利政の失敗

「かかれ、かかれッ。尾張の軍勢がやって来るまでまだ時間がある。信秀がこの地に駆けつける前に、城を落とすのじゃ!」


 寺内町じないちょうに立て籠もった一向一揆勢を激戦の末に破った斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、敗走する門徒たちを追い討ちせず、大柿おおがき城(大垣城)攻めに取りかかっていた。


 一向宗を信仰する民衆は美濃領内に大勢いる。ここで要らぬ虐殺をして本願寺教団を敵に回せば、今後の領内経営に支障をきたしかねない。そう考え、さすがの利政も一向宗に対しては残虐行為に及ばなかったのである。


 今はとにかく、速やかに大柿城を落とすことこそが最優先の課題だ。この城を奪取したうえで、味方を救うべく西美濃に侵入して来るであろう信秀軍を万全の態勢で迎撃するのである。これは時間との勝負だ、と利政は己に言い聞かせていた。


 しかし、そんな利政の思惑とは裏腹に、大柿城攻略は困難を極めることになった。斎藤軍は何度か城門に突撃を試みたのだが、援護射撃をしてくれるはずの六角ろっかく軍にやる気が全くなかったのである。


「父上! 城方の大将・織田播磨守はりまのかみが打って出て来ました! 我が軍はじりじりと押されています! 六角勢が敵方に矢を射かけていますが、まったく命中しておりません!」


 乱戦の中、嫡男の新九郎しんくろう利尚としなお(後の斎藤義龍よしたつ)がそう報告すると、利政は寄せ来る織田兵を斬り伏せつつ、「チッ! 義賢よしかため、わざとやっているな!」と荒々しく吠えた。


「弓術は六角のお家芸のはずじゃ! 戦う気があるのならば、敵に届かぬようなひょろひょろの矢を撃つはずがない!」


 戦況は最悪である。城主の織田播磨守による猛反撃にあい、斎藤軍は幾度目かの撤退を余儀なくされていた。


 六角軍は明らかに織田方に利する行動を取っている。義賢は利政の足を引っ張るつもりで戦場にやって来たとしか思えない。


 戦の邪魔をする味方ならば、いないほうがマシだ。ここにきて、利政は、謀略で六角軍を戦場に引っ張り出したことを大いに後悔していた。


「もしや、妖刀あざ丸の噂を流しているのも義賢なのでは――」


 ハッと気づき、利政はそう言いかけた。


 驚愕きょうがくの情報がもたらされたのは、その直後のことである。


「殿、一大事でござる! 竹が鼻(現在の岐阜県羽島市竹鼻町)の方角から黒煙が上がっておりまする!」


 斎藤家の侍大将が、南東の空を指差しながらそうわめいた。


「何ッ⁉」と驚いた利政と新九郎は、竹が鼻城がある方角を睨む。


 たしかに、曇り空でもはっきりと目に見えるほどの大きな黒煙が上がっている。尾張の兵たちが竹が鼻城を攻めているか、村々を焼き払っているのだろう。


 竹が鼻は、大柿城から約二里(十キロメートル)ほどしか離れていない。尾張軍が、すぐ目と鼻の先まで来ているのだ。


「父上。どうやら、信秀が我らの領内に討ち入ってきたようですぞ」


「いくら何でも早すぎる! 信秀め、背中に羽でも生やして飛んできおったのか⁉」


 この信秀の素早い出陣は、利政にとっては大きな計算違いだった。


 利政は、信秀の主君・大和守やまとのかみ達勝みちかつや尾張の地侍たちに調略の手を伸ばし、「共に信秀を討たん」という誘いの手紙を執拗に送っていたのである。少なくない数の尾張武士たちが利政の勧誘に揺れ動き、信秀の美濃出兵の呼びかけにすぐには応じぬはずだ――そう読んでいたのだが、信秀軍の電光石火の動きを見ると、兵力は短時間で集まったようである。


「信秀は、戦があるたびに大軍勢を動員できている。尾張国内ではよほど人望があるのだな……」


「うちの殿様は嫌われ者ゆえ、出陣を呼びかけても地侍たちがなかなか集まらぬ。信秀とは大違いじゃ」


「信秀は『室町幕府の再興』という堂々たる正義を掲げて戦っているのだ。我らの殿様は、『美濃の国主様をないがしろにしている大悪人』という評判がつきまとっている。人気が無いのは仕方あるまい」


 斎藤家の家臣たちがボソボソとささやき合うのが聞こえ、利政は「うるさい! 黙れ!」と怒鳴った。


「下の者が上の者に打ち克つ。下剋上こそが、この乱世の正義なのだ。旧体制の上で胡坐あぐらをかいている力無き主君から権力を奪う勇気を持たず、いつまでも古き時代の亡霊どもにペコペコと頭を下げている信秀など、俺は絶対に認めん。この斎藤利政こそが、新しき時代の新しい正義なのだ!」


