信勝の思惑

 那古野なごや城から古渡ふるわたり城までの距離は、一里(約三・九キロメートル)と少々。


 大雲だいうん永瑞えいずいと織田信清のぶきよが駆け馬に鞭打ち、古渡城の近くまで到着した頃には、古渡の城下町には火の手が上がっていた。どうやら清須きよす衆の攻撃が始まったようである。


「そこの坊主! 止まれ!」


 清須衆の足軽数人が、城に駆け込もうとする大雲と信清を見つけ、襲いかかって来た。


 馬上の大雲は「れ者めッ」と大喝しながら鞭をピュッとしならせ、接近してきた敵兵の顔に傷をつける。この老人は寺の住職を務める禅僧だが、勇猛な武将が多い織田弾正忠だんじょうのちゅう家の長老でもある。数人の雑兵ごとき屁でもない。


 大雲の抜山蓋世ばつざんがいせいの気迫に敵兵たちはひるみ、その隙を突いた信清によって瞬く間に斬殺されていった。


「わっ。信清、わしの法衣に血をつけるな。染みが残るではないか」


「呑気なことを言っている場合か、和尚。新手の兵が来る前に城へ入るぞ」


 顔面に返り血を浴びている信清が呆れつつそう怒鳴る。


 燃える城下町には逃げ惑う民たちの姿がほとんど見当たらない。恐らく、信勝も母の春の方(信秀の正室)あたりに助言されて、民衆を城内に避難させたのだろう。かくのごとく余裕をもって敵襲に備えることができたのは、清須衆の暴発を密告してくれた武衛ぶえい様(斯波しば義統よしむね)のおかげである。


「分かっておる。いざ参ろう」


 大雲はうなずくと、再び馬の尻に鞭打った。




            *   *   *




 古渡の城内は、避難中の民衆でごった返していた。


 春の方と信秀の側室たち十数人が陣頭指揮を執り、民たちに食事を与えている。


「春殿。元気そうで何よりじゃ」


「まあ、義伯父上。来てくださったのですね」


 敵兵の追跡を振り切って入城した大雲が春の方に声をかけると、彼女は朗らかな笑みを浮かべて老僧を歓迎した。


 ずっと病弱だった春の方だが、ここ最近は近江国へ旅行ができるぐらいには元気になってきており、信秀の正室としての務めも十分にこなすことができているようだ。留守の夫に代わって民衆を励ますその姿は、誰がどう見ても立派な北の方様である。


「春殿、もう心配はいらぬ。信長に頼まれて、この儂が信勝の補佐をしに来てやったぞ。信長の奴は、家族思いの良い子じゃ。この儂の手を取って『くれぐれも母と弟たちを頼みます』と何度も申しておったわい」


「信長が……。あの子は、別の城で暮らしている私たち家族のことをそこまで想ってくれているのですね。母として嬉しく思います。きっと、信秀様に負けない立派な大将になってくれることでしょう」


「うむ、儂もそう思うぞ。信長は大器だ。……それで、信勝はいずこじゃ。信長のふみを預かって来たゆえ、急いで渡さねばならん」


「あっ、はい。分かりました。どうぞこちらへ」


 春の方はそう言うと、民たちの面倒を側室や侍女たちに託し、大雲と信清を信勝の元へと案内した。






「大雲和尚……。このような非常のおりに何しに参られましたか」


 館の大広間で家臣たちと軍議を開いていた信勝は、大雲の顔を見て、わずかに不愉快そうな声音でそう言った。大雲が日頃から嫡男の信長に肩入れしていて、


 ――信勝は軽薄なところがあるから、あまり重く用いるべきではない。


 と、信秀に密かに忠告していることを知っているからである。


「信長の文を届けに来た。よいか、信勝。ここに書いてあることをよく読み、兄の言葉を父・信秀の言葉だと思って指示に従うのじゃ」


 信勝に歓迎されていないことは彼の雰囲気で何となく分かるが、大雲はそんなことをいちいち気になどしない豪胆な性格である。ズカズカと足音を立てて上座の信勝のところまで歩み寄ると、信長の手紙を信勝の胸に押しつけた。嫌そうな顔をしていないで早く読め、ということである。


(この糞坊主め)


 強い不快感に襲われた信勝は、大雲をギロリと睨みそうになったが、ギリギリで堪えた。

 この場には、母の春の方や家臣たちがいる。こんなつまらないことで、獰猛な獣の本性を皆の前で剥き出しにするわけにはいかない。「品行方正な若君を装って家中における自分の評判を上げ、いずれは世継ぎの兄を蹴落とす」という密かな企みを台無しにしてしまう。自重するべきだ。そう思ってスーッと深呼吸をすると、信勝は鷹揚おうようそうな笑みを取りつくろった。


「兄上が私を案じて文を下さったのですね。有り難い……」


 心にもない言葉をすらすらと言い、薄っすらと両眼に涙まで浮かべさせた。見事な演技力である。


 あの兄が何を手紙に書いて寄越したのかは、信勝にはだいたい察しがついている。父の不在中に大規模な内乱に発展したら一大事なので清須衆の兵を相手するな、と言いたいのだろう。


 目を通してみると、おおかた信勝の想像通りであった。あとは、よほどこちらの城にいる母や弟・妹たちのことを心配しているらしく、


 ――俺はお前のことを信じている。俺の代わりに家族を守ってくれ。頼んだぞ。


 と、最後の数行にくどくどと記してあった。


(フン。俺を信じているだと? 本当か嘘か知らぬが、まことに俺を信用しているのならば、信長の奴はよほどのお人好しだな。従順な弟のふりをしてきた甲斐があるというものだ)


 心の中でそう冷笑しつつ、信勝は兄の手紙を脇に置く。すかさず、大雲が「信勝よ」と強い語気で言った。


「信秀が尾張におらぬ今、世継ぎの信長が総大将、我らの主じゃ。家来であるそなたは、兄のためにこの古渡城を守り切る責務がある。ゆめゆめ信長の期待を裏切る真似はしてはならぬぞ」


「重々承知しております、大雲和尚。この勘十郎かんじゅうろう信勝、兄上と力を合わせてこの危機を乗り越えてみせまする」


 信勝は爽やかな笑顔でそう応じ、家来たちに「兄上のご指示じゃ。将兵たちに城から一歩も出るなと厳命せよ」と命令を下した。


 その言葉を聞いて肩の荷が下りたのか、大雲はフーッと大きな吐息をついた。とりあえずはこれで信勝が勝手な行動を取ることはあるまいと安堵したのである。


 一方、大雲の後ろに座している春の方は、微笑ましそうに信勝を見つめている。自分の息子たちが協力して困難にあたってくれていると思い、心頼もしく感じているのだろう。


(今回ばかりは、信長と力を合わせるしかあるまい。清須衆の挙兵を利用して信長の足を何とか引っ張れないものかと考えはしたが、いま攻められているのはこの古渡城だ。下手なことをすれば、俺が清須衆に殺されかねない。

 ……問題は、この戦いの後だ。せっかく下がりつつあった信長の評判も、清須衆の挙兵に対して迅速に対処したことで、かなり回復するであろう。今後、いかにして信長を陥れるべきか……。林美作守みまさかのかみ(林秀貞の弟)と相談して、策を練り直さねばならぬな)


 そのような企みを信勝が胸に秘めていることなど、春の方は知るよしもない。

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