内乱の危機

 坂井さかい大膳だいぜんは狡猾な悪人でありながら、ところどころ詰めが甘いところがある。


 清須きよす衆の挙兵に信秀が気づく時間を少しでも遅らせるために、方々の街道に忍びを配置して尾張・美濃間の連絡を遮断したまではよかった。

 しかし、その一方で、武衛ぶえい様・斯波しば義統よしむね(尾張守護)の動きには全く警戒していなかったのである。神輿みこしとして守護代家に担がれている力無き国主が我々の戦の邪魔はしないだろう、と軽く考えていたのだ。


 だが、義統は、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)にいいようにされている土岐とき頼芸よりのりのごとき暗愚な国主ではない。



 ――大膳ら清須衆の挙兵は、果たして守護代である達勝みちかつの命令なのだろうか。



 そんな疑心を抱き、信秀の息子たちに危機を報せるべく密使を派遣していた。


 義統の使者として信長の那古野なごや城に赴いたのは、毛利もうり新介しんすけである。


 新介はまだ少年と言っていい年齢の若者だが、その体つきはたくましく、常人離れした勇気を持っている。尾張と美濃の連絡を絶つために街道を警戒していた大膳の忍びたちに見つかり、


「そこの怪しい奴。どこの家の侍じゃ」


 そう声をかけられても、動揺せず顔色一つ変えなかった。


「怪しいのは、おぬしたちのほうだ」


 一言そう返すと、素早く抜刀。疾風の太刀さばきで瞬く間に忍び数人をたおし、道を急いだ。


 驚異的な俊足を誇る新介は、半刻(約一時間)もかからず那古野城に駆け込み、信長に「古渡ふるわたり城危うし」の報を届けた。


「解せぬ……。守護代家のお心変わりは不可解だ。まむしの調略に引っかかったのだとしても、あまりにも唐突すぎる」


 城主館に新介を迎え入れた信長は、冷たい井戸の水が入った椀を新介に手ずから渡しつつそう言って首を傾げた。


 そばには従兄弟いとこ信清のぶきよ、一番家老のはやし秀貞ひでさだ、側近の池田いけだ恒興つねおき(信長の乳兄弟)と山口やまぐち教吉のりよし鳴海なるみ城主・山口教継のりつぐの子)が控えている。

 また、信長と信清に学問の講義をするために登城していた大雲だいうん永瑞えいずい(信長の大伯父。織田家の菩提寺ぼだいじ萬松寺ばんしょうじの住職)も、険しい顔で信長と新介の会話に耳を傾けていた。


「これはあくまで武衛様(義統)の推測ですが……。こたびの守護代家の暴発、当主である達勝殿の意志ではない可能性があるようです」


「どういうことだ、新介殿」


「武衛様が挙兵について問いただすために屋敷に呼びつけても、達勝殿は姿を見せなかったのです。代わりにやって来た坂井大膳は、『主君は古渡城攻めに出陣された』などと申しましたが……」


「守護代様はご高齢で、しかもここ数年はご病弱だ。八十を超えてもピンピンしておる妖怪のごとき寛近とおちかおきな(織田寛近。犬山城主)とは違うのだ。出陣など、どう考えても無理であろう。まさか……守護代様の身に何かあって、家宰かさいである坂井大膳が勝手に兵を動かしておるのか?」


「証拠はありませんが、武衛様も信長殿と同じお考えです」


 毛利新介がそう言うと、林秀貞が「大殿(信秀)を心底憎んでおる坂井大膳ならば、やりかねませぬな」と苦々しい表情で呟いた。しかし、この古参の家老はそれ以上の発言はせず、後は黙り込んでいる。


 こういう時にこそ、一番家老の林秀貞が若き城主の信長にあれこれ献策して危機を乗り切るべきなのだが……。取り柄といえば人柄が良いことぐらいの彼には、そんな才覚は残念ながら無い。ただ困ったような顔をしているだけで、さしあたってどう動くべきかという助言すら信長にする気配が無かった。いちおう考えてはいるが、何も思いつかないのであろう。


(秀貞は……俺に何も進言してはくれぬようだ。こいつの得意分野は、その温厚な人格を活かして国内の土豪たちとの間に人脈を作ることだからな。有益な助言を期待しても詮無きことか。

