戦狂いの軍略
魚鱗の陣にとって刃の切っ先となる第一陣を率いているのは、猛将の
斎藤軍は、開戦前から兵たちの士気が低く、脱走者が続出していた。今回の戦では精鋭の明智隊と大野郡の国人衆が頼りで、利政率いる本軍に戦う余力はほとんど無かったはずである。それにも関わらず、利政は無理を押して総攻撃に打って出たのだ。
普通ならば、悪手も悪手。「兵法を知らぬ愚将の用兵だ」と織田方は
しかし、斎藤軍が総力をあげて迫りつつあるのを遠目に見た織田
「ま、まさか、我らの企みが利政に見破られたのか⁉」
と、一様に
織田軍は、約束の刻限が来たら斎藤方の先鋒である明智隊に道を開けてもらい、利政の本陣に突撃する計画だった。敵勢が本陣に突如強襲をかけてきたら、さすがの利政もひとたまりもなかっただろう。
利政が織田方のこの策を看破し、先手を打って総攻撃を仕掛けて来たのならば、やはり美濃の
「ハッハッハッ。なぁーにをそんなに恐れておるのだ、
織田の猛将たちが動揺していると、明智定明が戦いの手をいったん止め、ニヤニヤ笑いながらそう言った。
造酒丞は、馬鹿がまた何か言い出したと思いつつ、「なぜそう考える」と問う。
「分からぬのか、最初槍の勇者。我ら明智一族と織田の内通に勘付いたのならば、利政はさっさと
そもそも、逃走兵が相次いだせいで兵力が足りぬ。あらゆる兵法書が『
(あの戦狂いの明智定明が軍略を
造酒丞は、定明がまるで軍師のように利政の用兵の
「……と、とはいえ、我らの計画が台無しになったことには変わりがない。全軍総力をあげて突撃してきた斎藤軍を撃破するためには、こちらも相応の損害を覚悟せねばならぬ」
「いやいや、織田軍はさほどの損害を出さずに勝てるさ。俺とお前が力を合わせさえすれば、信秀殿が利政の本陣へと斬り込む道を開くことができる」
「何だと? 髭もじゃよ、いったい何を考えている?」
「髭もじゃって呼ぶなと前にも言っただろう。俺の名は明智
定明は子供みたいにムスッと頬を膨らませたが、今は口喧嘩をしている場合ではない。「ちょっと耳を貸せ」と造酒丞に言い、馬上で内緒話を始めるのであった。
* * *
一方、信秀の本陣にも、「斎藤軍動く」の報がもたらされていた。
「我らの策が見破られたのならば、致し方ない。多少の犠牲は覚悟の上じゃ。真正面から迎え撃ち、利政を滅ぼしてくれん。
……
「
そばに控えていた平手
前線の造酒丞が遣わした伝令が本陣に駆け込んできたのは、ちょうどその時のことである。
「申し上げまする! 我が大将の造酒丞が申すには……」
と、伝令は造酒丞の言葉を早口で信秀に伝えた。それを聞いた信秀は「何⁉」と驚きと困惑の表情を浮かべた。
「魚鱗の陣で突っ込んで来る斎藤軍に対して、こちらも
前にも説明したが、鋒矢の陣とは、
魚鱗の陣が一点突破型の陣ならば、鋒矢の陣はさらに攻撃性を増した超一点突破型の陣形と言っていい。強烈な攻撃力を持つ分、軍勢の横腹を突かれたら、
斎藤軍が魚鱗の陣で突撃してくるのに、同じ一点突破型の陣形で迎え撃ったら、大激戦となって被害が甚大となるのは必至だ。ここは大軍であることを活かして鶴翼の陣(鶴が羽を広げたような陣形で、敵を包囲攻撃する)で戦うべきではないか。なぜ、造酒丞はそんな脳みそが筋肉でできているような乱暴な戦法を献策してきたのか……。
「いえ、これは我が大将の策ではなく、明智定明殿の策です。『俺と最初槍の勇者が魚鱗の陣を無力化させ、信秀殿が利政の本陣へ突撃する道を開く。それゆえ、一撃必殺の陣で出撃されよ』……とのことでして」
「む、むむぅ……。頭が狂っているという噂の武将にそんな献策をされても、信じていいのか分からぬ……」
信秀は大いに当惑し、眉をひそめた。
そんな信秀に「鋒矢の陣で打って出られるがよい」と背中を押したのは、
「明智定明はあれだけ無茶な戦い方をしていて、一度も負け戦を経験したことがないとの噂じゃ。恐らく、ああ見えて軍学に通じている男なのじゃろう。戦狂いなりの兵法を用いて、蝮の魚鱗の陣を破ってくれるはずじゃ」
