信秀の秘策

 陰山かげやま一景かずかげの部隊が壊滅した翌日。

 大柿おおがき城(大垣城)を包囲している斎藤さいとう軍の陣営では、不気味な噂が流れ始めていた。


 ――陰山殿が流れ矢で両目を失明したのは、所持していた妖刀の祟りのせいらしい。あのあざ丸という脇差には、元の持ち主である千秋せんしゅう季光すえみつの怨霊が宿っていたのだ。


 というのである。


 この流言を陣中に広めたのは、言うまでもなく、六角ろっかく義賢よしかたの指示を受けた藤林ふじばやし長門守ながとのかみ伊賀崎いがのさき道順どうじゅんら伊賀忍者たちである。出陣する直前の陰山一景に対して義賢が「その刀には、千秋季光の怨念が宿っている」と大勢の前で忠告していたこともあり、斎藤軍の将兵は、やはりそうであったかとこの噂をあっさりと信じてしまった。


(まずい。城攻めを始めたばかりだというのに、早くも我が軍の士気が下がってきている。妖刀の噂ごときで、このざまか……)


 焦った斎藤利政としまさ道三どうさん)は、妖刀あざ丸の噂を口にしている者を見つけたら手当たり次第に厳罰に処したが、軍の士気低下は止まらなかった。


 一景は遠い距離から放たれた矢に両眼を潰されたのだ。神か仏か、悪霊の力が働いているとしか思えぬ偶然である。迷信のたぐいを信じる者が多いこの時代の人々にしてみたら、妖刀の祟りだと考えたほうが自然だった。


「こうなったら、俺自ら陣頭指揮を執って一揆勢を撃破してやる。さすれば、軍の士気も少しは高まるであろう。一揆勢を退治した後は、時を置かずに大柿城を総攻撃じゃ!」


 そう決断した利政は、精鋭兵を率い、火を噴く勢いで寺内町に攻めかかった。


 ちょうど同じ頃――古渡ふるわたり城を出陣した織田信秀の軍勢は、利政が想定していた倍以上の行軍速度で、美濃の国境に達しようとしていた。




            *   *   *




 信秀軍が美濃国に討ち入ったのは、十一月十七日のことである。


 信秀は、主君・達勝みちかつ(尾張下半国守護代)配下の清須きよす衆とともに出陣した後、尾張北部で織田与十郎よじゅうろう寛近とおちか(寛近のおきな。犬山城主)ら岩倉いわくら衆とも合流。当時の木曽川の主流の足近川あぢかがわを大船で渡河した。


 川を渡り終えると、信秀は兵士たちに腹ごしらえをさせるために全軍を小休止させた。


 三十数人の怪しげな男たちが織田陣営に姿を現したのは、その直後のことである。


 歩哨ほしょうの任にあたっていた内藤ないとう勝介しょうすけ隊の足軽・虎若とらわかが「誰だ、おめぇら」と槍を突きつけながら問うと、男たちの頭目らしき人物が前に進み出てよく通る声で答えた。


「それがしは土岐とき頼純よりずみ様の遺臣、羽田仁左衛門。織田軍に加勢すべくせ参じた。信秀殿に拝謁賜りたい」


「お……おお? 堅苦しい喋り方で半分くらい何言っているのか分からんが、とにかく味方だな? ちょっと待ってろ、うちの大将に聞いてくるから」


 虎若は勝介の元に走り、土岐頼純とかいう殿様の元家来が味方につきたいと言ってきているみたいですと報告した。勝介はそれを聞いて驚き、急いで信秀にその旨を言上した。


「何? 土岐頼純様の旧臣が我が陣に来ているだと? 本物であろうか。まむしの罠では……」


 陣幕内で茶漬けを大急ぎで胃に流し込んでいた信秀は、箸を置き、そういぶかしんだ。

 一緒に食事をしていた諸将たちも顔を見合わせ、「殺してしまったほうがよいのでは……?」とぶつぶつささやいている。これまでさんざん斎藤利政の奸計に手痛い目にあわされてきたため、警戒してしまうのも無理はない。しかし、そんな中で、


