魚鱗の陣敗れたり

 明智あけち定明さだあきのひと吠えで混乱に陥った稲葉いなば隊に、佐久間さくま柴田しばた道家どうけの三将が猛烈な勢いで迫りつつある。


 稲葉良通よしみち一鉄いってつ)は、暴れている愛馬を何とか御しようと手綱をさばきつつ、


者共ものども槍衾やりぶすまを築け! 弓兵は矢を射かけて敵の勢いを削ぐのじゃ!」


 と、兵たちに怒鳴りちらすように下知する。


 だが、稲葉隊の兵のほとんどが恐慌状態からまだ立ち直っておらず、その動きは鈍い。


 織田造酒丞さけのじょうと明智定明――二匹の凶暴な虎が、稲葉隊の眼前で火花散る激闘を今もなお繰り広げているのである。少しでも近づこうとするものならば造酒丞に槍で突き殺され、定明に大吼一声だいくいっせい威嚇される。血しぶき飛び交う壮絶な殺し合いをしている二匹の猛獣に歩み寄る勇気がある者は一人もなく、大将の良通に「進軍しろ」と言われてもできるはずがなかった。なるべく両猛将の槍が届く間合いに入らないようにしようと、逆に後ずさりしているほどだった。


「定明殿! いい加減にしろ! 我が隊の戦闘の邪魔だ!」


 いらついた良通はそう訴えたが、定明は闘いをやめない。微妙に押されているのか、ちょっとずつ後退して、稲葉隊の隊列に割り込んで来た。定明を追う造酒丞も、視界に入った雑兵を殺戮さつりくしながら迫って来る。兵たちの一部は、二人の死闘に巻き込まれることを嫌がり、すでに逃げ腰になっていた。


 かくして、造酒丞と定明の大迷惑な一騎打ちにより、稲葉隊の隊列は乱れに乱れたのである。たった二人でこんな芸当ができるのは、戦国広しといえども最初槍はなやりの勇者と美濃の戦狂いだけであろう。


 この混乱ぶりを見た佐久間・柴田・道家の軍勢が「隙あり!」とばかりに稲葉隊に突貫してきたのは、言うまでもない。半ば崩壊しかけていた隊列はたちまち突き崩され、馬が暴れていてろくに戦えない騎馬武者たちは続々と討ち死にしていった。


「柴田勝家、見参ッ! そこの黒漆塗りの甲冑の武者は美濃の猛将・稲葉良通と見た! いざ尋常に勝負!」


「こ、小癪こしゃくな! 我が槍を受けてみよ!」


 良通はそう吠え返して槍を振るったが、良通の馬もまだ冷静さを取り戻していない。暴れ馬に振り回されつつ繰り出した一撃に勢いなどあるはずがなく、勝家は易々やすやすとその攻撃を太刀で受け止めた。


「ハハハハ。暴れている馬に乗って戦うのは大変だろう。気持ちは分かるぞ。俺もさっきまで同じ目に遭っていたからな」


「う、うるさい!」


「花も実もある稲葉良通ほどの武者がこんなところで無様な死に方をするのは不本意であろう。武士の情けだ。逃がしてやる」


 勝家はそう言うと、太刀で良通の馬の尻をやあっと叩いた。


 驚いた良通の馬はとうとう制御できなくなり、狂ったようにいななきながら戦場から遁走とんそうを開始した。


「こら! 止まれ! 逃げてはならぬ! も……戻るのだ!」


 良通は必死にそう叫ぶが、愛馬は完全に恐慌状態に陥っている。主人を背に乗せたまま、戦場を離脱してしまった。


 こうなると、指揮官を失った稲葉隊を撃破するのは、赤子の手をひねるよりも簡単である。佐久間盛重もりしげ金砕棒かなさいぼうを振るって稲葉隊の侍数人の顔面を粉砕すると、全ての兵が武器を捨てて逃げ始めた。


 定明は、逃げて行く稲葉隊の兵を見ながら、「わっはっはっはっ! 意気地の無い奴らめ!」と豪快に笑う。


「どうだ、最初槍の勇者。俺の作戦通りにいっただろう」


「ああ。しかし、やはりおぬしは戦狂いだな。こんな滅茶苦茶なやり方で猛将の稲葉良通を退けるとは……」


「そう褒めるなって。斎藤軍はへとへとで、戦意が最初から低い。陣形の第一陣が突き崩されたら、もうお終いじゃ。これで明智家は織田との約束を果たしたぞ」


「うむ。礼を言う。……定明よ、おぬしはもう傷だらけじゃ。そろそろ退いて怪我の手当をしたらどう――」


「さて、もう一戦しようか‼」


「なぜそうなる⁉ 我らは反斎藤利政の同志なのだから戦う必要はあるまい! さっきまでは利政の目をあざむくために戦っていただけで……」


「強敵と死ぬまで殺し合うのが俺の至上のよろこび! まだ闘い足りぬのだ! 付き合え! ガハハハハ‼」


 定明は、無邪気な幼子おさなごのように目をキラキラ輝かせながら、血まみれの顔で破顔一笑。造酒丞にもう何十度目か分からない突撃をしてきた。造酒丞は「こいつは本当に手に負えない!」とわめきながら応戦する。


