無念の撤退
物語の時間と場所を元に戻し、天文十七年(一五四八)十二月上旬。美濃の
寺の本堂に集まった織田軍の諸将は、信長の使者・
「殿。もはや美濃攻めどころではありませぬぞ。ただちに取って返し、信長様と信勝様をお救いせねば。
「我らは破滅、じゃな」
信長が忍びを使って入手した情報によると、
「くそッ! 天に代わって悪逆非道の
ダン! と床を乱暴に叩き、信秀は激昂する。烈しい怒りのあまり、片方の鼻の穴から血がどくどくと噴き出していた。
「……全軍撤退するのか、兄上。いま美濃を去れば、従えたばかりの西美濃の国人衆はことごとく斎藤方に帰参してしまうぞ」
苛立った声でそう問うたのは、信秀以上に気性が荒い信光である。敵から切り取った領土を放棄して逃げ帰るなどということがあってたまるか、と言わんばかりに血走った目で兄を睨んでいる。
今回、美濃領の奥深くまで攻め込むことができたのは、奇跡に近いのだ。この機を逃せば、利政を討つ機会は恐らく二度と訪れないだろう。それが分かっているからこそ、ここで撤退するのはあまりにも惜しすぎると信光は考えているのだ。
「信光様のおっしゃりたいことはよく理解できます。されど、もはや我らの負けは定まりしこと。
「平手殿の申される通りです。悔しいですが、急いで撤退しましょう。我らがここでこうやって言い争っている間にも、信長様の身に危険が迫っておるやも知れませぬ。そう考えると、気が気ではありません」
信長の家老である政秀と
好戦的な信光とて、信長のことを案じていないわけではない。甥の名前を出されると、ウウム……と
「決まりでござるな。負ければ潔く退く。これもまた
信秀は、いまだに怒りがおさまっていないようで、凄まじい眼光で
しかし、
単純明快を好むこの猛将は、答えが決まらぬままじっとしている時間が大嫌いなのである。万事分かりやすく、が盛重の信条だった。
憤怒のあまり我を失っていた信秀は、盛重の叱責の声でようやく正気に戻り、「……やむを得ぬ。撤退じゃ」と苦しげな吐息を吐きつつそう言った。
「尾張に帰還し、清須衆との和平交渉を急ぐ。今川義元に身内同士の争いに付け込まれる事態だけは、絶対に防がねばならぬ。
「御意ッ!」
かくして、信秀軍は美濃からの撤退を開始した。宿敵の利政を滅ぼす目前での無念の退却だった。
以降、信光が危惧した通り、信秀が利政を討つ機会がめぐってくることは二度と無かったのである。
* * *
信秀、撤退す――。
その衝撃的な情報は、瞬く間に美濃の諸侍たちの間に伝わった。
利政を見限って織田軍の傘下に入ったばかりであった西美濃の国人衆たちも大いに仰天し、
(判断を誤った……!)
と悔いた。
一方、
信秀撤退の情報が伝わった即日、「こうなることを待っていた!」とばかりに彼は迅速に動き、手勢を率いて稲葉山城を勇躍出撃した。
目指すは、一度攻略に失敗した
尾張へと逃走中の信秀軍に対する追撃は一部の部隊にだけ任せ、美濃領内にある織田方の城を潰すことに全力傾注することにしたのだ。
しかし、先日の決戦で兵の多くが死に、負傷者も
「西美濃の諸将よ、再び我が元へ集え! 大柿城をもう一度攻めるぞ! 従軍して功を成した者は、信秀の軍門に降ったことを不問に付す! 許すのは今の内だけだ、急いで我が陣営に駆けつけろ!」
そのような内容の書状を各地の美濃武士たちに送りつけたのである。来なかったら滅ぼす、という脅迫状だった。
利政の苛烈な性格を知っている西美濃の
大柿城に到着する頃には、斎藤軍は大軍勢にふくれあがり、城主の織田
「じ……人望の無い蝮が、これほど多くの美濃武将たちを従えて攻め寄せてくるとは!」
一度裏切ってしまったことへの後ろめたさ、後で待ち受けるであろう利政からの凄まじい報復……。西美濃の侍たちの胸中に渦巻くそれらの思惑や恐怖が、利政にかつてない大軍勢を率いさせていたのである。
「城の兵たちは、信秀が美濃から撤退して動揺しているはずだ。前回のように激しい抵抗をする気力などあるはずがない。
利政が虐殺命令を下すと、斎藤軍は火を吐く勢いで大柿城に攻めかかった。
あっという間に城門を打ち破り、織田兵たちの命をことごとく奪っていく。
それらおびただしい数の首級を美濃兵たちは槍の穂先に刺し、高々と掲げて
織田播磨守は「もはや、これまで」と自刃しようとしたが、美濃兵たちに捕縛されてしまい、本陣の利政の前に引きずり出された。
「おおう。そなたが播磨守か。ずいぶんと手こずらせてくれたものよな。どれほどの猛将かと思っていたが……。おやおや、意外と
「ぐっ……。大勢の者が見ている前でこのような