 そう激語しつつ、陰口を叩いていた家臣たちを乱暴に蹴飛ばしていく。自分が嫌われ者だということは分かっているが、それを他人に指摘されるのは利政のような男でも不愉快なのである。


「父上! 家来に八つ当たりをしている場合ではありませんぞ! 急ぎ対策を講じねば!」


 そのまま家来を蹴り殺しそうな勢いだったため、新九郎は父にしがみつき、必死になって止めた。しかし、激昂している利政は「分かっておるわい! 触るな、デカブツ!」とののしり、新九郎にも蹴りを三発喰らわせる。


 そうこうしている間にも、大柿城から出撃してきた敵兵たちが斎藤軍に殺到しつつあった。利政に斬りかかろうとした城方の侍を、新九郎が槍で突き殺す。


「父上。とにかく、今は本陣まで退きましょう。ここは危のうござる」


「父上父上うるさいッ! いちいち俺に指図をいたすな! ……撤退! 撤退じゃ!」




            *   *   *




 利政は、城方の猛攻から何とか逃れ、本陣に戻った。


 信秀の大軍が美濃に現れるまでに城を攻め落とすという利政の計画は、完全に狂ってしまった。このままでは、西進して来る信秀軍と大柿城の兵に挟撃され、斎藤軍は絶体絶命の危機に陥るだろう。


「城の包囲をいったん解き、全軍総力で信秀軍に短期決戦を挑むべきか……。いや、しかし、大柿城の兵たちが打って出て、合戦中に我らの背後をついてきたら総崩れになってしまう。ここはやはり、少数精鋭の部隊を信秀軍に当たらせ、信秀の進軍を鈍らせている間に、大柿城に一か八かの猛攻撃を仕掛けるほうが良いのでは……」


 夜明けの刻限が迫りつつある真夜中。

 利政は、美濃国の地図を睨み、一人で作戦を練っていた。策謀の天才であるこの男にしては珍しく、迷いが生じている。


 これまで、利政は暗殺・毒殺・だまし討ちなどの謀略を縦横無尽に駆使して、邪魔者を排除してきた。「敵が掲げる高尚な志や正義も、我が策略の前では無力に等しい」と嘲笑い、多くの人命を奪ってきた。勝つことこそが正義、敗者は悪だと信じてきた。


 しかし、今回の戦では、利政の計略がどうにも空回りしている。


 主君の土岐とき頼芸よりのりを脅して六角家への援軍要請の手紙を書かせたものの、やって来た六角義賢は援軍の役目をまったく果たしていない。恐らく、頼芸に対する義理があるので援軍を出しはしたが、内心は織田軍を勝たせたいと考えているのだろう。


 また、信秀も、六角が利政側に回ったことに動揺も尻込みもせず、烈火の勢いで美濃に討ち入って来た。織田と六角の動きを見ていると、断ち切ることができたと思っていた両者の同盟関係はいまだに続いているのかも知れない。


 それはすなわち、詭策きさくを用いても絶つことのできぬ絆が、織田と六角にはあるということだ。その絆の正体とは、


 ――まむしを討ちたい。


 という激しく燃え上がるような執念に他ならない。先ほど陰口を叩いていた家臣たちの言う通り、それほどまでに利政は嫌われ者であるということだ。


「俺の正義悪逆が通用しなくなってきている。娘婿の惨殺、罪人たちへの拷問、主君に対する横暴……。さすがに好き勝手やりすぎたということか」


 利政は、無意識に弱音を呟きつつ、ふと地図から顔を離した。誰もいないはずの陣幕内に人の気配を感じたため、斥候せっこうに放っていた武者が戻って来たのかと思ったのである。


 しかし、顔を上げても、護衛の兵たちが少し離れた場所で立っているだけだ。


 気のせいだったか――と呟きながら目線を下に戻した。


 そこには、女の生首があった。


「……うっ。お、お前は…………」


 机上に広げた美濃国の地図の上に、深雪みゆきの首がのっている。逆らった罪で牛裂きの刑に処した少女が、首だけの姿で、こちらを見つめている。首の根元からは血がどくどくと流れ、地図に描かれた美濃の城も山河も全てが赤く染まっていた。


 黒々と濡れた長い髪は、床几しょうぎに座っている利政の膝のあたりまで伸びてきて、蛇のように利政の腕や胴、足に絡みついていく。


 深雪の亡霊と目が合ってしまった利政は驚愕し、慌てて逃げようとしたが、絡みつく髪が邪魔で自由に動けない。


(腹の子供ごと命を奪った俺を恨んで化けて出おったか。娘の侍女の分際で生意気な女め)