「造酒丞殿、何をしている。我らはこのまま進撃するぞ」


 道家尾張守おわりのかみにそう声をかけられても、状況を説明している余裕などない。「先に行ってくれ! 拙者は後から行く!」と答えるのがやっとだった。


(く、くそぉ~……。拙者が先手の大将だったはずなのに、戦狂いの髭もじゃのせいで斎藤利政の首級をあげる手柄は別の武将に奪われそうだ……)


 結局、造酒丞と定明の一騎打ちは日没まで続き、勝負はつかずじまいだった。


 造酒丞が織田本軍に帰還した頃には、合戦はすでに終わっていた。




            *   *   *




 魚鱗の陣の第一陣・稲葉良通隊、敗走。

 それは、斎藤軍にとって、刃の切っ先が欠けたに等しい痛恨事である。元から士気の低かった斎藤軍は、大いに動揺した。


 第二陣の安藤あんどう守就もりなり隊と氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)隊は、中央突破を狙う佐久間・柴田・道家の部隊と激闘を繰り広げたが、織田方の総大将である信秀が鋒矢ほうし陣で突っ込んで来ると、いっきに旗色は悪くなった。


「天下に静謐せいひつをもたらし、武家の美しき秩序を取り戻すためにも、我らはこの戦いで下剋上の鬼・斎藤利政を討たねばならぬ! 尾張の勇士たちよ、この信秀に力を貸してくれ!」


 陣頭指揮を執る信秀は、馬上で血刃を振るい、将兵を鼓舞する。


 今回の戦は勝てると半ば確信しつつある尾張武士たちの闘志は燃え上がっており、彼らの奮闘は巨岩を穿うがつかのごとき力を発揮した。中でも織田信光(信秀の弟)と内藤ないとう勝介しょうすけの槍働きは目覚ましく、二人はそれぞれ敵部隊の大将に肉薄した。


「我こそは織田家嫡男・三郎信長様の四番家老、内藤勝介! 四年前に美濃の地で果てた青山あおやま与三右衛門よそうえもん(信長の三番家老)の敵討ちじゃ! 勝負、勝負ッ!」


 勝介は十文字槍を遮二無二しゃにむに突き出し、安藤守就に襲いかかった。同じく十文字槍の使い手である守就は、勝介と二十合ほど激しく渡り合ったが、


(こ……これは敵わぬ!)


 と力量の差を察して勝負を諦め、一瞬の隙をついて勝介から逃げた。そのまま馬を後方に走らせ、「退却! 退却じゃ!」と撤退の下知を出す。


 一方、氏家直元は、「一段の武辺者ぶへんしゃ」の異名を持つ織田信光に勝負を挑まれていた。

 信秀の実弟を討ち取れば味方の士気は回復するであろう。そう意気込んで応戦したのだが、悪鬼の形相で斬りかかってくる信光は凄まじく恐ろしい。その気迫にすぐに圧倒され、数合も戦わぬうちに槍を叩き斬られてしまった。


「ぐ、ぐぬぬぅ……。こたびの織田軍の神がかり的な強さは、四年前とは明らかに違う。天は我らを見捨てたかッ!」


 直元はそう叫ぶと、真っ二つになった槍を放り投げ、退却を開始した。


 稲葉・安藤・氏家――後に美濃三人衆と呼ばれるようになる三人の名将がこの時点で戦線離脱した。斎藤軍の魚鱗の陣は、もはや陣形としての体を成していない。多くの美濃兵が散り散りに逃げていた。利政を守っているのは、その直属の部隊と大野郡の国人衆たちぐらいである。信秀は「勝った……!」と心の中で呟いた。


「とうとう我が正義が利政の悪逆に打ち勝つ時が来た! 弟の信康のぶやすや与三右衛門ら家臣たちの仇を討ち、京都への道を開かん! 者共、利政の本陣めがけて突撃じゃぁぁぁ‼」








※次回の更新は、12月27日(日)午後8時台の予定です。

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