変態あらわる

 夕刻。信長は、那古野なごや城内に避難してきた民衆たちとともに、古渡ふるわたり方面から立ちのぼる幾筋もの黒煙を見つめていた。清須きよす衆は古渡の城下町を派手に焼いているようである。


「ああ……。大殿様(信秀)のご城下が……」


「奥方様(春の方)と信勝様は大丈夫かのぉ……」


「清須の兵たちは、この那古野にも攻めて来るのではないのか?」


 民たちは口々にそう言い合い、落ち着きがない。

 大人たちが暗い顔ばかりしているので、幼い童たちも、よく分からないながらも不安になってくるのだろう。わんわんと泣きだしている子があちこちにいた。


「案ずるな。お前たちの命は、父・信秀に代わってこの俺が守る。津島の牛頭天王ごずてんのう熱田大神あつたのおおがみの加護を受ける当家が、大義無き戦を始めた清須衆に負けるはずがない。正義は必ず勝つ」


 信長は、泣きべそをかいている一人の童女を抱き上げ、頭を撫でてやりながら民衆を励ます。

 側に控えている熱血神官・千秋せんしゅう季忠すえただも、「清須衆が攻めて来たら、この私が神々の力を借りて敵を薙ぎ払ってみせようそ! 恐れるな、皆の衆!」と薙刀を高々と掲げながら気炎をあげる。


 若殿と熱田神宮の神主の力強い言葉によって、民衆たちの心の動揺も少しはおさまったようである。老人たちは「おお、なんと頼もしや」「信長様は荒ぶる牛頭天王様の化身じゃ」「我らには熱田大神のご加護がある。ありがたや、ありがたや」と二人の少年を伏し拝んでいた。


 一方、若い町娘たちは、大人たちとは違ってめっぽう元気である。美男子の若殿様を間近に見ることができて大はしゃぎしており、


「こんな機会は滅多にないから、信長様をお助けしよう! そして、見初められてめかけになろう!」


 と言って城兵のために握り飯を作ってくれていた。お徳(信長の乳母。池田いけだ恒興つねおきの母)が彼女たちにテキパキと指示を与えているため、とても手際がいい。


「信長様! おにぎりを作ってきました! 他にも私たちにできることがあったら、何でもご命令ください!」


「きっと力になってみせます!」


「敵兵が押し寄せて来たら、どんどん石を投げてやりますから!」


 町娘たちはワイワイ言いながら、自分が握ったおにぎりを我先にと信長に差し出してくる。

 隣には千秋季忠もいるのだが、面食いの彼女たちは、武骨な顔立ちの武闘派神職には興味がないようである。全員が無視していた。町娘たちのあからさまな態度にムッとなった季忠は、


「そなたたち、私にも一つくれ! 私に握り飯をくれた女子おなごは、先着順で嫁にしてやるぞ! 私は現在、花嫁募集中なのだ!」


 そうわめきながら町娘たちを追いかけ始めた。


 彼女たちは、脂ぎった暑苦しい顔の季忠を嫌がり、


「ギャーーーッ‼ 千秋様の嫁にされるーーーッ‼」


 と叫んで信長の周りをグルグル逃げ回る。季忠が「わ、私だって熱田神宮の神主なのだぞ⁉」と訴えても、誰も聞く耳を持たない。鼻息荒く血走った目で追いかけるから余計に逃げられるのだが、この熱血神官はそのことに気づいていないようである。


(やれやれ。戦の最中とは思えないほどの緊張感の無さだな……)


 季忠と娘たちの追いかけっこを見つめながら、信長は苦笑していた。


 年寄りたちにとっては明日の生活と命がかかった一大事でも、人生の内でほんの刹那の時間しかない青春を謳歌している少女たちにとっては、美しい若君様がいるお城で戦のお手伝いをするなど夢物語のような出来事なのだろう。