「いや、もしかしたら本物やも知れませぬ」


「試しに会ってみたらどうでしょう」


 と、信秀に助言する者が二人いた。最初槍はなやりの勇者・織田造酒丞さけのじょう道家どうけ尾張守おわりのかみである。

 読者諸氏もご記憶だと思うが、彼らは昨年、信秀の密命を受けて美濃へ潜入し、帰蝶きちょう姫や快川かいせん紹喜じょうきと接触していたため、頼純の遺臣たちが斎藤利政への報復を企んでいることを知っていたのだ。


「帰蝶姫は我らにこう申されておりました。『あなた方があの蝮を退治すると約束してくださるのならば、私は頼純様の旧臣たちに密かに手紙を送って織田家に協力するように要請する所存です』と。その頼純様の旧臣の筆頭が、たしか……羽田仁左衛門という名であったと記憶しておりまする」


 造酒丞がそう言うと、信秀は「ふむ……。蝮の娘がそのようなことを……」と呟きながらわずかに表情を曇らせた。


 伝え聞いた話によると、帰蝶姫は信長や信勝のぶかつとほぼ同年代の娘らしい。そんな自分の息子たちと同じ年頃の少女が父親への復讐心に囚われ、その死を願っているのだ。いくら骨肉こつにく相食あいはむ戦国の世でも、あまりにも哀しすぎる……。信秀はそう思い、胸を痛めていたのである。


「信秀様、ぜひお会いなされませ。利政を破る好機でござる。寛近の翁様をこちらの陣にお呼びして、その者らと引き合わせたら本物か否か分かるはずです」


 道家尾張守がそう進言すると、信秀はしばし思案した後、ウムとうなずいた。


 寛近の翁は、美濃との国境に近い犬山の城主なので、多くの美濃の諸侍と面識がある。土岐頼純の家来衆とも、打倒利政の連携を取るために何度となく連絡を取り合い、実際に会っていた。いま織田陣営に来ている頼純旧臣の中に数人は見知った顔があるはずである。


「あい分かった。頼純様の旧臣と名乗る者たちをここへ通せ。そして、寛近の翁殿も呼んでくれ」




            *   *   *




「おう。そなたは羽田仁左衛門殿ではないか。消息不明になっておったゆえ案じていたが、無事であったか」


 寛近の翁は、杖をつきながら陣幕内に入ってくるなり、仁左衛門にそう声をかけた。老いて益々ますますさかんな翁のハキハキとした声は陣中によく響き、その言葉を聞いた織田の諸将たちは(よかった。蝮の差し金ではなく、本物であったか)と安堵の息を漏らす。


「寛近の翁殿。この者たちは頼純様の遺臣であると名乗っていますが、まことですか」


 念のために信秀がそう確認すると、寛近の翁は仙人のように長い白髭をゆっくりと撫でながら「いかにも」と頷いた。


「羽田殿とあと四人ほど、わしが知っておる顔がある。彼らは間違いなく亡き頼純様の家来たちじゃ」


「それを聞いて安心しました。……それで、羽田殿とやら。我らに合力ごうりき(力を貸すこと)してくださるとはまことか?」


 信秀の問いに対して、仁左衛門は即座に「ハハッ」と力強く答えた。


「信秀殿が大柿城救援のために兵を出されたと聞き、急ぎ駆けつけました。織田軍が大柿城にて斎藤利政と決戦におよぶ際には、我らも大柿の近くで一斉蜂起いたす所存。すでに同志たちを当地に忍ばせておりまする。なにとぞ、土岐家の嫡流たる頼純様の無念を晴らしてくださいませ」


 仁左衛門に続き、他の頼純旧臣たちも「美濃の蝮に死を!」「帰蝶様も我らの味方なのじゃ!」などと口々に叫び、信秀に仇討ちの手助けを懇願した。


 信秀も味方が多いことに越したことは無い。あい分かった、と首を縦に振る。


「この信秀は、武家の秩序を取り戻さんと望む者だ。同じ武士として、貴殿たちの忠誠心には応えねばなるまい。だが、大柿の地に忍ばせているという同志は、今すぐ別の場所に移動させてもらいたい」


「え? それは何故でございますか」


「俺は、大柿城には向かわぬ」


「な、なんと⁉」


 信秀の発言に、仁左衛門ら頼純旧臣は驚愕きょうがくの声をあげた。


 斎藤・六角の連合軍が大柿城を包囲したため、信秀は味方の救援のために出陣したはずだ。それなのに大垣城へは進軍しないとはどういうことなか。


「そ……それは、大柿城のお味方を見捨てるということですか?」


「違う。常道の兵法では蝮の裏をかくことはできぬゆえ、大柿城へと西進せずに、意表を突いてこのまま北進するのだ。俺が利政の軍勢を無視して美濃領内の奥深くまで進撃すれば、さすがの利政も仰天するはずじゃ」


