魚鱗の陣敗れたり
稲葉
「
と、兵たちに怒鳴りちらすように下知する。
だが、稲葉隊の兵のほとんどが恐慌状態からまだ立ち直っておらず、その動きは鈍い。
織田
「定明殿! いい加減にしろ! 我が隊の戦闘の邪魔だ!」
かくして、造酒丞と定明の大迷惑な一騎打ちにより、稲葉隊の隊列は乱れに乱れたのである。たった二人でこんな芸当ができるのは、戦国広しといえども
この混乱ぶりを見た佐久間・柴田・道家の軍勢が「隙あり!」とばかりに稲葉隊に突貫してきたのは、言うまでもない。半ば崩壊しかけていた隊列はたちまち突き崩され、馬が暴れていてろくに戦えない騎馬武者たちは続々と討ち死にしていった。
「柴田勝家、見参ッ! そこの黒漆塗りの甲冑の武者は美濃の猛将・稲葉良通と見た! いざ尋常に勝負!」
「こ、
良通はそう吠え返して槍を振るったが、良通の馬もまだ冷静さを取り戻していない。暴れ馬に振り回されつつ繰り出した一撃に勢いなどあるはずがなく、勝家は
「ハハハハ。暴れている馬に乗って戦うのは大変だろう。気持ちは分かるぞ。俺もさっきまで同じ目に遭っていたからな」
「う、うるさい!」
「花も実もある稲葉良通ほどの武者がこんなところで無様な死に方をするのは不本意であろう。武士の情けだ。逃がしてやる」
勝家はそう言うと、太刀で良通の馬の尻をやあっと叩いた。
驚いた良通の馬はとうとう制御できなくなり、狂ったようにいななきながら戦場から
「こら! 止まれ! 逃げてはならぬ! も……戻るのだ!」
良通は必死にそう叫ぶが、愛馬は完全に恐慌状態に陥っている。主人を背に乗せたまま、戦場を離脱してしまった。
こうなると、指揮官を失った稲葉隊を撃破するのは、赤子の手をひねるよりも簡単である。佐久間
定明は、逃げて行く稲葉隊の兵を見ながら、「わっはっはっはっ! 意気地の無い奴らめ!」と豪快に笑う。
「どうだ、最初槍の勇者。俺の作戦通りにいっただろう」
「ああ。しかし、やはりおぬしは戦狂いだな。こんな滅茶苦茶なやり方で猛将の稲葉良通を退けるとは……」
「そう褒めるなって。斎藤軍はへとへとで、戦意が最初から低い。陣形の第一陣が突き崩されたら、もうお終いじゃ。これで明智家は織田との約束を果たしたぞ」
「うむ。礼を言う。……定明よ、おぬしはもう傷だらけじゃ。そろそろ退いて怪我の手当をしたらどう――」
「さて、もう一戦しようか‼」
「なぜそうなる⁉ 我らは反斎藤利政の同志なのだから戦う必要はあるまい! さっきまでは利政の目を
「強敵と死ぬまで殺し合うのが俺の至上の
定明は、無邪気な
「造酒丞殿、何をしている。我らはこのまま進撃するぞ」
道家
(く、くそぉ~……。拙者が先手の大将だったはずなのに、戦狂いの髭もじゃのせいで斎藤利政の首級をあげる手柄は別の武将に奪われそうだ……)
結局、造酒丞と定明の一騎打ちは日没まで続き、勝負はつかずじまいだった。
造酒丞が織田本軍に帰還した頃には、合戦はすでに終わっていた。
* * *
魚鱗の陣の第一陣・稲葉良通隊、敗走。
それは、斎藤軍にとって、刃の切っ先が欠けたに等しい痛恨事である。元から士気の低かった斎藤軍は、大いに動揺した。
第二陣の
「天下に
陣頭指揮を執る信秀は、馬上で血刃を振るい、将兵を鼓舞する。
今回の戦は勝てると半ば確信しつつある尾張武士たちの闘志は燃え上がっており、彼らの奮闘は巨岩を
「我こそは織田家嫡男・三郎信長様の四番家老、内藤勝介! 四年前に美濃の地で果てた
勝介は十文字槍を
(こ……これは敵わぬ!)
と力量の差を察して勝負を諦め、一瞬の隙をついて勝介から逃げた。そのまま馬を後方に走らせ、「退却! 退却じゃ!」と撤退の下知を出す。
一方、氏家直元は、「一段の
信秀の実弟を討ち取れば味方の士気は回復するであろう。そう意気込んで応戦したのだが、悪鬼の形相で斬りかかってくる信光は凄まじく恐ろしい。その気迫にすぐに圧倒され、数合も戦わぬうちに槍を叩き斬られてしまった。
「ぐ、ぐぬぬぅ……。こたびの織田軍の神がかり的な強さは、四年前とは明らかに違う。天は我らを見捨てたかッ!」
直元はそう叫ぶと、真っ二つになった槍を放り投げ、退却を開始した。
稲葉・安藤・氏家――後に美濃三人衆と呼ばれるようになる三人の名将がこの時点で戦線離脱した。斎藤軍の魚鱗の陣は、もはや陣形としての体を成していない。多くの美濃兵が散り散りに逃げていた。利政を守っているのは、その直属の部隊と大野郡の国人衆たちぐらいである。信秀は「勝った……!」と心の中で呟いた。
「とうとう我が正義が利政の悪逆に打ち勝つ時が来た! 弟の
※次回の更新は、12月27日(日)午後8時台の予定です。
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