岡崎城接収
天文十八年(一五四九)三月六日。その夜、一人の男が死んだ。
三河岡崎城の一室で最後の息を吐き、天へと帰ったのは、
彼は少年期に父を失い、大叔父に城を横領されて伊勢国を流浪。後に岡崎城主に返り咲くも、尾張の虎と駿河の龍の間で板挟みに陥り
「何ということだ。
豪胆な武者が揃う三河武士たちも、あまりに早すぎる主君の死には、さすがに茫然自失したようである。広忠の死からわずか数日後、駿河・遠江方面より大軍勢が三河国に侵攻してきたが、彼らはぎりぎりまで気づくことができなかった。
「し、城の東に今川の軍旗が!」
半刻(約一時間)後、岡崎城は
「貴殿らには、本日より織田方から今川方に
と、雪斎は三河武士たちに一方的な通達をした。
鞍替えしていただくと言われても、こんな乱暴な話は前代未聞である。尾張には広忠の遺児・竹千代がいるのだ。今ここで松平の家臣たちが今川方につけば、激怒した信秀は竹千代を血祭りに上げかねない。
「おのれ雪斎坊主! 我らに若君のお命と侍の義理を捨てろと申すか!」
一人の若武者が、この無茶な通達に激怒した。「雪斎を討たん」と息巻き、今川本隊が占拠している広忠の居館に大胆にもたった一人で怒鳴り込んだ。
無論、館の門を守っていた今川兵五、六人が立ちはだかり、彼を止めようとした。若武者は「退けッ」と怒号するやいなや雑兵たちを豪快に殴り飛ばし、勝手知ったる亡君の屋敷に侵入していった。
「さすがは三河武士。生きのいい荒武者が早速挨拶をしに来てくれたようだ」
奥の部屋にいた雪斎は、三河侍と兵たちの騒ぎ声を聞き、不敵な笑みを浮かべながら濡れ縁まで出て来た。
眼下の庭では、どんぐり
「勇ましき三河侍よ。貴殿の名は何と申す」
「ぬっ。おぬしは――おぬしが雪斎坊主か」
若武者は、
「人を見下ろしながら名を尋ねるな。無礼だぞ。我が名を知りたくば、そこから下りて改めて問え」
「若き武者よ。それは立場が平等な者同士に成り立つ礼儀じゃ。油断して城を乗っ取られた貴殿ら三河者は、我ら今川軍に見下される立場と相成った。身の程をわきまえて物を申されるがよい」
「ほざくなッ‼」
激昂した若武者は抜刀し、前に立ちはだかる雑兵数人の槍の柄を叩き落とした。「あっ! 雪斎様、お逃げを!」と兵たちが叫ぶ間もなく、彼は白刃を突き出して濡れ縁に立つ雪斎に踊りかかろうとする。しかし――。
カッ!
(こいつ、いつの間に……)
横から飛び込んできて雪斎を助けたのは、黄金色に輝く甲冑を身にまとった武将である。
猪の
「あまり騒がぬことだな、若造。この屋敷の一室には、おぬしの同胞である松平家の重臣数人が監禁されている。おぬしが雪斎殿に近づこうとすれば、この岡部
「くっ……。ひ、卑怯な……」
血気盛んな若武者も、仲間の命を盾にされてしまえば、さすがに大人しくなるしかない。体の深奥から噴き上げる怒りを無理やり鎮め、太刀を鞘におさめた。
「……雪斎坊主。我らを強引に従えて、何をやらせるつもりなのだ」
「貴殿たち岡崎衆には、我ら今川軍と共に出陣し、信秀の
「安祥城……」
若武者は、その城の名を聞いてわずかに顔を歪ませた。彼の父親は過日、安祥城をめぐる織田との攻防戦で命を落としている。この若者にとっては宿命的な城だった。
「あの城は……いや、どの城であっても、今川と共闘などできるものか。織田を裏切れば、信秀の掌中にある竹千代様が殺されてしまう」
「従わぬのならば、我らが人質に取っている松平家の重臣たちの首を
老人が
「心配することはない。義元様は慈悲深きお方じゃ。竹千代殿が織田に殺されず、無事に取り戻すことができる方策をすでに考えておられる」
「竹千代様を取り戻す……だと?」
「いかにも。人質の交換をすればよいのじゃ。我ら今川と貴殿ら三河武士が力を合わせて安祥城を攻め落とし、城主の織田信広を生け捕りにする。そうすれば、信広と竹千代殿の身柄を交換するように織田方に要求することができるはず」
織田信広を捕虜にし、人質交換で竹千代を今川家の手元に置く――それは、昨年の小豆坂合戦で雪斎が試みた策である。
だが、あの戦では、戦下手だったはずの信広が思った以上に奮戦し、惜しくも
(たしかに、敵大将の一子を捕虜にすれば、竹千代様を取り返すことができるやも知れぬが……。この坊主が言っていることはどうにも胡散臭い。たとえ織田から返還されても、竹千代様の身柄は岡崎城ではなく駿府の今川館に移されるのではないのか?)
さほど頭が切れるというわけではないこの若武者にも、雪斎の企みが何となく読めていたが、事ここに及んでは自分たち三河武士には選択肢が無い。雪斎が言う通り、竹千代の命を救って松平家を存続させるためには「信広捕縛作戦」に賭けるしか道は無さそうである。
「明日、正式に下知をいたす。それまでは家で具足の手入れでもしているがよろしかろう」
「……フン。勝手にしろ」
吐き捨てるようにそう言うと、若武者は
「まだ名を聞いていない。貴殿は何者じゃ」
若武者は立ち止まり、苛立たしげに顔だけ振り向いて答えた。
「
* * *
その日の夜。本多忠高の屋敷――。
「まったく……。冷や冷やさせおって。おぬしの弟が我が屋敷に駆け込んで来て『兄が雪斎を殺しに行った』と叫ぶものだから、体中から悪い汗が噴き出たぞ。無事に戻って来てくれてよかったが……」
「申し訳ござりませぬ、
忠高は、彼の身を案じて駆けつけてくれた大久保
故広忠の父・清康の代から松平家に仕えているこの老練の武将は、息子のように年が離れたこの若者に少々甘い。「もうよい、もうよい」と言いながら手を振った。
「
忠俊はそう言い、隣室にチラリと視線をやる。
隣の部屋では、忠高の妻である
眠る彼女の傍らには、忠高の弟の
「……鍋之助が生まれて大喜びしていた去年の今頃は、このような事態になるとは想像もしていませんでした。雪斎坊主の卑劣な策略と分かっていながら踊らされねばならぬとは……。悔しくて
「そうだな。だが、人間というものは一寸先の未来すら見えぬもの。ましてや今は乱世だ。油断をした我らが悪い。広忠様を乱心した
「それがしとて、
「忠高よ。気持ちは分かるが、お互いに愚痴はもうよそう。亡き主君への詫び言は、死した後に
「それだけは絶対に阻止せねばなりませぬ。この命と三河武士の誇りにかけて――」
決然とそう言うと、忠高はやにわに立ち上がって隣室に行き、文机に置いてあった紙に大胆な筆遣いで何かを書きだした。
「忠高、何をしておる」
「兄上……?」
忠俊と忠真が
と、大書してある。本多忠勝。後に徳川四天王となる勇将の名である。
「鍋之助よ。父はこたびの戦で一命を賭して戦う。死ねばそなたの元服の際に
そう息子に語りかける忠高の両眼からは、大粒の涙がこぼれ落ちているのであった。
※次回の更新は、5月16日(日)午後8時台の予定です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます