からかい上手の六角さん

六角ろっかく殿! 六角義賢よしかた殿! 待たれよ! 何故なにゆえ、慌ただしく帰国なされる!」


 斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、新九郎しんくろう(後の斎藤義龍よしたつ)や明智あけち頼明よりあき老人、安藤あんどう守就もりなりなど十数騎の将兵を連れ、六角義賢の軍勢を追いかけた。


 六角軍の動きは素早く、利政が義賢退却の報を耳にした真夜中には、すでに大柿からかなり離れたところにいた。必死の思いで馬を走らせて追跡し、利政が義賢を呼び止めることができたのは、明け方のことである。


 馬上の義賢は、利政の呼びかけを最初無視して、鼻唄などを歌っていたが、業を煮やした利政が回り込んで行く手を塞いだため、ようやく「これはこれは、まむし殿」とあいさつをした。


「こんな朝早くから馬の遠駆けかな?」


 義賢は憎らしげにそんなことを言いながらも、利政のほうには目もくれない。暁の空をゆく数羽のからすを仰ぎ見、傲慢そうにニヤニヤ笑っている。


 利政は馬から飛び降りると、新九郎ら供の者たちとともに義賢に歩み寄りながら、


とぼけたことを申されるな。それがしは、貴殿を引きとめに参ったのじゃ」


 と、声高に言った。


「俺を引き止めると? ほほーう?」


「何が『ほほーう』じゃ。勝手に近江へ帰ってもらったら困る。こたびの戦の総大将は、この斎藤利政じゃ。援軍として参った貴殿は、我が指図に従わねばならぬ」


「そんなことぐらいは分かっておる。だから、昨日も貴殿の軍を援護して戦っておったではないか」


 義賢がせせら笑いながらそう言うと、新九郎がムッとした表情をして、「あのようなひょろひょろの矢を撃っておいて、よくもぬけぬけと……」と反論しようとした。しかし、父の利政に「お前は黙っておれ!」と叱責され、不服そうな顔をしながらも口を閉じる。


「……いったい何が不満なのだ、義賢殿。言ってくれ。こちらに非があったのなら、手をついて謝ろう。当家の侍に無礼を働いた者がいるのならば、そやつの首をねて差し出す。だから、今は……今だけは帰国しないでもらいたい。織田信秀の軍勢が稲葉山いなばやま城を襲うべく北進しているという報せがあったゆえ、我らは大柿城の包囲を解いて稲葉山城へ向かわねばならぬ。六角軍にも稲葉山城の防衛戦に加わって欲しいのじゃ。それゆえ――」


「知っておる」


 義賢は、利政の言葉をさえぎり、ピシャリとそう言った。利政はその言葉の意味が分からず、「……は?」と首を傾げる。


「知っているとは……」


「信秀の軍勢が大柿城には来ぬ、ということだ。その情報をいち早く得たからこそ、我らは帰国を決めた。おぬしが先ほど申した通り、もはや大柿城攻めどころではあるまい? 蝮殿は急いで稲葉山城に戻らねばならぬ」


「そ、その通りじゃ。それゆえ、稲葉山城で共に織田軍を迎え撃って欲しいと申しておるのだ。そこでなぜ、帰国という判断になるのじゃ」


「当たり前ではないか。我ら六角軍は、美濃守護・土岐とき頼芸よりのり殿の要請に応じて、に駆けつけた。だが、『斎藤家の居城が攻められたら共に籠城する』などという約束は一切しておらぬ。大柿城攻めが実行不能となった今、我らがこの地にとどまっている理由は消えた。だから、領国に帰るのじゃ。頼芸殿への義理は十分に果たしたからな」


「な、な、な…………」


 とんでもない屁理屈である。これまでにさんざん人をだまし討ちしてきた利政ですら、義賢の身勝手かつ滅茶苦茶な論理には、開いた口が塞がらなかった。鈍器で頭を思い切り殴られたような衝撃を受け、しばし呆然としてしまっていた。