「なるほど……。見当違いの場所へ敵軍が進軍して暴れていると知れば、利政はそれを放っておけず、大柿城の包囲を解いて迎撃に向かうはずですな。信秀殿の軍略は、利政の策謀の上をいっています。感服いたしました」


 感動した仁左衛門は信秀をそう褒めたたえる。そして、「それでは、我らは信秀殿のご指示通りに動きまする。我々はどこで蜂起すればよろしいでしょうか」とたずねた。


 信秀は美濃国の地図を広げ、「ここじゃ」と美濃国のとある重要拠点を指し示した。


「我が思惑通りにいけば、決戦はこの地になるであろう。貴殿たちは先行し、我が軍がかの地にて利政と決戦におよぶ頃合いを見計らって蜂起してくれ」


御意ぎょい。では、ただちに向かいまする」


 仁左衛門たち頼純旧臣が一礼して去ろうとすると、信秀は「少し待たれよ」と呼び止めた。仁左衛門は何事かと思い、振り返る。


「……そなたたち、帰蝶姫と今でも連絡を取り合っておるのか」


「はい。帰蝶姫も頼純様の仇である利政の死を望んでおられますゆえ」


「それは、そなたたちの姫にとって良いことだとは思えぬな。余計なお節介やも知れぬが、利政を滅ぼすまでの間は、姫と一切連絡を取り合わぬほうがいいだろう」


何故なにゆえでしょうか」


「蝮は非情な男だ。自分を殺す計画に帰蝶姫が関わっていたと知れば、己の娘でも躊躇ちゅうちょなく命を奪う恐れがある。そなたたちにとっても大事な姫ならば、事が成るまでしばし距離を置け。虎の尾を踏ませるな。

 ……それに、利政がいくら悪逆非道な人間でも、父殺しの罪を十代の娘が背負うのはあまりにもこくであろう。利政の死に、帰蝶姫が直接関わることがないようにしてやって欲しい」


「…………信秀殿」


「俺にも同じ年頃の子供たちがおるゆえな。少し気になったのだ。それだけだ」


 仁左衛門は、衝撃を受けたような表情で、信秀を見つめた。


 そうか。自分たちは、亡き殿様が寵愛された幼い奥方様を修羅への道連れにしようとしていたのか――そう気づき、己の愚かさに恥じ入っていたのである。


(信秀は尾張の虎と渾名あだなされているが、思っていた以上に仁愛の心を持った英雄らしい。この男こそ、悪の権化たる斎藤利政を討つのにふわさしい武将だ)


 そう確信した仁左衛門は深々と頭を下げ、仲間たちとともに陣から去って行った。






 頼純の旧臣たちがいなくなると、弟の信光がやや怒ったような表情で「兄上よ」と言った。仁左衛門は信秀の帰蝶姫に対する思いやりに感動していたが、信光は不満があるらしい。


「どうした、信光」


「少し甘いぞ。なぜ、あんな要らぬことを言ったのだ。利政の娘の帰蝶姫が羽田仁左衛門らと気脈を通じていれば、美濃攻略に役立つではないか。信長や信勝と同世代の子供を利用したくないという気持ちは分からぬでもないが、理由はそれだけではないのだろう」


 兄弟なだけに、信光は信秀の心の内をよく分かっている。図星を突かれた信秀は、小さく嘆息すると、天を仰ぎながら本音を語った。


「……俺の最初の妻・稲姫いなひめは、父親と夫の板ばさみになって心を病み、はかなく死んでいった。帰蝶姫の境遇は稲姫によく似ている。それゆえ、哀れだと思ったのだ。男たちの争いの巻き添えで傷つく女子おなごをこれ以上増やしたくはない」


「フン……そうか」


 信光はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上は何も追及することはなかった。ただ、陣幕を出て一人になると、


「兄上は、人前ではけっして甘いことを言わぬ人であった。それが、なぜあんなことを……。戦の連続で疲れてきているのか?」


 と、不安そうにブツブツ呟くのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る