広から急報を報せる使者がたったいま来たのじゃ! 『敵軍襲来。至急、援軍を求む』と信広は申しておる!」


「て、敵軍襲来⁉ 松平が裏切って安祥城に攻めて来たとでも言うのですか⁉」


「松平だけではない! 信広の使者が申すには、今川と松平の軍勢が明後日にも総攻撃を仕掛けてくるとのことじゃ! 恐らく、広忠が急死したことで、松平は今川軍に呑み込まれてしまったのであろう! 儂たちが清須衆との和平交渉に気を取られている内にな!」


「な、な、何という……」


 何という不覚か、とうめくように言った直後、信秀は強い目眩めまいに突如襲われた。ぐらり……と体が傾き、落馬しかける。「殿!」と側近の侍が素早く馬を寄せて信秀の体を支えたため、馬上から転げ落ちることは何とか免れた。


「信秀! 気をたしかに持て! また目眩か⁉」


「し、心配いりませぬ……。急ぎ城に……戻りましょう」


 安祥城は三河国おける織田軍の最重要拠点だ。松平家が今川に寝返った今、あの城まで失ってしまえば、信秀の三河における影響力が大きく失墜することは火を見るよりも明らかだ。


「美濃攻めに失敗した挙句、三河を今川義元に取られるわけにはいかん。安祥城だけは守らねば。何としてでも……何としてでも……!」

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