 こういった非常時に助けになるのは、切れ者の平手ひらてじい古強者ふるつわもの勝介しょうすけなのだが……二人とも今は美濃攻めに加わっていていない。これは困ったな)


 何も発言しようとしない一番家老をチラリと見て、信長もだいたい察したらしい。わずかに眉をしかめ、頼りになる二番家老と四番家老がこの場にいない不運を心中嘆いた。いくら知恵が無くても、いちおうは家老職の筆頭なのだから、せめて「急ぎ城の守りを固めましょう」くらいの助言はして欲しい。


「信長よ。急ぎ城の守りを固めるのじゃ」


 秀貞の代わりにそう言ってくれたのは、大伯父の大雲だった。


「こたびの坂井大膳の暴挙、天道を恐れぬ魔の所業じゃ。いや、仮にこれが達勝様のご意志であったとしても、守護代家側にはひとかけらの正義も無い。主家といえども、ゆえ無く家来を討つのは天の道に非ず。絶対に許されることではない。……信長よ。信秀がおらぬ今はそなたが我らの総大将じゃ。織田弾正忠だんじょうのちゅう家の正義にかけて、けっして屈してはならぬぞ」


「分かっておりまする、大雲和尚」


 信長は、大雲の励ましの言葉に大きくうなずく。


 禅僧である大雲の一言一言には、心に響く深みと力強さがある。「主家ご謀反」の報せに動揺を隠せずにいた信長も、大雲の「正義は我らにあり」という言葉に鼓舞され、この危急存亡ききゅうそんぼうときにこそ肝を据えるべきだと己に言い聞かせた。


「秀貞。千秋せんしゅう季忠すえただら国内にとどまっておる味方を城に召集せよ」


「しゅ……主家である大和守家と戦うのですか? いくら非は主家にあるといっても、大殿が不在のおりに守護代様の兵と交戦におよぶのは……」


「慌てるな。俺は守護代様の兵を打ち負かすと一言も申してはおらぬ。国外の敵と大戦おおいくさをしている最中に国内で争乱が勃発すれば収拾がつかなくなることぐらい分かっておる。千秋季忠たち血の気の多いつわものたちが勝手に清須衆と交戦せぬように城中にとどめ置くのじゃ」


「は、ははぁ……」


「何をもたもたしておる! 急げ!」


「ぎ、御意ぎょい!」


 信長に怒鳴られた秀貞は、慌てて評定の間から飛び出して行った。


 大雲の叱咤激励のおかげだろう。信長はだんだんと冷静さを取り戻しつつある。


(こちらが挑発に乗りさえしなければ、大きな戦には発展しないはずだ)


 そう考え、清須衆の挙兵に対して過剰な反応をしないのが得策であると見抜いていた。


 達勝は、清須城の大半の兵を信秀に貸し与えている。だから、いま古渡城に押し寄せようとしている清須衆の兵数は大したことがないはずだ。

 一方、銭が潤沢にある信秀は、今川軍の突然の襲来を警戒して、古渡城に籠城戦ができる程度の兵力――これもそれほど多いわけではないが――をまだ残している。また、あの城の縄張りは平手政秀が行ったのだ。そう簡単に攻め落とせるような城ではない。


 清須衆がどれだけがんばっても、古渡城を攻め落とし、さらに那古野城にまで攻め寄せるような余力があるとは考えられない。美濃攻めに従軍していない近隣の豪族たちに合力を求めるかも知れないが、正義無き「主家ご謀反」に同調して古渡城攻めに加わる者はほとんどいないだろう。掲げる義が無くては、戦はできぬのだ。


 この挙兵を決断したのが達勝本人なのか坂井大膳なのかは分からないが、これはそうとう行き当たりばったりな行動と言うしかないだろう。


(古渡城の信勝が持ちこたえてくれさえすれば、清須衆の進撃はそこで止まる。敵勢は恐らくこの城には来ない。こちらは無駄に戦線を拡大させぬことだけを考え、慎重な行動を取ればよい)


 まだ天才軍略家として完全には覚醒していないものの、信長はそう直感していたのだった。


「恒興。お前は近隣の民たちを速やかに城内に避難させろ。清須衆の手勢はここには攻めて来ぬと思うが、万が一ということもある。城下町が焼かれても、国の力となる領民の命だけは必ず守らねばならぬ」