 信長は、自分と同世代のこの娘たちの幸福を守ることも城主としての俺の務めなのだ……と己に言い聞かせていた。




            *   *   *




 そうやって町娘たちがキャーキャー言っていると、別の場所からも若い女たちの悲鳴が聞こえてきた。


「いや~! ふんどし一丁の変態がぁ~!」


「どなたか来てください! 曲者くせものです! ふんどし一丁の曲者です!」


「お、犯されるぅ~‼」


 台所で米を炊いている城の女中たちの声である。かなり切実な声音だった。


(清須衆が放った忍びか⁉)


 そう思った信長と季忠は、二十数名の兵を従えて台所に向かう。

 お徳率いる侍女部隊と信長親衛隊(?)の町娘たちも、「女を襲う卑劣な敵は排除せねば!」とばかりに息巻き、ぞろぞろと勝手について来た。


 台所に到着すると、池田恒興が顔面蒼白になって倒れていた。

 藤吉郎とうきちろう(後の秀吉)と女中たちが「恒興様! しっかりしてください!」と泣き喚きながら彼の体を揺すっている。どうやら、女中の悲鳴を聞いて真っ先に駆けつけたが、「ふんどし一丁の曲者」の返り討ちにあったらしい。


「恒興、どこをやられたのですか⁉」


「は……母上……。申し訳ありません。恒興はもう池田家の血を……子供を残すことができません。き……金玉を潰されてしまいました……」


 息子の惨状に驚いたお徳が恒興を抱き寄せて声をかけると、恒興は息も絶え絶えにそう答えた。


「安心せい、峰打ちじゃ。ちょっとばかり手加減してやったから、タマは潰れてねぇーよ」


 台所の奥から、酒焼けしたしゃがれ声が響く。

 信長たちが見ると、そこにはふんどし一丁の人相の悪い青年が立っていた。股間をボリボリ掻きながら、炊き立ての米を手づかみで美味そうに食べている。手は熱くないのだろうか。


「お前……。どこかで見た顔だな」


「殿様! あ、あいつです! 津島つしまの町で俺から銭を奪おうとした、あのふんどし侍です!」


 藤吉郎がふんどし一丁の男を指差し、そう喚く。


 ああなるほど、と信長も思い出した。今年の春、津島にいるお徳を迎えに行った時、町の外れで子供の藤吉郎を恐喝していた男を撃退したことがあった。あのふんどし野郎か――。


「おい、変態」


「ああーん? 誰が変態だとぉ~? いっぱしの武士もののふをつかまえて、その無礼な物言いは許さねーぞ」


「いつ会ってもふんどし一丁なのだから、これを変態と呼ばずして何と言うのだ。この間は童から銭を巻き上げるというせこい悪事を働いていたくせに、今度は大胆にも城の食べ物を盗みに忍び入ったか。どこの家に仕えていた侍かは知らぬが、おおかたはその素行の悪さが原因で追放されたのであろう。あまり情けないことばかりしていると、お前の一族の家名に泥を塗ってしまうぞ」


「チッ。うっせえーガキだなぁ~……。俺様は、戦があるっていうからこの城の主の織田信長様に仕官しようと思って城に忍び込んだんだよ。ぎゃあぎゃあうるさく言っていると、てめぇもさっきの小僧と同じようにタマを蹴って…………んん? てめぇの顔……どこかで見たような……。あ……ああーーーッ‼ あ、あの時、俺様の邪魔をした野郎じゃねぇかッ!」


 ふんどし侍――読者ももう思い出しただろうが、滝川一益――も信長の顔を見てあの夜のことを思い出したらしく、口から米粒を大量に飛ばしながらそう叫んだ。


「邪魔をしたとは人聞きが悪いな。盗人ぬすっとの魔の手から、ここにおる藤吉郎を救ったのだ。藤吉郎は、今はもう俺の家来ゆえ、手出しは許さぬぞ。俺は、身内の者を他人に傷つけられることが一番嫌いなのだ」


 信長は、藤吉郎のぼさぼさの頭をちょっと雑にポンポン叩きながら、一益を睨む。


「以前も俺の家来になりたいと申していたようだが、俺はお前のような無礼者を登用するつもりはない。斬り捨てられたくなかったら、さっさとどこかへ去れ。今の内ならば見逃してやる」


