六章 大暗転序幕

ラブレターフロムノブナガ・前編

「うひぃ~。寒い、寒い……」


 天文十八年(一五四九)正月。

 藤吉郎とうきちろう(後の豊臣秀吉)は、凍えた両の手に息を吹きかけながら岩倉街道を歩いていた。


「年も改まったというのに、何じゃこの大雪は。まるで天が泣いておるようだ。お天道てんとう様も信秀様が美濃のまむしに負けたことをお嘆きなのじゃろうか」


 容赦なく吹きつける雪風ゆきかぜを恨めしく思い、藤吉郎は鈍色の曇天を仰ぐ。


 尾張国では、悪天候が昨年末から続いていた。例年に無い大雪は陰鬱に大地を覆い、この国の暗い未来を暗示しているかのようである。


「美濃からご帰陣なされた信秀様は、清須きよすの織田大和守やまとのかみ家(信秀の主家。尾張下半国守護代)と和睦交渉の真っ最中じゃが……。噂によると、和平の話はぜんぜんまとまっておらぬらしい。困ったにゃ~……。このまま尾張国内で身内同士の殺し合いが始まるんじゃろうか。そうなったら、俺の故郷の中村も戦火に巻き込まれちまうぞ。母ちゃんや姉ちゃん、弟や妹が心配じゃぁ~……」


「藤吉郎よ。そんなに心配ならば、一度故郷に顔を出せばいいだろう。織田家に仕官することができたのに、なぜ帰郷して母親を安心させてやらねぇんだ?」


 藤吉郎がブツブツ独り言を言っていると、同行者の隻眼せきがんの男がそう怒鳴った。別に怒っているわけではなく、猛烈な吹雪のせいで大声を出さないと会話もおぼつかないのである。


 この隻眼の男――信長軍の足軽衆に属する虎若とらわかは、藤吉郎の亡父・弥右衛門やえもんとは五年前の美濃攻めで生死を共にした仲である。弥右衛門が愛息の藤吉郎を可愛がっていたことを知っているため、信長の草履取りとなったこの猿顔の少年をいつも気にかけていた。今回も、藤吉郎が信長のお遣いで生駒いこま家の屋敷に赴くと聞きつけ、


「いくら和平交渉の最中といっても、清須衆の連中は信秀様を裏切った卑怯な奴らだ。信秀様と信安のぶやす様(織田伊勢守いせのかみ家。尾張上半国守護代。信秀の義弟)の連絡をさえぎるため、今でも街道に兵や忍びを伏せているやも知れん。危険だから俺が同行してやろう」


 と、藤吉郎が頼みもしないのに勝手について来ていたのである。


 藤吉郎ももう十三歳だ。幼い子供ではない。いくら父親の旧友とはいえ、あれこれ干渉されるのは面白くない。少年は猿顔をわずかに歪ませ、「草履取りごときで、帰れるもんか」と吐き捨てるように言った。


「俺は、義父の竹阿弥ちくあみに家を追い出された身だぎゃ。あの糞ジジイが腰を抜かすぐらいの大出世を果たすまでは、帰るに帰れんのじゃ。

 ……竹阿弥は信秀様の同朋衆どうぼうしゅう(将軍や大名に近侍して身辺の雑務や茶事、芸能を行う僧形の者)だったことを鼻にかけ、織田家の雑兵だった父ちゃんをいつも嘲笑っていた。竹阿弥だけは許せん。父ちゃんの代わりに俺があいつを見返すんじゃ」


「……う~ん、困ったなぁ。その気持ちは分からんでもないが、俺はお前を必ず見つけ出して中村に連れ帰るとお前のお袋さんに約束しちまったんだよ……」


 人がいい虎若は、交わした約束は命にかけて守らねばならなぬと思っている。しかし、藤吉郎本人が故郷に帰りたがらないので、どうしたものかと頭を抱えているのであった。


「信長様は働き者には必ず報いてくださる。褒美を気前よく下され、新たな仕事を次々と与えてくださる。恋人のかえで様にふみを届ける大事なお役目を俺のような小者にお命じになったのも、一年近く草履取りの役目を真面目に果たしてきた俺の働きに報いてくださったのだ。

 けっこうこき使われているはずなのに、俺という一個の人間をちゃんと評価をしてくださるから実に楽しい。あんなご主人様は初めてじゃ。今は信長様のために働くことで夢中だから、当分は家に帰らんぞ」


「……お前、本当に信長様のこと大好きだなぁ。いや、俺も好きだがよ。まるで恋をしているみたいじゃねぇか」


「ああ、好きじゃ好きじゃ。好き過ぎて信長様の草履をふところで温めてしまうぐらい好きじゃ。尻に敷いていたと勘違いされて蹴られたがな」


 義父への憎悪を吐露していた時は陰気でくらくなっていた藤吉郎の表情が、話題が信長のことになった途端、朝日のごとく燦々さんさんと明るく輝き出している。


 義理の父に疎まれ、転々とした奉公先では不気味な猿顔だといじめられ、藤吉郎はその人格を不当におとしめられて生き続けてきた。そのせいで、哀しいほどに自己肯定感が低い。


 そんな藤吉郎のことを生まれて初めて働いたぶんだけ正当に評価してくれたのが、織田信長という少年城主だ。信長には、己の懐に入って来た全ての者を受容し、使いこなしてやろうとする器量がある。その大きな器は、藤吉郎のように世間から爪はじきにされた者すらも拒まず、呑み込んでくれた。そのことが、藤吉郎にはたまらず嬉しいのだ。