「ハハッ!」


「教吉。そなたは美濃にいる父上に使者を送ってくれ。これは斎藤利政の計略である恐れがあるゆえ、蝮が清須衆の挙兵と連動して何事か仕掛けてくるやも知れぬ。急いでお知らせするのじゃ」


「御意!」


 側近たちにテキパキと指示を下した後、信長は椀の水をがぶがぶ飲んでいた毛利新介に「新介殿」と声をかけた。


「ごくごく……けほっ、けほっ。は、はい、何でしょうか」


「古渡城へは別の使者が危機を報せてくれていると申されたな」


「はい。もり刑部丞ぎょうぶのじょう殿が向かわれておりまする」


「……うむ。ならば、信勝も前もって籠城の備えができるはずじゃ。聡明な我が弟なら、母上と弟・妹たちを守り抜いてくれるであろう」


 信長はそう言って安堵したが、大雲は何やら深刻そうな顔でウウム……と低い唸り声を上げている。織田弾正忠家の長老であるこの高僧は、家中で文武両道の若君として評判のいい信勝の人格に疑問を抱いているのである。


「……信長よ。信勝の元へ、わしを使者として遣わせ」


「え? 和尚を、ですか?」


「信勝は、兄であるそなたの意思に反する行動を取る恐れがある。『けっして城から打って出るな。余計なことはするな』と厳しく釘を刺しておかねば、あの者はそなたを陥れるためにどんな行動を起こすか分からぬぞ。後々、『兄上が何の援助もしてくれなかったせいで古渡城を奪われた』などと言葉巧みに信秀に讒言されたら、そなたの嫡男としての立場が危うくなる」


「まさか。信勝にかぎって有り得ませぬ。これは我ら一族の危機なのです。そんな愚かなことをするはずが……」


「そなたは身内に優しすぎるところがあるゆえ気づいてはおらぬであろうが、儂が見たところ信勝は相当な曲者くせものじゃ。『信秀の嫡男はうつけで、大将の器ではない。利口な弟の信勝が家督を継ぐべきだ』という噂が尾張国内に近頃流れていることを知っておるか? あれは、信勝自身が流しているのだと儂は睨んでいる。あの者は、兄のそなたを蹴落とすためならば、どんなことでもするであろう。そういう浅慮で軽薄なところが信勝にはある」


「そんなはずは……」


 そこまで言いかけて、信長はふと幼い頃のことを思い出していた。


 母親の愛を兄に盗られまいと、信長の手に狂犬のごとく噛みついてきた小さな弟。あの凶暴な目は……たしかに兄である信長を「敵」と見なしていた。


 成長した信勝は物腰柔らかな若者になり、兄の信長のことも表面上は敬ってくれている。

 しかし、あの獰猛な心は、本当に跡形無く消え去ってしまったのだろうか? 離ればなれに暮らしていて、「心を通わせ合うことができた」と思えるような兄弟の思い出は一つも無いというのに、兄を憎んでいた弟はなぜ従順になったのか……?


 考えたくはない。同じ腹から生まれた実弟が自分を陥れる機会をうかがっているなどとは考えたくはない。


 だが、大雲の読みが正しかった場合、この非常事態に兄弟で足の引っ張り合いが起きてしまう可能性がある。信長には、父の代わりに家族・家臣・領民を守る責務があるのだ。大雲の忠告に従い、信勝が余計な行動をしないように釘を刺しておくべきなのかも知れない……。


「……承知しました。弟に宛ててふみを書きますゆえ、今から古渡城に急行してください。大雲和尚がいてくだされば、母も安心することでしょう。

 信清。悪いが、大雲和尚の護衛を頼む。どこに清須衆の手の者が潜んでおるか分からぬゆえ、十分に警戒してくれ」


「フン……。俺は何を考えているのか分からない信勝の奴が大嫌いだが、まあいいだろう。来年には犬山の城主にしてもらえる約束なのだ。ここで織田弾正忠家が滅びてもらっても困るから、協力してやろう」


 従兄弟の信清はいつもながらの横柄な態度でそう言うと、大雲と共に古渡城へと向かった。


 かくして、信長は当主である父親が不在のまま、主家の大和守家と対峙することになったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る