蝮の首を取れ!
織田軍の
「織田
利政の耳に、尾張の虎の
利政は、「誰が一騎打ちなどするものか。そんなことは総大将のすることではない」と苛立った声でそう言い、馬首を後方にめぐらした。
「
「ハハッ。承知しました」
「お前は
「……え? わ、私がですか?」
父の非情な命令に驚き、新九郎は思わず聞き返してしまっていた。
利政は嫡男である新九郎に生存率の低い
(俺など戦場で早く死んでしまえばいいと父上は思っているのであろうか……)
絶望的な思いにとらわれたが、父の命令には逆らえない。新九郎は弱々しい声で「……分かりました」と応じた。
「息子であるお前を信用しているから
利政は、今にも泣きだしそうな顔をしている新九郎に心にもないことを言うと、全軍に退却の号令を出した。
だが、自分に退路などすでに存在しないことを利政はこの直後に知ることになる。
「
八郎大輔康門なる武者が、北の空を指差し、切羽詰った声でそう叫んだ。
「何⁉」と驚き、利政は相羽城の方角を睨む。
康門の
「信秀が別働隊を密かに送り込んで、相羽城を落としたのか⁉」
利政は
これは利政が後日知ることだが――相羽城を攻め落としたのは織田軍ではない。亡き
「
利政が呆然としている間に、織田勢がとうとう本陣深くまで斬り込んで来た。
八郎大輔康門は「守護代殿! お逃げくだされ!」と叫びながら前に飛び出し、織田勢の先頭にいる
「蝮ッ! 俺が織田信秀だッ!」
美丈夫の武将はそう叫ぶと、振り上げた宝刀を
(こいつが織田信秀か!)
長年の宿敵であったが、こうして実際に顔を合わせるのは初めてである。信秀は噂通り、男でも惚れ惚れするような美男だった。
しかし、今の利政の眼には、自分を地獄へと誘う恐ろしい悪鬼にしか見えない。一騎打ち云々と叫んでいる信秀から背を向け、一目散に逃げだした。
「返せ、返せ! 逃げるとは卑怯だぞ! 戻って来て、我が大義の剣を受けろ! これまでの悪行の数々の報いじゃ!」
「うるさい! 大義だの悪行だの綺麗ごとを申すな! おぬしが守ろうとしている正義や武家の秩序とやらにどれほどの値打ちがあるというのだ! 美しきものに価値などは無い! そんなものを馬鹿正直に有り難がっておる弱者など、この乱世では生き残れぬわ!」
利政は必死に逃げながらそう叫んだが、信秀の怒鳴り声はなおも追いかけて来る。利政が逃げる時間を稼ごうと織田勢に立ち向かった武者たちは、次々と戦死していった。
ここで初めて、利政の脳裏に、
破滅
の二文字がよぎったのである。
* * *
織田軍の度重なる突撃で斎藤軍は押しに押され、数町後方に退いた。
だが、これ以上後退しても、今回の戦いの拠点にしていた相羽城はすでに陥落している。
再び信秀に本陣に斬り込まれて首を刎ねられるか。それとも前後から挟み撃ちにされて全軍壊滅するか――どちらにしても利政の滅亡は時間の問題であるように思えた。
「前も敵、後ろも敵。これでは逃げられぬ。我が命運もここまでか……」
「何を弱気な。ここは我ら
そう言って利政を励ましたのは、
「政光。そなた、その体で戦えるのか」
「槍を振るうことはできなくても、兵の指揮ぐらいは執れますでおじゃる。……悔しいですが、我が軍は大敗。織田方に西美濃を奪われるのは必至。斎藤方についた我々国人衆は死あるのみでおじゃる。どうせ死ぬのなら、利政様を逃がして意味のある最期にしとうござるでおじゃる」
「政光……。分かった。おぬしが死んでも、おぬしの幼い息子は必ず引き立ててやるぞ」
さすがの利政も政光の真心に心が多少動かされたらしく、神妙な面持ちでそう誓った。どんな約束も平気で破るこの男も、政光に誓った言葉だけは生涯守り、彼の遺児を今井家という家臣の養子にして重用することになる。
「利政様、甲冑を交換しましょう。そのお姿は織田の将兵に見られておるゆえ、逃走中に発見されたらすぐに利政様だと分かるでおじゃる。さあさあ、早くお脱ぎくだされ。織田勢がまた攻めて来ますでおじゃる」
政光にそう急かされ、慌ただしく甲冑を交換すると、利政は稲葉山城めざして馬を走らせた。
「……政光殿。父上から
利政が本陣から姿を消してすぐ後。
政光を見捨てて戦場を離脱するのは忍びないと感じた新九郎が、そう言った。
しかし、政光はニコニコ笑いながら頭を振り、「急いでお父上の後を追いなされ」とやんわり断った。
「新九郎様は斎藤家の次期当主。あなた様のお優しい心は人として尊いが、君主たるもの人を切り捨てて生き残っていく冷徹さも必要でおじゃる。
「…………」
政光に諭されても新九郎はしばし
「政光殿、さらばッ!」
涙交じりの声で叫び、新九郎は駆け去っていく。
政光は遠ざかる新九郎の背中を眺め、これでよい、これでよい、とひとり呟いていた。
「……まあ、麿はしぶといでおじゃるからな。そう簡単には死んでやらぬでおじゃるよ。織田勢をぎりぎりまで釘付けにして、さんざん邪魔をしてやるでおじゃる」
* * *
斎藤軍はすでに総崩れである。多くの名のある
敵軍の将兵が散り散りに逃げていくのを無視して、信秀はひたすら
「二頭立波の前立が目印だ! その兜を被った者こそが斎藤利政! 他の者には構わず、利政の首だけを狙え!」と
この時、
「御大将の明智
と必死な声で叫んでいたため、「明智家の者であったか」と呟いて勝介は彼らを見逃した。雑魚には構うなという命令が出ていたし、反利政同盟の仲間である明智家の武者だったようなので、捕えるにはおよぶまいと判断したのである。
だが、そう叫んでいた武者こそが、斎藤利政その人だった。
内藤隊から十分に離れた後、利政は、
「明智隊を名乗って見逃されたということは……。頼明の老いぼれめ、やはり織田と通じていたのか」
と、苦々しげにそう呟いていた。
かくして、利政はまんまと戦場から離脱することに成功したのである。
<響庭合戦について>
小説内では、この響庭合戦が信秀と利政(道三)の最後の直接対決という位置づけです。
前にも紹介した『鷹司系図』によると、響庭合戦では八郎大輔康門・鵜飼弥八郎・筑摩弥三吉長(筑摩弥三右衛門)など大野郡の国人衆が数多討ち死に。鷹司政光はこの戦いで大功があったと記されています。
ただし、この戦場に斎藤利政がいたかどうかは明記されておらず、もしかしたら大野郡の国人衆たちが単独で信秀を迎え撃った可能性もあります。(『信長公記』には、「信秀が稲葉山城に近い茜部に攻め込んだと知った道三は大柿城の包囲を解き、慌てて稲葉山城に戻った」とあるので、信秀が大野郡に侵攻しても稲葉山城から動かなかったかも知れない……(^_^;))
ただ、「利政が響庭合戦にいなかった」というはっきりとした証拠もないし、物語的には信秀と利政のラストバトルを盛り上げたいという思惑もあったので、『天の道を翔る』では利政を響庭合戦に参戦させました(*^^*)
あと、土岐頼純の遺臣たちが信秀の助っ人として参戦したというのは完全に創作です。
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