「ではな、蝮殿」


 語るべきことは全て語ったとばかりに、義賢は駒を進めて利政の横を通り過ぎていく。


 ハッとなった利政は、


「そ……そんな馬鹿な話があるか! 戻れ! 我らと共に信秀と戦うのじゃ!」


 と怒鳴りながら振り返り、義賢に呼びかけた。


 義賢はそれに対して何の返答もしない。クックックッと笑い、左手に持っていた弓に矢を素早くつがえ、朝焼けの空めがけて弓矢を構えた。


「武運を祈っているぞ、蝮殿」


 そう言うやいなや、義賢はブゥゥンと鋭い音を響かせて矢を放つ。


 いったい何を狙って撃ったのだ――と利政は怪訝けげんに思いつつ、義賢を引き止めるべく一歩、二歩と彼に歩み寄ろうとした。


 その直後、利政のすぐ背後でドサッと大きな音がした。大地に何かが思い切り叩きつけられたようなその衝撃音にギョッと驚いた利政は、自分の真後ろを振り向く。地面には、矢が深々と突き刺さったからすの死骸があった。


 矢が放たれた時にそのまま突っ立っていたら、射落とされた烏は利政の頭上に墜落していたはずである。さすがの美濃の蝮もこれにはゾッとして、「う、うぐぐ……」とうなり声を上げていた。


 安藤守就ら美濃の侍たちも、驚きのあまり固まってしまっている。冷静に事態を見守っているのは、明智頼明老人ぐらいである。


 狼狽える利政たちがよほど面白かったのか、義賢はアハハハと哄笑こうしょうし、「さすがは蝮殿。なかなかの悪運の強さじゃな」とからかった。


「おのれ……。よくも我が父に無礼を働いてくれたな!」


 新九郎は、義賢の横暴に激怒し、我慢できずについに刀を抜いた。


 常日頃から利政にしいたげられていながら、この青年武将には、父に認められたい、愛されたいという強い願望がある。悪戯で父の命を危機にさらした義賢のことが許せなかったのだ。


「斎藤新九郎利尚としなおよ。何をそんなに怒っている。そこの蝮は、お前が思っているほど、息子であるお前のことを大事には思ってはおらぬぞ」


「うるさい、黙れ!」


 新九郎は、六尺五寸(約一九七センチ)の巨体とは思えぬほどの俊敏さで間合いをつめ、義賢に斬りかかろうとした。


 馬上の義賢は悠然とした態度のまま、迫り来る新九郎を見下している。避ける気配は一切無い。


長門守ながとのかみ


「ハハッ!」


 新九郎の刃が義賢に襲いかかろうとした瞬間、どこからともなく黒い影がさっと現れ、新九郎の一撃をはね返した。


 全身全霊を込めた憤怒の一振りを軽々と押し返され、新九郎は「な、何ッ⁉」と驚きの声を上げる。新九郎の攻撃を防いだのは、伊賀の上忍・藤林ふじばやし長門守だった。


「軽い。おぬしの刃は軽いな。織田信秀の嫡男の刃は、もっと重かったぞ」


「な、何を……」


 新九郎は何か言い返そうしたが、まばたきをした次の瞬間には、目の前で忍刀しのびがたなを構えていた忍者はかすみのごとく消えてしまっていた。


「消えた……だと? よ、妖術か?」


「アハハハ。新九郎利尚よ。これしきのことで驚いていたら、俺は殺せぬぞ。我が六角家は先ほどのような忍びを数多あまた従えておるのだからな」


 義賢はそう笑った後、チラリと頼明老人を一瞥した。頼明は他の者に気づかれないように、小さくコクリと頷く。義賢は満足したように口の端をニヤリと歪めると、馬腹を蹴った。


「さらばだ、蝮とその手下ども。無事、生き残れるとよいな」


 その捨て台詞とともに、傍若無人な六角の御曹司は兵を引き連れて去って行った。


 利政と新九郎、美濃の侍たちは、それを呆然と見送ることしかできない。


 この「六角撤退」の噂は、瞬く間に斎藤軍の全ての兵たちに伝わり、ただでさえ低下の一途をたどっていた士気はどん底に陥るのであった……。




            *   *   *




 数刻後。美濃と近江の国境付近。


 斎藤方の動きを探るために軍を小休止させていた義賢は、陣幕内に藤林長門守と伊賀崎いがのさき道順どうじゅんを呼び寄せた。


「道順。斎藤軍の様子はどうだ」


「大柿城の包囲を解き、稲葉山城への退却を開始しました。されど、我ら六角軍の撤退を知った美濃兵たちは大いに動揺しており、脱走者が後を絶たない模様です。今のところ、義賢様の思惑通りに事は進んでおります」