「……ううむ。寛近の翁殿がそこまで申されるのなら、明智の策に乗ってみるとするか。それに、我が最初槍の勇者も共にいるのだ。造酒丞が戦でしくじるとは思えぬ」
最初は悩んでいた信秀だが、決断すると行動は早い。即座に「全軍、鋒矢の陣を布け!」と号令をかけ、馬上の人となっていた。
「目指すは斎藤利政の首ひとつ‼ 全軍前進せよ‼」
信秀は、大軍の先頭をきって勇躍出撃し、猛将の織田
かくして、信秀と利政の最後の直接対決がついに始まったのである。
* * *
「稲葉様! 明智隊が織田造酒丞の部隊に押され、後退を開始しました! 明智隊を猛追する造酒丞の軍勢は勢い凄まじく、こちらに迫って来ておりまする! そのすぐ後には、佐久間・柴田・道家などの部隊が続いている模様!」
「おう、最初槍の勇者が攻めて来たか! 相手にとって不足は無しじゃ。我が隊はこのまま駆け抜け、造酒丞隊と刃を交えるぞ。……進め! 進め!」
斎藤軍・魚鱗の陣の第一陣を率いる稲葉良通は、勇猛果敢にそう叫びながら愛馬を疾駆させた。
敗走してきた明智隊の兵たちとすれ違い、「
「
「おう! 承知いたした!」
良通は頼明の
「利政は明智一族の裏切りを心配していたようだが……。あれを見ろ、定明殿は
良通はそう呟くと、槍を横に
稲葉隊の槍兵たちは、勇ましい
「ちょこざいな!」
造酒丞は、電光石火の槍さばきで、襲いかかってきた敵の刃をことごとく弾き返す。稲葉隊の槍兵たちが
この間、わずか十数秒。猛将の定明を相手にしながら多勢の敵兵を軽々とあしらう余裕があるとは、さすがは最初槍の勇者である。
「ええい! 怯むな! 再度突撃せよ!」
良通の命を受け、兵たちは
だが、今度も、十数の刃は馬上から振るわれたたった
稲葉隊の二度目の攻撃を弾き返したのは、造酒丞ではない。なんと明智定明だった。
なぜ味方の救援を拒むのだ⁉ と良通は大いに困惑した。
「定明殿、
定明が敵と味方を見間違えたのかと思い、良通はそう怒鳴った。
しかし、どうやらそうではないらしい。定明は鮮血で真っ赤に染まった顔を不機嫌そうに
「最初槍の勇者は、我が好敵手。こいつは俺が討ち取る。余計な手出しは無用じゃ。一騎打ちの邪魔ゆえ、我らに近づくな」
「……む、むむ。困った戦狂い殿じゃ。そんなにもボロボロで、まだ戦うつもりなのか。この稲葉良通がしばし代わってやるゆえ、傷の手当をして来い」
いつものように戦闘狂の病を発症させ、強敵との決着をつけることに固執しているらしい。定明の狂った行動をそう解釈した良通は、そう言いながら馬腹を蹴り、両将に近づこうとした。
だが――今の定明の「狂乱」は、真から暴走しているのではなく、この男一世一代の演技だった。斎藤軍の魚鱗の陣を崩壊させるため、わざと「狂乱」を演じているのである。
定明は、すぅーっと息を吸いこむと、山河を引き裂かんばかりの
「近づくなと申しておるのじゃ‼ 首をもぎ取るぞッ‼」
雷声のごとき怒号は饗庭の地にこだまし、周辺の空気をビリビリと震わせた。
一瞬で恐怖の津波が稲葉隊の兵馬を呑み込み、近くにいた槍兵たちは、「ひ……ひえっ!」と怯えて身を縮ませた。定明の
軍馬は一頭残らず恐慌に陥り、狂ったようにいなないている。その場から逃げ出そうと暴れ出す馬が続出した。騎馬武者たちは必死に馬をなだめようとするが、定明がさらにもう一声怒号を上げると、完全に収拾がつかなくなった。良通の愛馬まで頭を振り乱して暴れ、あらぬ方向に走って行こうとする。平然と大地に立っている馬は、荒馬の
「い……いかん! これでは兵たちの指揮が執れぬ! このような状況で敵勢に攻撃されてしまったら……」
良通は大いに焦った。しかし、騎乗している馬が怯えに怯えて戦場から逃げ出そうとしているため、それを押しとどめるのでやっとだった。
この混乱を待っていたかのように佐久間・柴田・道家の部隊が稲葉隊の前に颯爽と現れたのは、その直後のことである。
さらに、佐久間たちのすぐ後方からは――織田信秀自ら率いる鋒矢陣の大軍勢が迫りつつあった。
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