 怒った利政は、「無礼者! さっさと失せろ!」と怒鳴った。


 すると、深雪は妖しく微笑み、唇をゆっくりと動かす。


 冷気を帯びた夜風が利政の頬をさわさわと撫で、彼女のことが耳に響いてきた。それは、深雪が死の間際に遺していった、あの呪いの言葉だった。



 ――じ、ご、く、で、まっ、て、い、ま、す。



「お……お前……」


 どこからともなく、赤ん坊の泣き声がおぎゃあおぎゃあと聞こえてくる。深雪が身籠っていた利政の子もすぐ近くにいるのだろう。


 これには、さすがの利政も、恐怖で頭がおかしくなりそうになった。


「う……失せろ‼ 失せろ失せろーーーッ‼」


 利政は、絶叫していた。


 ようやく体が動けるようになり、抜刀するやいなや太刀を深雪の首めがけて振り下ろした。しかし、切り裂いたのは、机上に広げていた地図だけだった。深雪の亡霊は忽然と消え去ってしまっていた。


「父上! いったい何の騒ぎですか⁉」


 その直後、新九郎が血相を変えて駆けつけた。


 利政は、心配して様子を見に来てくれた息子に「来るのが遅い!」と文句を言おうとしたが、肩で息をして声を発することもおぼつかなかったため、無言で睨むだけにとどめた。


「父上、ひどい汗ではありませんか。大丈夫ですか。私が背中をさすって……」


 新九郎がそう言いながら歩み寄って来ると、利政は息子の大きな手を荒々しくはねのける。拒絶された新九郎は、傷ついた表情になりながらも、無言で引き下がってその場にひざまずいた。


「邪魔だッ。用が無いのなら、向こうに行っていろ」


「……いえ、ご報告がありまする。物見ものみにやっていた者たちがたったいま戻って来ました」


「フン、そうか。ここに通せ」


 ようやく息が整ってきた利政がそう命じると、新九郎は数人の武者たちを陣幕内に呼び入れた。


 武者たちはそうとう狼狽ろうばいしている様子で、主君である利政に一礼するのも忘れ、「殿。一大事です」と口々に言った。


「どうした。信秀軍は今どこのあたりにいる。まさか、たった一日で道中の城や砦を全て落として、明日の朝には大柿城に現れると言うのではなかろうな」


「いえ……。そ、それが……」


「ええい、じれったい! さっさと言え! 何を躊躇ためらっておる!」


 気が立っている利政が叱責すると、武者の一人が口ごもりながら「の、信秀は、大柿には来ません!」と答えた。


「……何? 信秀は大柿には来ぬじゃと? 味方を見捨てて、撤退でもしたのか?」


「違いまする。織田軍は西進せず、まっしぐらに北進している模様。明日には、茜部あかなべの近くまで到達するはずです」


「あ、茜部じゃと⁉」


 仰天した利政は、そう叫びながらひっくり返りそうになった。


 茜部といえば、利政の本拠地である稲葉山城までおよそ一・四里(五・五キロメートル)しかない。信秀は西の大柿城を無視して、利政の居城めがけて進軍しているのだ。


「や……やられた! 今すぐ稲葉山城に戻らねば、我らは終わりじゃぞ!」


 稲葉山城は今、少数の兵力しかない。いくら難攻不落の山城でも、信秀が大軍勢で攻め、これに反利政勢力の美濃の武士たち――主に美濃国主・土岐頼芸の直臣――が呼応すれば、数日もかからぬうちに落城するだろう。


 帰る場所を失ったら元も子もない。大急ぎで撤退すべきだ。利政は即座に決断を下した。


「新九郎、全軍に告げよ! 大柿城攻めは中止じゃ! ただちに取って返し、稲葉山城に帰還する! 我が居城で信秀を迎え撃ってくれるわ!」


 利政はそう命令し、次の瞬間には「馬引けいッ」と怒鳴っていた。


 だが、そんな利政にさらなる驚愕の報せが飛び込んで来たのである。


 安藤あんどう守就もりなりが、「守護代殿! 大変ですぞ!」とひどく取り乱した様子で陣幕内に入って来た。


「どけ、守就。俺は忙しい」


「い、一大事なのです! それがしの話を聞いてくだされ!」


「信秀が稲葉山城目指して北進しておるのじゃ。これ以上の一大事があるものか。奴よりも早く稲葉山城に戻り、援軍の六角軍とともに迎撃の備えをせねばならんのだ。どけ、どけ!」


「その六角勢が、兵を引き上げようとしているのです! 義賢は『近江に帰る』と申しておりまする!」


「な、何じゃと! 六角義賢の奴、勝手に帰国するつもりなのか⁉ あ、あの高慢な若造め……なぜよりにもよって今なのじゃ!」








※余談ですが、作中で信秀が攻撃している竹が鼻はこの頃斎藤家の支配下にありましたが、天正十四年(一五八六)に木曽川大氾濫で川の流れが変わるまでは尾張国の所属だったようです。

天正十四年以降、美濃国の所属になりました。

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