「よし、よし。これで、斎藤軍の力は半減したな。信秀も戦いやすいであろう」


「それから、六角軍が撤退した理由について、『利政が軍議で意見をたがえた義賢に殺意を抱き、暗殺を目論んだため、それを察知した六角勢は兵を引き上げた』という噂も周辺の町や村々に流しておりまする」


「うむ、よくやった。これで、戦線離脱した六角家を批判する者はいなくなり、逆に蝮めの評判が落ちるな」


 冷静に判断すれば、いくら利政でも、援軍の総大将を暗殺しようとするはずがない。しかし、世間には斎藤利政の「悪逆非道で、油断ならぬ謀略家」という邪悪な印象が染みついてしまっている。適当に流した風説デマでも、天下の人々は「あの蝮ならばやりかねない」と信じ込むことだろう。身から出たさびとは、まさにこのことであった。


「世間の評判というものは、まことに大事だ。時には兵数の多寡よりも重要になってくる。利政はそれを軽視しすぎたゆえ、かくのごとき事態に陥ったのじゃ。引き続き、利政の悪評を近隣の村々に流せ」


「ハハッ」


 道順は命を受けると、風のごとく義賢の前から去って行った。陣幕内には義賢と長門守の二人だけになる。


「……さて、長門守よ。お前にはたしか、刃を交えた者の器量を見抜く不思議な力があるそうだな」


「はい。己の刃と敵の刃がぶつかり、火花が散った瞬間、その者の秘めた力や運命がえることがありまする。よほどの器量の持ち主でなければ、視えませんが……」


「お前は今日、斎藤新九郎利尚と刃を交えた。蝮の後継者はどれほどの才を持ち、いかなる運命にあるか分かったか?」


「……そうでござるな。あの大熊のごとき巨漢は――」


 長門守はそこまで言うと、しばし黙し、やや考えた後に「戦国乱世に覇を唱える群雄の一人となるだけの器量はあるかと存じます」と答えた。


「振るう刃の勢いに、烈火のごとき凄まじさがありましたゆえ。されど、その一撃の重みは存外軽かった。名将として史書に名を刻むほどの大業を成せぬままたおれる宿命にあるのでしょう。そして、あともう一つ、かの者の運命で少し気になったことが……」


「気になること? 何か変わったものが視えたのか?」


「はい。新九郎利尚の刃を受けた刹那せつな、あの若武者が血濡れた刀を振りかざして父の斎藤利政と対峙している姿が視えました。あの者はいずれ父に背くことになります」


「待て。あのデカブツが利政に背くだと?」


 長門守の予言を聞き、義賢はわずかに眉をひそめる。

 新九郎は利政を愚弄した義賢に激怒し、猛然と斬りかかってきた。どう考えても、父親想いの孝行息子だ。父に対して謀反を起こすような若者には、現時点ではとても見えない。


「……新九郎が父親に背く未来があるとすれば、今ではない。今後、親子の関係が後戻りできぬほど険悪になるとしても、それは数年ほど先の話になるはずじゃ。ということは、蝮は息子に殺意を抱かれるようになるその時までは生きながらえている……ということになるではないか。そうなると、信秀は、こたびの決戦で利政を討てぬのか?」


「それは分かりませぬ。『人は未来をくつがえす力を持っている』と歩き巫女(決まった神社に属さない巫女。旅の芸人、遊女を兼ねる者もいた)からかつて聞いたことがあります。信秀が、それがしが視た未来を覆す可能性は十分にあるかと」


「そうなってくれたらよいが……。楽勝かと思っていたが、やはり蝮の悪運は侮れぬようだな。誰か利政の悪運を打ち破ることができる武将はおらぬのか」


「一人だけ、心当たりがあります。信秀の嫡男の三郎信長です。あの少年には、敵対した者を怒りの業火で焼き尽くす恐ろしさがありますゆえ」


「おお、我が弟分か。あいつは俺が認めた、優れた武将だ。信長なら必ず蝮を討てるはずじゃ。……む? 待てよ。たしか報告によると、信長は従軍しておらぬのではないか?」


「はい。信秀が許可しなかったようです」


 長門守がそう答えると、義賢はチッと舌打ちし、床几から立ち上がる。そして、陣幕の外に出て、天を仰いだ。


「信秀め。なぜ、息子をこの大事な一戦に従軍させてやらなかったのだ。武将はいくら戦いの才能があっても、場数を踏まねば成長できぬのだぞ」

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