 俺の人生は信長様と出会って真に始まったと言っていい、とさえ思っている。虎若に指摘された通り、恋い焦がれるように崇拝しているのであった。


「おっと……雪が小降りになってきたようじゃ。虎若のおっさん、今のうちに全力で走ろうぜ。楓様が、信長様の文をきっとお待ちじゃ。急いで生駒屋敷に向かわねば」


「あっ……おい! 待てよ、藤吉郎! ……ったく。小さい体に似合わず、呆れるぐらい元気な奴だぜ」




            *   *   *




 丹羽にわ小折こおり(現在の愛知県江南市)の生駒家宗いえむね邸に着いた藤吉郎と虎若は、楓への目通りをすぐに許された。


 家宗は、愛娘の楓を信長の正室にしたいと密かに願っている。美濃との争乱や尾張の内紛が相次いだせいで半年以上も信長と楓の逢瀬が途絶えていたことを案じ、ひどくやきもきしていたところであった。

 そんな折に、信長が可愛がっている猿顔の少年がひょっこり現れたのだ。信長殿は娘のことをお忘れではなかったようだ、と大いに喜んだのは言うまでもない。


「けほっ……けほっ……。藤吉郎、外は寒いでしょう。部屋にお入り」


 藤吉郎と虎若が雪降り積む庭に土下座してあいさつをすると、部屋の障子越しにか細い少女の声がかすかに聞こえてきた。


 久しぶりに耳にする楓の声音は、ずいぶんと弱々しい。楓は寒い日が続くと体調を崩しやすく、数日前から熱が下がらないそうだ。藤吉郎は病弱な少女の体を心配しつつ顔を上げた。


「俺のように醜穢しゅうわいなる者がおそばに寄れば、病中の楓様のお体がけがれてしまいます。藤吉郎めはここで十分です」


「あなたのお猿さんみたいに可愛い顔が見たいのよ。それに、離れていては会話が不便だわ。遠慮せずにお入りなさい」


「さ、されど……おそれ多いです」


 藤吉郎は、虎若が「だったら遠慮なく」と呟きながら部屋に上がろうとするのを手で制しつつ、もう一度丁重に断った。


 幼少の頃から「禍々まがまがしい猿顔のガキめ」と周囲の人間に罵られて生きてきた藤吉郎は、自分のことを本気で汚らわしい存在だと思っている。それゆえ、


(美しいお顔を拝したいが、俺が病床の楓様に近づくのはよくない。病がもっと悪くなるかも知れない)


 と自制しているのである。


 だが、生駒家の人々が藤吉郎のそんな卑屈な心の内など知るはずもない。ガラリと障子が開き、


「妹は咳をしすぎて喉を痛めている。大声で話せぬゆえ中に入れ」


 兄の生駒家長いえなががそう言った。


(なるほど、そういうことか。だったら、過剰に遠慮するのはかえってご迷惑だ……)


 さとい子供である藤吉郎は、家長のげんにすぐに納得した。離れた場所から会話をして楓の体力を無駄に削ってしまったら、藤吉郎の遠慮などただのありがた迷惑というものである。


「へへえ! では、失礼いたしまする!」


 陽気な声をわざと作ってそう返事をすると、自分に付着している穢れを払い落すように体のあちこちを叩き、部屋に上がった。楓を楽しませるため、猿がピョンピョンと飛ぶような軽い身のこなしで室内に入り込む。その動作があまりにも剽軽ひょうきんだったので、楓と乳母のおかつは声を立てて笑った。


 次に虎若も部屋に入ろうとしたが、なぜか家長に「待て」と止められてしまった。


「え? 何っすっか?」


「お前、鼻からどろどろの水が出ておるではないか。やっかいな風邪を妹にうつされたら困るゆえ、お前は遠慮しろ。台所で粥でも振る舞ってやるから」


「あ、あの。俺、美人だっていう噂の楓様のお顔を拝見したいんですが……」


「早く向こうへ行け。妹に近寄ってはならぬ」


 家長に半ば強制的につまみ出された虎若は、「解せぬ……」と呟きながら若い侍女の案内で台所がある場所へと歩いて行くのであった。








<天文十八年の日本と世界のおおまかな動向>


尾張青雲編六章いよいよ開幕です!!

(前の五章が長いので3つぐらいに分割するかもと言っていましたが、結局やめました……(^_^;))

六章では、前章の小豆坂合戦で痛み分けした今川軍が大猛攻を仕掛けて来て織田家が大ピンチになります。あと、十六歳になった信長がいよいよあのお姫様と……むふふ。


というわけで、怒濤の天文十八年(一五四九)の幕開けです(天文十七年も事件が目白押しでしたが)。この年に日本全国でどのようなことが起きていたかちょっと紹介してみると……。


・三月に大和国で筒井つつい順慶じゅんけいが誕生。(翌年に父の順昭じゅんしょうが死去。順昭と瓜二つの木阿弥もくあみという盲目の僧侶が影武者をしばらくつとめ、豪奢な暮らしをする。用済みになると元の僧侶の身分に戻り、「元の木阿弥」の故事ができる)


・八月にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。日本にキリスト教を伝える。


みたいな感じですね。ついにザビエルさんキターーー!!!(;゚∀゚)=3ハァハァ


あと、世界に目を向けると、ちょうどこの年に第二二〇代ローマ教皇パウルス三世が死去していますね。

この教皇は、ヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れる中、カトリック改革を推進。イエズス会を認可した人物として知られています。イングランド国王ヘンリ八世(王妃を離婚しようとしたことからローマ教会と対立、イギリス宗教改革を行った人)を破門し、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』を描かせたのもパウルス三世です。


他の作品の執筆もあるためちょくちょく休載を挟むかも知れませんが、皆様なにとぞこれからも応援よろしくお願いいたします!!!m(__)m

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