「はぁ~? まだ十代半ばぐらいの小童のくせして、なぁ~に偉そうなことを言ってやがる。俺様は、ここの城主に仕えたいんだよ! てめぇみたいなお子ちゃまなんかにだぁ~れが仕えるかってんだ!」


 一益は那古野城主・織田信長が十五歳の少年だとは知らないらしい。思いきり悪態をつき、信長の足元にペッとつばを吐いた。


「こいつ……無礼なッ!」


 憤った武闘派神職の季忠が、薙刀を振りかざして一益に襲いかかる。

 一益はニヤリと笑い、「おもしれえ! 俺様とやろうっていうのか!」と吠えながら迎え撃った。恒興にかました金玉潰しの蹴り技を放つつもりである。


「おらぁぁぁ‼ 甲賀忍法・乱れタマ潰しッ‼」


「一撃入魂‼ ちょえぇぇぇーーーッ‼」


 ぶぅぅぅん! と季忠は薙刀を一閃させる。


 一益は、その猛烈な一撃をぎりぎりでかわし、電光石火の素早さで季忠の間合いに入った。そして、季忠の股間に渾身の蹴りをお見舞いしようとした。しかし――。


「き、きゃーーー‼」


「へんたいへんたいへんたーーーい‼」


男根だんこんが‼ 男根がーッ‼」


 二人の戦いを見守っていた侍女たち、台所の女中たち、信長親衛隊の町娘たちが、一斉に大音量の悲鳴を上げ、近くにあった物という物を一益めがけてブン投げ始めた。


 野菜や果物、皿、鍋、すり鉢、杓子しゃくし(しゃもじ)……中には包丁を放り投げる者もいた。彼女たちが驚いたのも無理はない。一益の大事な部分を隠していたふんどしが、薙刀の一閃がかすったせいで裂け、ふんどし侍から全裸侍になっていたのである。こうなると、本当にただの変態だった。


「ちょ……待て待て! やめろ! 刃物は危ない! 刃物を投げるのはあぶな……げぶべぼば⁉」


 女たちの一斉攻撃にひるんだ一益は、男根を両手で隠しながら内股歩きで台所内を逃げ惑ったが、待ち構えていたお徳の強烈な正拳突きを顔面にまともに喰らって鼻から血を噴き出した。


「ぐっ……。な、何をしやがるこの年増女!」


「お黙りなさい、この不埒者ふらちもの! お仕置きです!」


 お徳は得意の組討術くみうちじゅつで一益の体をひっくり返し、馬乗りになって顔をもう一発殴る。

 一益はギャッと叫んだが、まだ反抗的な目でお徳を睨んでいる。さらに二発、三発、四発、五発……と容赦なく殴り続けた。さすがは信長を養育した乳母であり、信秀のお気に入りの側室である。やるとなったら徹底的に敵を叩くそのさまは、まさに猛虎のごとし。戦国武将に勝るとも劣らぬ乱世の女の気迫であった。


 一益の顔をたこ殴りにするお徳に加わり、その場にいた女たちも「この変態! 死ね!」と罵りながら全裸侍の顔面を蹴りまくった。


「か……顔はやめてぇぇぇ‼」


 一益は半泣きになってそう哀願しているが、女たちは残酷である。しばらくの間、集団暴行は続いた。


「ひ、ひえぇぇぇ……。女子おなごたちの凄まじい暴力には、熱田の神々もびっくりですぞぉ~……」


「の……信長様……。女子って怒るとあんなに恐いのですか……?」


 恐れおののいた季忠と恒興が信長の左右の腕にしがみつき、ぶるぶる震えている。


 その横では、藤吉郎が「俺は出世したら、絶対に暴力的じゃない可愛い嫁さんをもらうんじゃ……」と深刻そうな顔で決意を新たにしていた。


「……お徳。いい加減やめてやれ。そろそろ死ぬぞ?」


 信長がそう言って止めた頃には、一益は白目を剥いて気絶しているのであった……。

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