「楽しいさ。俺は、大っ嫌いな信秀に一泡吹かせることができて、大いに楽しい。こうして信秀の家来を辱めれば、奴は風聞でそれを知り、歯噛みして悔しがることであろう。それを想像すると、お前をもっと辱めたくなる」
利政は凶悪な笑みを浮かべてそう言い放つと、脇差を抜いて播磨守の胸をドスッと刺した。
播磨守は「があぁぁぁ‼」と悲鳴を上げる。だが、急所を上手く外しているので、すぐには死ねない。
ざくっ、ざくっ、ざくっと利政はさらに播磨守を刺した。器用に急所ぎりぎりを狙い、死ぬに死ねぬ苦しみと激痛を与えていく。
「や、やめろ……。早く殺せ。もう楽に――あぎゃぁぁぁ‼」
「ハハハハハ‼ 今回ばかりはこの俺を討てると思っていたのであろう⁉ 信秀が悪逆非道の蝮に天罰を下すと! そう期待していたのだろう!」
利政は執拗に刺し続け、返り血で朱に染まった顔を醜く
「守護代殿……。もうそろそろとどめを刺してやったほうが……」
と、恐るおそる止めようとしたが、利政がギョロリと目玉を向けてこちらを睨んだため、「ひ、ひぃっ……!」と
「く……くっくっくつ。お前たちもだ。お前たち美濃の侍も、天下の大悪人である俺が死ねばないいと心の奥で願っていたはずだ。
……お前も! お前も! そこのお前も! 悪行の報いを俺が受けるとばかり思っていたのであろう!」
「そ、そのようなことは……」
「だが、残念だったなぁ~! 斎藤利政はこうしてピンピンしておるぞ! あは……あははははッ!」
血に濡れた刃の切っ先で美濃の侍たちをひとりひとり指差し、利政は狂ったように笑い続ける。
自分たちの心の内を言い当てられた美濃武士たちは何も言い返せず、ただただ恐怖して黙り込むことしかできなかった。
信秀の脅威から脱した解放感からか、今の利政は狂う一歩手前と言っていいほどの興奮状態に陥っている。性格もいつも以上に残虐性を増しているようだ。ここで下手なことを言えば、その瞬間に叩き殺されかねない。
「信秀め! 何が『大義の剣』だ! この世に正義などあるものか! 天の罰を恐れて何を成せるというのだ! 悪行で手を汚す勇気がある者こそが乱世の英雄ぞ! 信秀の馬鹿め! 弱虫め! フハハハハ!」
宿敵を罵倒し、天を嘲笑い、ようやく溜飲が下がったのだろう。満足げに微笑むと、利政は足元に倒れている播磨守の心の臓に刃を突き立てた。だが、彼はすでに出血多量で絶命していたようである。
「これでもう……美濃国は俺の物だ。我が美濃支配の邪魔は誰にもさせぬ。信秀に与した
斎藤利政の「国盗り」は、まさにあと一歩のところまで来ている。
だが、国盗りを完遂させるためにも、信秀がもう二度と美濃に攻め込めないように手を打っておく必要があるだろう。
信秀とまともにやり合うのは、今回で懲りた。信秀退治は別の武将にやってもらいたい。かといって、坂井大膳ごとき小者が信秀を討てるはずがない。ならば――。
「駿河に使者を送るか。『娘の
~次章へとつづく~
※これにて尾張青雲編五章は終了です。
ていうか、五章ながっっっ!! まるっと一年近く五章やってたじゃん!!
次の新章の連載をスタートするころには、五章をちょっと分割してるかも???
(五章……小豆坂合戦 六章……六角定頼登場 七章……信秀美濃攻め みたいな?)
次の新章では、
「誰かさんがいきなり死んじゃってさあ大変‼ の巻」
「誰かさんが三河奪取に本腰入れてきてさあ大変‼ の巻」
「誰かさんと誰かさんが結婚してさあ大変‼ の巻」
といった内容でお送りする予定です。なお、あくまで予定は未定なので変更される可能性もあるのでご了承ください。
章の終わりごとに毎回しばしのお休みをいただいていますので、今回も新作執筆のため連載をお休みさせていただきます。(すごく可愛いヒロインを思いついたんや……!)
できたら4月ごろには連載再開したいと思っていますが、新作執筆が難航して時間がかかった時にはちょいと遅れるかも知れません。ご了承くださいm(__)m
「新作の大河ドラマ『麒麟がくる』で新しい信長像が描かれるらしいから、その前に俺が新しい信長像を書いてやんよー‼」と意気込んで連載を開始したのが、『麒麟がくる』放送前年の2019年1月。
このエピソードが公開されている時間帯に『麒麟がくる』の最終回がテレビで流れているわけですが……。
麒麟のほうの信長と光秀は本能寺に行っちゃったのに、こっちの信長と光秀はまだ少年期なのがビックリです(笑)。
『麒麟がくる』最終回! 果たして麒麟はやって来るのか!!!!!
まだまだ続く『天の道を翔る』! 本能寺どころか信秀パパまだ生きてる!!!!
新展開の次章も乞うご期待です!!! 名月明の別作品を読みながら待っててね♡
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